詩経 / 国風・邶風・静女
《靜女》,刺時也。衛君無道,夫人無德。 靜女其姝,俟我於城隅。愛而不見,搔首踟躕。 靜女其孌,貽我彤管。彤管有煒,說懌女美。 自牧歸荑,洵美且異。匪女之為美,美人之貽。
新字:《静女》,刺時也。衛君無道,夫人無徳。 静女其姝,俟我於城隅。愛而不見,搔首踟躕。 静女其孌,貽我彤管。彤管有煒,説懌女美。 自牧帰荑,洵美且異。匪女之為美,美人之貽。
書き下し
静女は、時を刺るなり。衛君は無道、夫人は無徳なり。 静女其れ姝(しゅ)たり、我を城隅(じょうぐう)に俟(ま)つ。愛して見えず、首を搔きて踟躕(ちちゅう)す。 静女其れ孌(れん)たり、我に彤管(とうかん)を貽(おく)る。彤管煒(い)たる有り、女(なんじ)の美を説懌(えつえき)す。 牧より荑(てい)を帰(おく)る、洵(まこと)に美にして且つ異なり。女の美と為すに匪(あら)ず、美人の貽(おく)りものなればなり。
現代語訳
「静女」の詩は、時世を風刺したものである。衛の君は道にはずれ、その夫人には徳がなかった。 しとやかな娘は美しく、町の城壁の隅で私を待っている。慕わしいのに姿が見えず、頭をかきながら行きつ戻りつする。 しとやかな娘は愛らしく、私に赤い管(彤管)を贈ってくれた。赤い管はつやつやと輝き、私はそのお前の美しさを喜ぶ。 牧場から摘んだ茅の若芽(荑)を贈ってくれた、まことに美しく珍しい。お前(若芽)そのものが美しいのではない、美しい人の贈り物だから美しいのだ。
解説
城壁の隅で待ち合わせた娘が姿を見せず、男が頭をかいてうろうろする。やがて娘から赤い管や茅の若芽を贈られ、その品が愛おしくてならない。そんな逢い引きの情景を、男の側から歌った詩である。毛詩序は、衛の君が無道で夫人に徳がないのを風刺し、しとやかな女性の姿を示して時世を刺したものと読む。これに対し朱熹『詩集伝』は、はっきり男女の逢い引きの詩と読み直した。詩の言葉そのものは、後者のほうが素直に通る。赤い管が何であるかは、女官が記録に用いた筆とも笛の類とも言われ定まらない。最終章の「お前が美しいのではない、美しい人の贈り物だから美しいのだ」という一句は、贈り物の価値が物ではなく贈り手への思いで決まるという、今も変わらぬ人の心を言い当てている。
この章句が説くこと
詩経恋贈り物逢い引き衛
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