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臣軌 / 卷下 良將章

夫攻守之法,無恃其不來,恃吾有以待之;無恃其不攻,恃吾之不可攻也。夫將若能先事慮事,先防求防,如此者,守則不可攻,攻則不可守。若驕貪而輕於敵者,必為人所擒。昔子發為楚將攻秦,軍絕饋餉。使人請於王,因歸問其母。其母問使者曰:“士卒得無恙乎?”使者曰:“士卒升分菽粒而食之。”又問曰:“將軍得無恙乎?”對曰:“將軍朝夕芻豢黍粱。”後子發破秦而歸,母閉門而不納。使人數之曰:“子不聞越王勾踐之伐吳歟?客有獻醇酒一器者,王使人注江上流,使士卒飲其下流。味不足加美,而士卒如有醉容,懷其德也。戰自五焉。異日又有獻一囊糗糒者,王又以賜軍士,軍士分而食之。甘不足逾嗌,士卒如有飫容,懷其恩也。戰自十焉。今子為將,士卒升分菽粒而食之,子獨朝夕芻豢黍粱,何也?夫使人入於死地而康樂於其上,雖復得勝,非其術也。子非吾子,無入吾門!”子發謝,然後得入。及後為將,乃與士卒同其甘苦,人懷恩德,爭先矢石,遂功名日遠。若子發之母者,可謂知為將之道矣。昔趙孝成王時,秦攻趙。趙王使趙括代廉頗為將。括母上書曰:“括不可使將也。始妾事其父,父時為將,身所奉飯而進食者,以十數;所交者,以百數。

新字:夫攻守之法,無恃其不来,恃吾有以待之;無恃其不攻,恃吾之不可攻也。夫将若能先事慮事,先防求防,如此者,守則不可攻,攻則不可守。若驕貪而軽於敵者,必為人所擒。昔子発為楚将攻秦,軍絶饋餉。使人請於王,因帰問其母。其母問使者曰:“士卒得無恙乎?”使者曰:“士卒升分菽粒而食之。”又問曰:“将軍得無恙乎?”対曰:“将軍朝夕芻豢黍粱。”後子発破秦而帰,母閉門而不納。使人数之曰:“子不聞越王勾践之伐呉歟?客有献醇酒一器者,王使人注江上流,使士卒飲其下流。味不足加美,而士卒如有酔容,懐其徳也。戦自五焉。異日又有献一嚢糗糒者,王又以賜軍士,軍士分而食之。甘不足逾嗌,士卒如有飫容,懐其恩也。戦自十焉。今子為将,士卒升分菽粒而食之,子独朝夕芻豢黍粱,何也?夫使人入於死地而康楽於其上,雖復得勝,非其術也。子非吾子,無入吾門!”子発謝,然後得入。及後為将,乃与士卒同其甘苦,人懐恩徳,争先矢石,遂功名日遠。若子発之母者,可謂知為将之道矣。昔趙孝成王時,秦攻趙。趙王使趙括代廉頗為将。括母上書曰:“括不可使将也。始妾事其父,父時為将,身所奉飯而進食者,以十数;所交者,以百数。

書き下し

夫れ攻守の法は、其の来たらざるを恃むこと無く、吾が以て之を待つ有るを恃む。其の攻めざるを恃むこと無く、吾が攻む可からざるを恃むなり。夫れ将若し能く事に先だちて事を慮り、防に先だちて防を求むれば、此くの如き者は、守れば則ち攻む可からず、攻むれば則ち守る可からず。若し驕貪にして敵を軽んずる者は、必ず人の擒うる所と為る。昔、子発、楚の将と為りて秦を攻む。軍、饋餉を絶つ。人をして王に請わしめ、因りて帰りて其の母を問わしむ。其の母、使者に問いて曰く、「士卒恙無きを得るか」と。使者曰く、「士卒は菽粒を升分して之を食らう」と。又問いて曰く、「将軍恙無きを得るか」と。対えて曰く、「将軍は朝夕芻豢黍粱なり」と。後に子発秦を破りて帰るに、母、門を閉じて納れず。人をして之を数めしめて曰く、「子は越王勾践の呉を伐ちしを聞かざるか。客に醇酒一器を献ずる者有り、王人をして江の上流に注がしめ、士卒をして其の下流を飲ましむ。味は美を加うるに足らざれども、士卒は醉える容有るが如し、其の徳を懐えばなり。戦うこと自ら五たびす。異日又一囊の糗糒を献ずる者有り、王又以て軍士に賜い、軍士分かちて之を食らう。甘きは嗌を逾ゆるに足らざれども、士卒は飫ける容有るが如し、其の恩を懐えばなり。戦うこと自ら十たびす。今子将と為りて、士卒は菽粒を升分して之を食らうに、子独り朝夕芻豢黍粱なるは、何ぞや。夫れ人をして死地に入らしめて其の上に康楽するは、復た勝ちを得ると雖も、其の術に非ざるなり。子は吾が子に非ず、吾が門に入ること無かれ」と。子発謝し、然る後に入るを得たり。後に将と為るに及びて、乃ち士卒と其の甘苦を同じくし、人恩徳を懐い、争いて矢石に先んじ、遂に功名日に遠し。子発の母の若き者は、将為るの道を知ると謂う可し。昔、趙の孝成王の時、秦、趙を攻む。趙王、趙括をして廉頗に代わりて将と為らしむ。括の母、上書して曰く、「括は将たらしむ可からざるなり。始め妾其の父に事うるに、父時に将為り、身ら飯を奉じて食を進むる所の者は、十を以て数え、交わる所の者は、百を以て数う。

