史記 / 貨殖列伝
修之十年,國富,厚賂戰士,士赴矢石,如渴得飲,遂報彊吳,觀兵中國,稱號「五霸」。
新字:修之十年,国富,厚賂戦士,士赴矢石,如渇得飲,遂報彊呉,観兵中国,称号「五覇」。
書き下し
之を修むること十年にして、国富み、厚く戦士に賂ひ、士の矢石に赴くこと、渇して飲を得るが如し。遂に彊呉に報い、兵を中国に観し、号を五覇と称す。
現代語訳
(越は計然の策を)十年間実行して国が富み、戦士に手厚く褒美を与えたので、兵士たちは矢や石の飛び交う戦場へ、のどが渇いた者が水を得たかのように勇んで向かった。こうしてついに強国の呉に報復し、中原の国々に兵威を示し、五覇の一人と称されるに至った。
解説
計然の経済政策を十年間実行した越が、ついに呉への雪辱を果たしたことを記す短い段です。越王句践は会稽で呉王夫差に降伏したあと、薪の上に寝て苦い胆をなめる臥薪嘗胆の日々を送ったと伝えられますが、ここで司馬遷が強調するのは、その執念よりも経済の力です。国が富んだからこそ兵士に厚く報いることができ、兵士たちは渇いた者が水を求めるように戦場へ向かいました。精神論ではなく、国力の裏付けがあってこそ士気が上がり、強国を倒せたというのです。越はこうして中原に兵を示し、春秋五覇の一人に数えられました。組織の士気も、掛け声だけでは長続きしません。働きに正当に報いる財源と仕組みがあってこそ、人は力を尽くそうとします。逆転を狙うなら、まず足元の経営を十年かけて固めることが先なのです。
関連する章句
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史記 越王句践世家呉既に越を赦し、越王句踐国に反り、乃ち身を苦しめ思ひを焦がし、膽を坐に置き、坐臥即ち膽を仰ぎ、飲食にも亦た膽を嘗む。曰く、「女会稽の恥を忘れたるか」と。身自ら耕作し、夫人自ら織り、食に肉を加へず、衣に采を重ねず、節を折りて賢人に下り、賓客を厚遇し、貧を振ひ死を弔ひ、百姓と其の労を同じくす。
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呂氏春秋・順民④越王、會稽の恥に苦しみ、深く民の心を得て、以て必死を吳に致さんと欲す。身は枕席に安んぜず、口は厚味を甘しとせず、目は靡曼を視ず、耳は鐘鼓を聽かず。三年身を苦しめ力を勞し、脣を焦がし肺を乾かす。內は群臣に親しみ、下は百姓を養いて、以て其の心を來たし、甘脃有れども分くるに足らざれば、敢て食わず。酒有れば之を江に流し、民と之を同じくす。身は親ら耕して食らい、妻は親ら織りて衣る。味は珍を禁じ、衣は襲を禁じ、色は二あるを禁ず。時に出でて路を行けば、車を從え食を載せ、以て孤寡老弱の漬病を視、困窮して顏色愁悴して贍らざる者は、必ず身自ら之に食わす。是に於て諸大夫を屬めて之に告げて曰く、「願わくは一に呉と天の衷を徼め、呉越の國をして相與俱に殘なわしめん。士大夫、肝肺を履んで、日を同じくして死し、孤、呉王と頸を接し臂を交えて僨るるは、此れ孤の大いなる願いなり。此くの若くして得可からざるや、內に吾が國を量るに以て呉を傷うに足らず、外は事うるの諸侯、之を害すること能わず。則ち孤、將に國家を棄て、群臣を釋て、劍を服び刃を臂にし、容貌を變じ、名姓を易え、箕帚を執りて之に臣事して、以て呉王と一旦の死を爭わんとす。孤、要領屬ならず、首足處を異にし、四枝布裂し、天下の戮と為るを知ると雖も、孤の志必ず將に出でんとす。」是に於て異日果して呉と五湖に戰い、呉の師大いに敗れ、遂に大いに王宮を圍む。城門守らず、夫差を禽にし、呉相を戮し、呉を殘い、二年にして霸たり。此れ先づ民心に順えばなり。
