臣軌 / 卷下 良將章
大王所賜金幣者,盡以與軍吏士大夫共之。受命之日,不問家事。今括一旦為將,東向而朝,軍吏無敢仰視之者,王所賜金帛,歸悉藏之。乃曰:‘視便利田宅可買者。’父子不同,執心各異,願王勿遣。”王曰:“吾計已決矣。”括母曰:“王終遣之,即有不稱,妾得無隨坐乎?”王曰:“不也。”括遂行,代廉頗為將四十餘日,趙兵果敗,括死軍覆。王以括母先言,不加誅也。若趙括母者,可謂豫識成敗之機也。
新字:大王所賜金幣者,尽以与軍吏士大夫共之。受命之日,不問家事。今括一旦為将,東向而朝,軍吏無敢仰視之者,王所賜金帛,帰悉蔵之。乃曰:‘視便利田宅可買者。’父子不同,執心各異,願王勿遣。”王曰:“吾計已決矣。”括母曰:“王終遣之,即有不称,妾得無随坐乎?”王曰:“不也。”括遂行,代廉頗為将四十余日,趙兵果敗,括死軍覆。王以括母先言,不加誅也。若趙括母者,可謂予識成敗之機也。
書き下し
大王の賜う所の金幣は、尽く以て軍吏士大夫と之を共にす。命を受くるの日、家事を問わず。今括一旦将と為り、東に向かいて朝すれば、軍吏敢えて之を仰ぎ視る者無し。王の賜う所の金帛は、帰りて悉く之を蔵す。乃ち曰く、『便利なる田宅の買う可き者を視よ』と。父子同じからず、心を執ること各々異なり、願わくは王遣わすこと勿かれ」と。王曰く、「吾が計已に決せり」と。括の母曰く、「王終に之を遣わさば、即し称わざる有らば、妾随坐するを得ること無からんか」と。王曰く、「不なり」と。括遂に行き、廉頗に代わりて将と為ること四十余日、趙の兵果たして敗れ、括死し軍覆る。王、括の母の先言を以て、誅を加えざるなり。趙括の母の若き者は、豫め成敗の機を識ると謂う可きなり。
現代語訳
(趙括の母の上書の続き)「大王から賜った金や絹は、すべて軍吏や士大夫と分かちあった。出陣の命を受けた日からは、家のことを問わなかった。ところが今、括はひとたび将軍となると、東を向いて部下の拝礼を受け、軍吏で彼を仰ぎ見ようとする者はいない。王から賜った金や絹は、家に持ち帰ってすべてしまい込む。そして『買うのに都合のよい田畑や屋敷を見ておけ』と言っている。父と子は同じではなく、心の持ち方がまるで違う。どうか王よ、括を派遣しないでほしい」。王は「私の考えはもう決まっている」と言った。括の母は「王がどうしても派遣なさるなら、もし務めを果たせなかったとき、私が連座することはないか」と言った。王は「そうはしない」と答えた。括はついに出陣し、廉頗に代わって将軍となって四十日余りで、趙の軍は果たして敗れ、括は戦死し、軍は全滅した。王は括の母が事前に言っていたので、罰を加えなかった。趙括の母のような人こそ、成功と失敗の分かれ目を前もって見抜いていたと言うべきである。
解説
関連する章句
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史記 廉頗藺相如列伝趙括少き時より兵法を学び、兵事を言ひ、以為へらく天下に能く当たるもの莫しと。嘗てその父奢と兵事を言ふ、奢難ずる能はず、然れども善しと謂はず。括の母、奢にその故を問ふ。奢曰く、「兵は死地なり、而るに括は易くこれを言ふ。趙をして括を将とせざらしめば即ち已む、若し必ずこれを将とせば、趙の軍を破る者は必ず括ならん」と。括の将に行かんとするに及び、その母上書して王に言ひて曰く、「括は将たらしむべからず」と。王曰く、「何を以てぞ」と。対へて曰く、「始め妾その父に事ふ、時に将為り、身の飯飲を奉じて食を進むる所の者は十を以て数へ、友とする所の者は百を以て数ふ。大王及び宗室の賞賜する所の者は尽く以て軍吏士大夫に予へ、命を受くるの日、家事を問はず。今、括は一旦将と為り、東向して朝す、軍吏敢へてこれを仰ぎ視る者無し。王の賜ふ所の金帛は、帰りて家に蔵し、而して日に便利なる田宅の買ふべき者を視てこれを買ふ。王以為へらくその父に何如ぞ。父子心を異にす、原(ねが)はくは王遣はすこと勿かれ」と。王曰く、「母これを置け、吾已に決せり」と。括の母因りて曰く、「王終にこれを遣はさば、即し称はざるが如き有らば、妾隨坐すること無きを得んや」と。王許諾す。趙括既に廉頗に代はり、悉く約束を更め、軍吏を易へ置く。秦の将白起これを聞き、
