詩経 / 国風・曹風・蜉蝣
《蜉蝣》,刺奢也。昭公國小而迫,無法以自守,好奢而任小人,將無所依焉。 蜉蝣之羽,衣裳楚楚。心之憂矣,於我歸處。 蜉蝣之翼,采采衣服。心之憂矣,於我歸息。 蜉蝣掘閱,麻衣如雪。心之憂矣,於我歸說。
新字:《蜉蝣》,刺奢也。昭公国小而迫,無法以自守,好奢而任小人,将無所依焉。 蜉蝣之羽,衣裳楚楚。心之憂矣,於我帰処。 蜉蝣之翼,采采衣服。心之憂矣,於我帰息。 蜉蝣掘閲,麻衣如雪。心之憂矣,於我帰説。
書き下し
蜉蝣(ふゆう)は、奢(おご)りを刺るなり。昭公(しょうこう)、国小にして迫り、法の以て自ら守る無く、奢りを好みて小人に任じ、将に依る所無からんとす。 蜉蝣の羽、衣裳楚楚(そそ)たり。心の憂うる、我に於いて帰りて処(お)らん。 蜉蝣の翼、采采(さいさい)たる衣服。心の憂うる、我に於いて帰りて息(いこ)わん。 蜉蝣掘閲(くつえつ)す、麻衣(まい)雪の如し。心の憂うる、我に於いて帰りて説(やど)らん。
現代語訳
「蜉蝣」の詩は、贅沢を非難したものである。曹の昭公は、国が小さく大国に迫られているのに、国を守る法度も持たず、贅沢を好んで取るに足りない者たちに政治を任せたので、やがて頼るところもなくなろうとしていた。 かげろうの羽は、衣裳のようにきらびやかに美しい。心は憂いに沈む、私はどこに身を寄せればよいのか。 かげろうの翅は、あでやかに彩られた衣服のよう。心は憂いに沈む、私はどこで休めばよいのか。 かげろうが土の穴を破って出てくる、その麻の衣は雪のように白い。心は憂いに沈む、私はどこに宿ればよいのか。
解説
朝に生まれて夕べに死ぬといわれるかげろう(蜉蝣)の、薄く美しい羽を衣裳にたとえ、その美しさと命のはかなさを重ねて憂える詩である。曹は周の文王の子を祖とする小国で、晋や斉などの大国に挟まれていた。毛詩序は、国が小さく危ういのに法度を立てず、贅沢を好んで小人に政治を任せる昭公を刺った詩と読む。きらびやかな衣服はかげろうの羽のように、すぐに消えてしまう、という含みである。一方、朱熹は、かげろうのはかなさを見て人生の短さを憂え、身の落ち着き先を思う詩とも読める、と述べている。詩そのものは、美しさへの感嘆と、その果てに何が残るのかという不安が一つになっている。華やかな装いや一時の成功にとらわれるほど、足元は危うくなる。時間の短さを知ることは、何に心を傾けるかを考え直すきっかけにもなる。
この章句が説くこと
詩経曹はかなさ贅沢蜉蝣
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