現代語訳

攻めと守りの法則は、敵が来ないことを頼みにするのではなく、自分に待ち受ける備えがあることを頼みにする。敵が攻めてこないことを頼みにするのではなく、自分が攻められない態勢にあることを頼みにするのである。将軍がもし事が起こる前に事を考え、防ぐべきことが起こる前に防ぎ方を求めるならば、このような者は、守れば攻め落とされず、攻めれば敵は守りきれない。もし驕って欲深く、敵を軽んじる者であれば、必ず人に捕らえられる。昔、子発(しはつ、楚の将軍)が楚の将として秦を攻めたとき、軍の糧食が途絶えた。使者を送って王に補給を願わせ、ついでに家に寄って母の安否を尋ねさせた。母は使者に「兵士たちは無事か」と尋ねた。使者は「兵士たちは豆粒を升で分けあって食べている」と答えた。さらに「将軍は無事か」と尋ねると、「将軍は朝晩、牛や羊や豚の肉と上等の穀物を食べている」と答えた。その後、子発が秦を破って帰ってくると、母は門を閉じて家に入れなかった。人をやって子発をこう責めさせた。「お前は越王勾践(こうせん)が呉を討ったときの話を聞いていないのか。ある客が上等の酒を一樽献上すると、王はそれを川の上流に注がせ、兵士たちに下流の水を飲ませた。味が美味しくなるほどではなかったが、兵士たちは酔ったような顔をした。王の徳を思ったからである。兵士は一人で五人分戦った。別の日、また乾飯を一袋献上する者がいると、王はそれも兵士に賜り、兵士たちは分けあって食べた。甘さが喉を越すほどもなかったが、兵士たちは満腹したような顔をした。王の恩を思ったからである。兵士は一人で十人分戦った。今お前は将となり、兵士は豆粒を升で分けあって食べているのに、お前だけ朝晩肉と上等の穀物を食べているのはどういうことか。人を死地に入らせておいて、その上で自分だけ安楽に暮らすのは、たとえ勝ったとしても将の道ではない。お前は私の子ではない。わが家の門を入ってはならない」。子発が謝罪して、ようやく家に入ることができた。その後、将となったときには兵士と甘苦をともにしたので、人々はその恩徳を思い、先を争って矢や石の中へ進み、こうして功名は日ごとに遠くまで広まった。子発の母のような人こそ、将たる者の道を知っていたと言うべきである。昔、趙の孝成王のとき、秦が趙を攻めた。趙王は趙括(ちょうかつ、名将趙奢の子)を廉頗(れんぱ、趙の老将)に代えて将軍にした。趙括の母は上書してこう言った。「括を将軍にしてはならない。かつて私がその父(趙奢)に仕えていたころ、父は当時将軍であったが、自ら食事を捧げて食べさせた相手は十人単位で数えるほどおり、友として交わった相手は百人単位で数えるほどいた。

解説

良將章の中で、攻守の備えを説いたあと、子発の母と趙括の母という二人の母の話を並べる一段である。敵が来ないことを当てにせず、来ても大丈夫な備えを当てにせよというのは『孫子』九変篇に通じる考えである。子発の母の話は『列女伝』母儀伝に見え、兵が豆を分けあって食べているのに自分だけ肉を食べていた息子を、勝って帰っても家に入れなかった。越王勾践が一樽の酒を川に流して全軍と分け合った話を引いて、将の道は兵と甘苦をともにすることだと教える。趙括の母の話は次の段に続き、父の趙奢が部下を厚く養ったことを語り始める。上に立つ者が一人だけ楽をすれば、成果を上げても部下の心は離れるというのは、今の組織でもそのまま起こることである。

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