詩経 / 国風・鄭風・野有蔓草
《野有蔓草》,思遇時也。君之澤不下流,民窮於兵革,男女失時,思不期而會焉。 野有蔓草,零露漙兮。有美一人,清揚婉兮。邂逅相遇,適我願兮。 野有蔓草,零露瀼瀼。有美一人,婉如清揚。邂逅相遇,與子皆臧。
新字:《野有蔓草》,思遇時也。君之沢不下流,民窮於兵革,男女失時,思不期而会焉。 野有蔓草,零露漙兮。有美一人,清揚婉兮。邂逅相遇,適我願兮。 野有蔓草,零露瀼瀼。有美一人,婉如清揚。邂逅相遇,与子皆臧。
書き下し
野有蔓草は、時に遇わんことを思うなり。君の沢(たく)下流せず、民兵革に窮し、男女時を失い、期せずして会わんことを思う。 野に蔓草(まんそう)有り、零露(れいろ)漙(たん)たり。美なる一人有り、清揚(せいよう)婉(えん)たり。邂逅(かいこう)して相遇う、我が願いに適(かな)えり。 野に蔓草有り、零露瀼瀼(じょうじょう)たり。美なる一人有り、婉として清揚たり。邂逅して相遇う、子(し)と皆臧(よ)し。
現代語訳
「野有蔓草」の詩は、よい時に出会うことを願ったものである。君主の恵みが下々に及ばず、民は戦に苦しみ、男女は婚期を逸してしまったので、約束もなく思いがけず出会うことを願ったのである。 野にはつる草が茂り、降りた露がしっとりとたまっている。美しい人がひとり、澄んだ目もとと額がなんとも愛らしい。思いがけずめぐり会えて、わたしの願いにかなった。 野にはつる草が茂り、降りた露がたっぷりと置いている。美しい人がひとり、愛らしく、目もとも涼やか。思いがけずめぐり会えて、あなたとともに幸せになろう。
解説
露にぬれた野の草むらで、美しい人に思いがけず出会った喜びを歌う。「邂逅」という語はここにも見え、約束なしの偶然の出会いを意味する。毛詩序は、戦乱で男女が婚期を失い、せめて偶然にでも出会うことを願った詩と読んだ。朱熹は、男女が野で出会った歌とする。詩そのものは、朝露のみずみずしさと相手の澄んだ目もとが重なる、明るい出会いの歌である。『春秋左氏伝』襄公二十七年には、鄭の子大叔が晋の趙孟をもてなす席でこの詩を賦し、趙孟が「吾子(ごし)の恵みなり」と応じた場面がある。出会えた喜びの詩が、客を迎える喜びの挨拶として使われたのである。人生の大きな出会いの多くは、計画ではなく邂逅から始まる。
この章句が説くこと
詩経鄭出会い邂逅左伝
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