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『臣軌』卷下 良將章夫れ攻守の法は、其の来たらざるを恃むこと無く、吾が以て之を待つ有るを恃む。其の攻めざるを恃むこと無く、吾が攻む可からざるを恃むなり。夫れ将若し能く事に先だちて事を慮り、防に先だちて防を求むれば、此くの如き者は、守れば則ち攻む可からず、攻むれば則ち守る可からず。若し驕貪にして敵を軽んずる者は、必ず人の擒うる所と為る。昔、子発、楚の将と為りて秦を攻む。軍、饋餉を絶つ。人をして王に請わしめ、因りて帰りて其の母を問わしむ。其の母、使者に問いて曰く、「士卒恙無きを得るか」と。使者曰く、「士卒は菽粒を升分して之を食らう」と。又問いて曰く、「将軍恙無きを得るか」と。対えて曰く、「将軍は朝夕芻豢黍粱なり」と。後に子発秦を破りて帰るに、母、門を閉じて納れず。人をして之を数めしめて曰く、「子は越王勾践の呉を伐ちしを聞かざるか。客に醇酒一器を献ずる者有り、王人をして江の上流に注がしめ、士卒をして其の下流を飲ましむ。味は美を加うるに足らざれども、士卒は醉える容有るが如し、其の徳を懐えばなり。戦うこと自ら五たびす。異日又一囊の糗糒を献ずる者有り、王又以て軍士に賜い、軍士分かちて之を食らう。甘きは嗌を逾ゆるに足らざれども、士卒は飫ける容有るが如し、其の恩を懐えばなり。戦うこと自ら十たびす。今子将と為りて、士卒は菽粒を升分して之を食らうに、子独り朝夕芻豢黍粱なるは、何ぞや。夫れ人をして死地に入らしめて其の上に康楽するは、復た勝ちを得ると雖も、其の術に非ざるなり。子は吾が子に非ず、吾が門に入ること無かれ」と。子発謝し、然る後に入るを得たり。後に将と為るに及びて、乃ち士卒と其の甘苦を同じくし、人恩徳を懐い、争いて矢石に先んじ、遂に功名日に遠し。子発の母の若き者は、将為るの道を知ると謂う可し。昔、趙の孝成王の時、秦、趙を攻む。趙王、趙括をして廉頗に代わりて将と為らしむ。括の母、上書して曰く、「括は将たらしむ可からざるなり。始め妾其の父に事うるに、父時に将為り、身ら飯を奉じて食を進むる所の者は、十を以て数え、交わる所の者は、百を以て数う。
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史記 廉頗藺相如列伝奇兵を縦ち、詳りて敗走し、而してその糧道を絶ち、その軍を分断して二と為す、士卒心を離す。四十余日、軍餓う、趙括鋭卒を出だして自ら博戦す、秦の軍趙括を射殺す。括の軍敗れ、数十万の衆遂に秦に降る、秦悉くこれを阬にす。趙の前後に亡ふ所凡そ四十五万。明年、秦の兵遂に邯鄲を囲む、歳余にして、幾ど脱るるを得ず。楚・魏の諸侯来たり救ふに頼りて、乃ち邯鄲の囲みを解くを得たり。趙王もまた括の母の先言を以て、竟に誅せざるなり。邯鄲の囲み解けてより五年、而して燕、栗腹の謀を用ふ、曰く「趙の壮者は長平に尽き、その孤未だ壮ならず」と。兵を挙げて趙を撃つ。趙、廉頗をして将たらしめ、撃ちて、大いに燕の軍を鄗に破り、栗腹を殺し、遂に燕を囲む。燕五城を割きて和を請ふ、乃ちこれを聴す。趙、尉文を以て廉頗を封じて信平君と為し、仮の相国と為す。
