導師導古典を学びたいすべての人に

新論 / 國體上

而人神相感、在盥未薦之間最爲至、天下之誠莫以尚焉、故中庸論誠、亦先言鬼神之德、而及於舜與武王周公之孝、宗廟饗之、子孫保之、遂言修祖廟、以至於郊社禘嘗、乃曰治國如示諸掌、孝經首章、引大雅念祖之詩、而其論聖人之孝、亦以周公郊祀及明堂之祀爲大、其意亦可見也、陰陽合而生物、精者爲人、其體即父祖之遺、其氣即天地之精、同體一氣、交相感應、故鬼神之德、體物不遺、洋洋如在左右、人神至誠之相感、固自然之符也、聖人因以設敎、郊社禘嘗、以事帝祀先、而報本反始之義盡矣、

新字:而人神相感、在盥未薦之間最為至、天下之誠莫以尚焉、故中庸論誠、亦先言鬼神之徳、而及於舜与武王周公之孝、宗廟饗之、子孫保之、遂言修祖廟、以至於郊社禘嘗、乃曰治国如示諸掌、孝経首章、引大雅念祖之詩、而其論聖人之孝、亦以周公郊祀及明堂之祀為大、其意亦可見也、陰陽合而生物、精者為人、其体即父祖之遺、其気即天地之精、同体一気、交相感応、故鬼神之徳、体物不遺、洋洋如在左右、人神至誠之相感、固自然之符也、聖人因以設教、郊社禘嘗、以事帝祀先、而報本反始之義尽矣、

書き下し

而して人神相感ずること、盥ひて未だ薦めざるの間に在りて最も至れりと為す。天下の誠、以て尚ふる莫し。故に中庸の誠を論ずる、亦先づ鬼神の徳を言ひて、舜と武王・周公の孝に及び、宗廟之を饗け、子孫之を保つと。遂に祖廟を修むることを言ひて、以て郊社禘嘗に至り、乃ち曰く、国を治むること諸を掌に示すが如しと。孝経の首章、大雅の祖を念ふの詩を引き、而して其の聖人の孝を論ずる、亦周公の郊祀及び明堂の祀を以て大と為す。其の意亦見るべきなり。陰陽合して物を生じ、精なる者人と為る。其の体は即ち父祖の遺にして、其の気は即ち天地の精なり。同体一気、交々相感応す。故に鬼神の徳、物に体して遺さず、洋洋として左右に在るが如し。人神至誠の相感ずるは、固より自然の符なり。聖人因りて以て教を設け、郊社禘嘗、以て帝に事へ先を祀りて、本に報い始めに反るの義尽せり。

現代語訳

そして人と神とが感じ合うのは、手を清めてまだ供えていない間が最も極まっている。天下の誠でこれにまさるものはない。だから『中庸』が誠を論じるときも、まず鬼神の徳を言い、舜や武王・周公の孝に及んで、宗廟がこれを受け、子孫がこれを保つと述べる。さらに祖廟を整えることを言って、郊社(天地の祭)や禘嘗(宗廟の祭)に至り、「国を治めることは掌を指し示すようにたやすい」と言う。『孝経』の首章は『詩経』大雅の祖先を思う詩を引き、聖人の孝を論じるにも、周公が郊祀や明堂の祭で祖先を祀ったことを最も大きいとしている。その意図もまた見てとれる。陰陽が合わさって物を生じ、その精なるものが人となる。その身体は父祖の遺したものであり、その気は天地の精である。同じ身体、同じ気であるから、たがいに感応し合う。だから鬼神の徳は物に宿ってもらすことがなく、満ちあふれてすぐ左右にいるかのようである。人と神とが至誠で感じ合うのは、もとより自然の符合である。聖人はそれによって教えを設け、郊社や禘嘗の祭で天帝に仕え祖先を祀って、根本に報い始めに立ち返る意義を尽くしたのである。

解説

割注の続きで、正志斎は『中庸』と『孝経』を引いて、祭祀と孝と治国が一続きであることを論じる。『中庸』は鬼神の徳から舜・武王・周公の孝へ進み、郊社禘嘗の礼に明らかなら国を治めるのは掌を示すようにたやすいと説く。『孝経』も周公が祖先を天に配して祀ったことを孝の極みとする。正志斎は、人の身体は父祖から、気は天地から来るので、人と神は自然に感応すると考え、ここに教化の根拠を置いた。誠が最も高まるのは供える直前だという指摘は、形より先に心の準備があることを教え、仕事に臨む姿勢にも通じる。

この章句が説くこと

誠報本中庸孝経祭祀鬼神

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る