詩経 / 小雅・魚藻之什・魚藻
《魚藻》,刺幽王也。言萬物失其性,王居鎬京,將不能以自樂,故君子思古之武王焉。 魚在在藻,有頒其首。王在在鎬,豈樂飲酒。 魚在在藻,有莘其尾。王在在鎬,飲酒樂豈。 魚在在藻,依于其蒲。王在在鎬,有那其居。
新字:《魚藻》,刺幽王也。言万物失其性,王居鎬京,将不能以自楽,故君子思古之武王焉。 魚在在藻,有頒其首。王在在鎬,豈楽飲酒。 魚在在藻,有莘其尾。王在在鎬,飲酒楽豈。 魚在在藻,依于其蒲。王在在鎬,有那其居。
書き下し
魚藻(ぎょそう)は、幽王(ゆうおう)を刺(そし)るなり。万物其の性を失い、王鎬京(こうけい)に居るも、将に以て自ら楽しむこと能わざらんとするを言う。故に君子古(いにしえ)の武王を思う。 魚在り藻に在り、頒(ふん)たる其の首有り。王在り鎬に在り、豈楽(がいらく)して酒を飲む。 魚在り藻に在り、莘(しん)たる其の尾有り。王在り鎬に在り、酒を飲みて楽豈(らくがい)す。 魚在り藻に在り、其の蒲(がま)に依る。王在り鎬に在り、那(だ)たる其の居有り。
現代語訳
「魚藻」の詩は、幽王(西周最後の王)をそしったものである。あらゆるものがその本来のあり方を失い、王は都の鎬京(こうけい)にいながら、もはや自ら安らかに楽しむこともできなくなろうとしている、ということを言う。だから君子は、いにしえの武王の世を思い慕ったのである。 魚がいる、藻のなかにいる、大きな頭をのぞかせて。王がおられる、鎬の都におられる、和やかに楽しんで酒を召し上がる。 魚がいる、藻のなかにいる、長い尾をゆらめかせて。王がおられる、鎬の都におられる、酒を召し上がって和やかに楽しむ。 魚がいる、藻のなかにいる、蒲(がま)の陰に身を寄せて。王がおられる、鎬の都におられる、そのお住まいはゆったりと安らかだ。
解説
この章句が説くこと
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