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史記 廉頗藺相如列伝趙奢既已に秦の間を遣り、甲を巻きてこれに趨く、二日一夜にして至り、善く射る者をして閼与を去ること五十里にして軍せしむ。軍塁成る、秦人これを聞き、甲を悉くして至る。軍士許歴、軍事を以て諫めんことを請ふ、趙奢曰く、「これを内れよ」と。許歴曰く、「秦人は趙の師の此に至るを意はず、その来たること気盛んなり、将軍必ずその陣を厚く集めて以てこれを待て。然らずんば、必ず敗れん」と。趙奢曰く、「請ふ令を受けん」と。許歴曰く、「請ふ鈇質の誅に就かん」と。趙奢曰く、「胥つて後に邯鄲に令せん」と。許歴また諫めんことを請ひて曰く、「先に北山の上に拠る者は勝ち、後れて至る者は敗る」と。趙奢許諾し、即ち万人を発してこれに趨かしむ。秦の兵後れて至り、山を争ひて上るを得ず、趙奢兵を縦にしてこれを撃ち、大いに秦の軍を破る。秦の軍解きて走り、遂に閼与の囲みを解きて帰る。趙の恵文王、奢に号を賜ひて馬服君と為し、許歴を以て国尉と為す。趙奢是に於いて廉頗・藺相如と位を同じくす。後四年、趙の恵文王卒し、子の孝成王立つ。七年、秦と趙と兵長平に相距ぐ。時に趙奢已に死し、而して藺相如病篤し、趙、廉頗をして将として秦を攻めしむ、秦数々趙の軍を敗る、趙の軍壁を固くして戦はず。秦数々戦ひを挑む、廉頗肯んぜず。趙王秦の間を信ず。秦の間言ひて曰く、「秦の悪む所は、独り馬服君趙奢の子趙括の将と為るを畏るるのみ」と。趙王因りて括を以て将と為し、廉頗に代へんとす。藺相如曰く、「王、名を以て括を使ふは、柱に膠して瑟を鼓するが若きのみ。括は徒だ能くその父の書伝を読むのみにして、変に合するを知らざるなり」と。趙王聴かず、遂にこれを将とす。
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史記 趙世家秦其の労に服して趙其の利を受く。彊大と雖も之を小弱に得ること能はず。小弱顧って能く之を彊大に得んや。豈に無故の利に非ずと謂ふべけんや。且つ夫れ秦は牛田の水を以て糧を通じて蚕食し、上乗倍戦する者、上国の地を裂く。其の政行はる、与に難を為すべからず。必ず受くる勿かれ」と。王曰く、「今百万の軍を発して攻むるも、年を踰え歳を歴て未だ一城をも得ず。今城市邑十七を以て吾が国に幣す。此れ大利なり」と。趙豹出づ。王、平原君と趙禹とを召して之に告ぐ。対へて曰く、「百万の軍を発して攻むるも、歳を踰えて未だ一城をも得ず。今坐して城市邑十七を受く。此れ大利なり、失ふべからざるなり」と。王曰く、「善し」と。乃ち趙勝をして地を受けしめ、馮亭に告げて曰く、「敝国の使者臣勝、敝国の君勝をして命を致さしむ。万戸の都三を以て太守を封じ、千戸の都三をもて県令を封じ、皆世世侯と為さん。吏民皆爵三級を益し、吏民能く相安んずれば、皆之に六金を賜はん」と。馮亭涕を垂れて使者に見えずして曰く、「吾は三不義に処らざるなり。主の為に地を守りて、死固すること能はざるは、不義の一なり。之を秦に入れよとあるに、主の令を聴かざるは、不義の二なり。主の地を売りて之を食むは、不義の三なり」と。趙遂に兵を発して上党を取る。廉頗将軍、長平に軍す。七月、廉頗免ぜられて趙括代はりて将たり。秦人趙括を囲む。趙括軍を以て降る。卒四十余万皆之を阬にす。王、趙豹の計を聴かざりしを悔ゆ。故に長平の禍有り。王還り、秦に聴かず。秦邯鄲を囲む。武垣の令傅豹・王容・蘇射、燕の衆を率ゐて燕の地に反す。趙、霊丘を以て楚の相春申君を封ず。八年、平原君楚に如きて救ひを請ふ。還りて、楚来り救ひ、及び魏の公子無忌も亦来り救ふ。秦の邯鄲を囲むこと乃ち解く。十年、燕昌壮を攻め、五月之を抜く。
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史記 白起王翦列伝その将軍趙括、鋭卒を出だして自ら搏戦す、秦軍趙括を射殺す。括の軍敗れ、卒四十万人武安君に降る。武安君計りて曰く、「前に秦已に上党を抜くも、上党の民は秦たるを楽しまずして趙に帰す。趙の卒は反覆す。尽くこれを殺すに非ずんば、恐らくは乱を為さん」と。乃ち詐りを挟みて尽くこれを阬殺し、その小なる者二百四十人を遺して趙に帰す。前後に斬首虜すること四十五万人。趙人大いに震ふ。四十八年十月、秦また上党郡を定む。秦、軍を分かちて二と為す。王齕は皮牢を攻め、これを抜く。司馬梗は太原を定む。
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