詩経 / 小雅・谷風之什・無将大車
《無將大車》,大夫悔將小人也。 無將大車,祇自塵兮。無思百憂,祇自疷兮。 無將大車,維塵冥冥。無思百憂,不出于熲。 無將大車,維塵雍兮。無思百憂,祇自重兮。
新字:《無将大車》,大夫悔将小人也。 無将大車,祇自塵兮。無思百憂,祇自疷兮。 無将大車,維塵冥冥。無思百憂,不出于熲。 無将大車,維塵雍兮。無思百憂,祇自重兮。
書き下し
無将大車(むしょうたいしゃ)は、大夫、小人を将(すす)めしことを悔ゆるなり。 大車を将(たす)くること無かれ、祇(ただ)自ら塵(ちり)まみるるのみ。百憂を思うこと無かれ、祇自ら疷(や)むのみ。 大車を将くること無かれ、維れ塵冥冥(めいめい)たり。百憂を思うこと無かれ、熲(けい)より出でず。 大車を将くること無かれ、維れ塵雍(おお)う。百憂を思うこと無かれ、祇自ら重(かさ)ぬるのみ。
現代語訳
「無将大車」の詩は、大夫が小人を推し進めたことを後悔したものである。 大きな荷車を後ろから押して助けるな、ただ自分が塵まみれになるだけだ。あれこれ百の憂いを思い悩むな、ただ自分が病むだけだ。 大きな荷車を押して助けるな、塵が舞い上がってあたりが暗くなるばかりだ。あれこれ百の憂いを思い悩むな、明るいところへ抜け出せなくなるだけだ。 大きな荷車を押して助けるな、塵が立ちこめて覆いかぶさるばかりだ。あれこれ百の憂いを思い悩むな、ただ自分の重荷を増やすだけだ。
解説
大きな荷車を押せば塵にまみれるだけ、あれこれ思い悩めば病むだけだ、と自らに言い聞かせる短い詩である。三章とも同じ型を繰り返し、塵の濃さが増していくにつれて憂いも重くなっていく。毛序は、大夫が小人を推挙したことを悔やむ詩とし、荷車を小人に、押して助けることを推挙にたとえたと読む。これに対し朱熹は、行役に苦しむ者が憂いを払おうと自らを慰める詩と見た。詩の言葉だけを読めば、どうにもならない心配事に囚われる自分を戒める歌として素直に受け取れる。重い車を押すのは、ときに誰かのためではなく、自分の内に抱えた不安そのものなのかもしれない。考えても変えられないことを考えすぎない知恵が、ここにある。
この章句が説くこと
詩経憂い自戒小人塵
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