詩経 / 国風・衛風・河広
《河廣》,宋襄公母歸於衛,思而不止,故作是詩也。 誰謂河廣?一葦杭之。誰謂宋遠?跂予望之。 誰謂河廣?曾不容刀。誰謂宋遠?曾不崇朝。
新字:《河広》,宋襄公母帰於衛,思而不止,故作是詩也。 誰謂河広?一葦杭之。誰謂宋遠?跂予望之。 誰謂河広?曽不容刀。誰謂宋遠?曽不崇朝。
書き下し
河広は、宋の襄公の母衛に帰(かえ)され、思いて止まず、故に是の詩を作るなり。 誰か河を広しと謂う、一葦(いちい)これを杭(わた)る。誰か宋を遠しと謂う、跂(つまだ)ちて予(われ)これを望む。 誰か河を広しと謂う、曾(すなわ)ち刀(ふね)をも容(い)れず。誰か宋を遠しと謂う、曾ち朝を崇(お)えず。
現代語訳
「河広」の詩は、宋の襄公の母が離縁されて衛に戻され、宋を思う気持ちが止まず、この詩を作ったものである。 黄河が広いなどと誰が言うのか、葦の小舟一つで渡ってゆける。宋が遠いなどと誰が言うのか、つま先立ちすれば私にも見えるほどだ。 黄河が広いなどと誰が言うのか、小舟一艘も入らぬほど狭いのに。宋が遠いなどと誰が言うのか、朝のうちに着いてしまうほど近いのに。
解説
黄河など葦一本で渡れる、宋などつま先立ちすれば見える、と強がるように歌いながら、実際には渡ることのできない距離を嘆く詩である。毛詩序によれば、作者は衛の宣姜の娘で宋の桓公に嫁ぎ、のちの襄公を生んだが、離縁されて衛に帰された女性である。子が宋の君主となっても、離縁された母は礼の上で宋に戻ることができなかった。物理的には近いのに越えられない隔たりを、あえて「近い」と言い張ることで、かえって胸の痛みが伝わる。朱熹も、義として行けないので、ただ思いを述べるにとどめた歌と読んでいる。「一葦」という語は、後に一艘の小舟の意として詩文に広く用いられた。会いたい人がすぐそこにいるのに、立場や決まりのために会えないという苦しさは、形を変えて今もある。
この章句が説くこと
詩経母望郷宋衛
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