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新論 / 國體上

夫聖賢敎人、莫非所以修己治人之道、近世陋儒俗學、不達大體任意談説、其如牽強經義而競新衒博者、如舐毫鬪詞以釣名要利之流、紛紛擾擾、固無足言焉、而或昧於名義、稱明清爲華夏中國、以汚辱國體或逐時狥勢、亂名遺義、視 天朝如寓公、上傷 列聖之化、下害 幕府之義、或毛擧細故、唯貨利是談、自稱爲經濟之學、或脩飾邊幅、口談性命、言似高妙、行似惇謹、其實則郷原忘國家安危、而不達時務、凡此皆非忠非孝、而非堯舜孔子之所謂道者也、

新字:夫聖賢教人、莫非所以修己治人之道、近世陋儒俗学、不達大体任意談説、其如牽強経義而競新衒博者、如舐毫闘詞以釣名要利之流、紛紛擾擾、固無足言焉、而或昧於名義、称明清為華夏中国、以汚辱国体或逐時狥勢、乱名遺義、視 天朝如寓公、上傷 列聖之化、下害 幕府之義、或毛挙細故、唯貨利是談、自称為経済之学、或脩飾辺幅、口談性命、言似高妙、行似惇謹、其実則郷原忘国家安危、而不達時務、凡此皆非忠非孝、而非堯舜孔子之所謂道者也、

書き下し

夫れ聖賢の人を教ふるは、己を修め人を治むる所以の道に非ざるは莫し。近世の陋儒俗学、大体に達せず、意に任せて談説す。其の経義を牽強して新を競ひ博を衒ふ者の如き、毫を舐め詞を闘はせて以て名を釣り利を要むるの流の如きは、紛紛擾擾として、固より言ふに足る無し。而して或いは名義に昧く、明清を称して華夏中国と為し、以て国体を汚辱し、或いは時を逐ひ勢に狥ひ、名を乱し義を遺れ、天朝を視ること寓公の如く、上は列聖の化を傷り、下は幕府の義を害す。或いは細故を毛挙し、唯だ貨利を是れ談じ、自ら称して経済の学と為す。或いは辺幅を脩飾し、口に性命を談じ、言は高妙に似、行ひは惇謹に似たるも、其の実は則ち郷原にして国家の安危を忘れ、時務に達せず。凡そ此れ皆忠に非ず孝に非ずして、堯舜孔子の所謂道なる者に非ざるなり。

現代語訳

そもそも聖賢が人を教えるのは、すべて己を修め人を治めるための道である。ところが近ごろの見識の狭い儒者や俗な学問は、大きな筋道をわきまえず、思いのままに論じている。経書の意味をこじつけて新奇さを競い博識をひけらかす者や、筆をなめ言葉を飾って名声を釣り利益を求める連中は、ごたごたと騒がしいばかりで、もとより論ずるに足りない。また、名分の道理に暗く、明や清を「華夏」「中国」と呼んで我が国の国体を汚す者がいる。あるいは時流に追従し、名分を乱し義を忘れて、朝廷を身を寄せているだけの客人のように見なし、上は歴代天皇の教化を損ない、下は幕府の義を害する者がいる。あるいは細かな事柄をあげつらい、ただ財貨と利益ばかりを語って、自ら「経済の学」と称する者がいる。あるいは外見を飾り、口では性命(人の本性と天命)を論じ、言葉は高尚で行いは誠実そうに見えながら、実際は郷原(善人を装う偽善者)であって国家の安危を忘れ、時代の課題に通じていない者がいる。これらはみな忠でも孝でもなく、堯・舜・孔子のいう道ではない。

解説

正志斎はここで、同時代の学問の四つの型を批判する。経書をこじつける博識自慢、中国を「中華」と呼ぶ名分の取り違え、利益だけを語る「経済の学」、そして口先は高尚でも国の安危を忘れた郷原である。郷原は『論語』陽貨篇で孔子が「徳の賊」と退けた偽善者を指す。文政八年(1825)、異国船打払令の年に水戸藩主へ上呈された『新論』は、学問が修己治人という本来の目的を失ったことを危機の根に見た。現代に置き換えれば、知識を飾りや出世の道具にせず、組織や社会の課題に向き合うために学ぶという姿勢を問う一節である。

この章句が説くこと

水戸学学問名分郷原修己治人新論

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