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史記 貨殖列伝夫れ千乗の王、万家の侯、百室の君すら、尚ほ猶ほ貧を患ふ。而るを況んや匹夫編戸の民をや。昔者、越王句践、会稽の上に困しみ、乃ち范蠡・計然を用ふ。計然曰く、「闘ふを知れば則ち備へを修め、時に用ふれば則ち物を知る。二者形はるれば、則ち万貨の情得て観る可きのみ。故に歳金に在れば穣(みの)り、水なれば毀れ、木なれば饑ゑ、火なれば旱す。旱すれば則ち舟を資し、水なれば則ち車を資す。物の理なり。六歳穣り、六歳旱し、十二歳に一たび大いに饑う。夫れ糶(うりよね)は、二十なれば農を病ましめ、九十なれば末を病ましむ。末病めば則ち財出でず、農病めば則ち草辟かれず。上は八十を過ぎず、下は三十を減ぜずんば、則ち農末俱に利あり。糶を平らかにし物を斉しくし、関市乏しからざるは、治国の道なり。
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史記 越王句践世家句踐大夫種をして呉に行成せしめ、膝行頓首して曰く、「君王の亡臣句踐、陪臣種をして敢へて下執事に告げしむ、句踐請ふ臣と為り、妻は妾と為らん」と。呉王将に之を許さんとす。
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史記 越王句践世家且つ夫れ天与ふるに取らざれば、反りて其の咎を受く。『柯を伐る者は其の則遠からず』と。君、会稽の蚯を忘るるか」と。句践曰く、「吾子の言を聴かんと欲するも、吾其の使者に忍びず」と。范蠡乃ち鼓して兵を進めて曰く、「王已に政を執事に属せり。使者去れ。不ずんば且に罪を得んとす」と。呉の使者泣きて去る。句践之を憐み、乃ち人をして呉王に謂はしめて曰く、「吾王を甬東に置き、百家に君たらしめん」と。呉王謝して曰く、「吾老いたり。君王に事ふること能はず」と。遂に自殺す。乃ち其の面を蔽ひて曰く、「吾面の以て子胥に見ゆる無し」と。越王乃ち呉王を葬りて太宰嚭を誅す。句践已に呉を平げ、乃ち兵を以て北のかた淮を渡り、斉・晋の諸侯と徐州に会し、貢を周に致す。周の元王、人をして句践に胙を賜ひ、命じて伯と為さしむ。句践已に去り、淮の南を渡り、淮上の地を以て楚に与へ、呉の侵す所の宋の地を宋に帰し、魯に泗東方百里を与ふ。是の時に当たり、越の兵江・淮の東に横行し、諸侯畢く賀し、号して霸王と称す。
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史記 越王句践世家越王句践は、其の先は禹の苗裔にして、夏后帝少康の庶子なり。会稽に封ぜられ、以て禹の祀を奉守す。文身断髪し、草萊を披きて邑す。後二十余世にして、允常に至る。允常の時、呉王闔廬と戦ひて相怨み伐つ。允常卒し、子の句践立つ、是を越王と為す。元年、呉王闔廬、允常の死せるを聞き、乃ち師を興して越を伐つ。越王句践、死士をして戦ひを挑ましむ。三行にして呉の陳に至り、呼びて自剄す。呉の師之を観る。越因りて呉の師を襲撃し、呉の師檇李に敗れ、呉王闔廬を射傷つく。闔廬且に死せんとし、其の子夫差に告げて曰く、「必ず越を忘るる毋かれ」と。三年、句践、呉王夫差日夜兵を勒し、且に以て越に報いんとすと聞き、越、呉の未だ発せざるに先んじて往きて之を伐たんと欲す。范蠡諫めて曰く、「不可なり。臣聞く、兵は凶器なり、戦ひは逆徳なり、争ひは事の末なりと。陰かに逆徳を謀り、好んで凶器を用ひ、身を末とする所に試みるは、上帝之を禁ず、行ふ者は利あらず」と。越王曰く、「吾已に之を決せり」と。遂に師を興す。呉王之を聞き、悉く精兵を発して越を撃ち、之を夫椒に敗る。越王乃ち余兵五千人を以て会稽に保棲す。呉王追ひて之を囲む。越王、范蠡に謂ひて曰く、「子に聴かざるを以ての故に此に至る。之を為すこと奈何」と。蠡対へて曰く、「満を持する者は天と与にし、傾くを定むる者は人と与にし、事を節する者は地を以てす。辞を卑くし礼を厚くして以て之に遺れ。許さずんば、身づから之と市せよ」と。
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