史記 / 大宛列伝
大宛之跡,見自張騫。張騫,漢中人。建元中為郎。是時天子問匈奴降者,皆言匈奴破月氏王,以其頭為飲器,月氏遁逃而常怨仇匈奴,無與共擊之。
新字:大宛之跡,見自張騫。張騫,漢中人。建元中為郎。是時天子問匈奴降者,皆言匈奴破月氏王,以其頭為飲器,月氏遁逃而常怨仇匈奴,無与共撃之。
書き下し
大宛の跡は、張騫より見る。張騫は漢中の人なり。建元中に郎と為る。是の時、天子、匈奴の降る者に問ふに、皆言ふ、「匈奴、月氏の王を破り、其の頭を以て飲器と為す。月氏遁逃して常に匈奴を怨仇すれども、与に共に之を撃つもの無し」と。
現代語訳
大宛(中央アジアのフェルガナ地方の国)のことが知られるようになったのは、張騫に始まる。張騫は漢中(今の陝西省南部)の人である。建元年間(前140〜前135年)に郎(宮中の近侍官)となった。この頃、天子(武帝)が匈奴から投降してきた者に尋ねると、皆がこう言った。「匈奴は月氏の王を破り、その頭蓋骨を酒を飲む器にした。月氏は逃げ去り、いつも匈奴を怨み仇としているが、一緒に匈奴を撃ってくれる相手がいない」と。
解説
大宛列伝の書き出しです。司馬遷は西域の国々の記録を、一人の使者・張騫の足跡から語り始めます。武帝は即位してまもなく、北の強敵匈奴に対抗する手立てを探していました。そこへ投降者から、匈奴に王を殺され頭蓋骨を杯にされた月氏が、恨みを抱えながら組む相手を持たずにいるという話が入ります。敵の敵を味方にするという発想が、未知の西方へ使者を送る動機になりました。のちのシルクロードにつながる交流は、交易の夢ではなく軍事同盟の必要から始まったのです。仕事でも、大きな新規開拓はしばしば目の前の切実な課題から生まれます。現場の断片的な情報を拾い上げ、そこに組める相手を見出す目が、新しい道を開く第一歩になります。
関連する章句
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史記 大宛列伝漢、方に胡を滅ぼすを事とせんと欲し、此の言を聞き、因りて使ひを通ぜんと欲す。道必ず匈奴の中を更(ふ)れば、乃ち能く使ひする者を募る。騫、郎を以て募に応じ、月氏に使ひし、堂邑氏の故の胡奴甘父と俱に隴西を出づ。匈奴を経、匈奴之を得、伝へて単于に詣らしむ。単于之を留めて曰く、「月氏は吾が北に在り、漢何を以て往きて使ひするを得んや。吾、越に使ひせしめんと欲せば、漢肯へて我に聴さんや」と。騫を留むること十余歳、妻を与へ、子有り。然れども騫、漢の節を持して失はず。
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史記 大宛列伝匈奴の中に居ること益々寛なり。騫、因りて其の属と亡げて月氏に郷(む)かひ、西に走ること数十日にして大宛に至る。大宛、漢の財に饒かなるを聞き、通ぜんと欲して得ず。騫を見て喜び、問ひて曰く、「若(なんぢ)何くに之かんと欲するか」と。騫曰く、「漢の為に月氏に使ひせんとして、匈奴の道を閉ざす所と為る。今亡げたり。唯だ王、人をして我を導送せしめよ。誠に至るを得て漢に反らば、漢の王に賂遺する財物は勝げて言ふ可からず」と。大宛以て然りと為し、騫を遣はし、為に導繹を発し、康居に抵らしむ。康居伝へて大月氏に致す。大月氏の王已に胡の殺す所と為り、其の太子を立てて王と為す。既に大夏を臣として居り、地肥饒にして寇少なく、志安楽にして、又自ら漢に遠しと以(おも)ひ、殊に胡に報ゆるの心無し。騫、月氏より大夏に至るも、竟に月氏の要領を得ること能はず。留まること歳余にして還り、南山に并(そ)ひ、羌中より帰らんと欲して、復た匈奴の得る所と為る。留まること歳余、単于死し、左谷蠡王、其の太子を攻めて自ら立ち、国内乱る。騫、胡妻及び堂邑父と俱に亡げて漢に帰る。漢、騫を拝して太中大夫と為し、堂邑父を奉使君と為す。
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史記 大宛列伝曰く、大宛は匈奴の西南に在り、漢の正西に在り、漢を去ること万里可(ばか)りなり。其の俗は土著にして田を耕し、稲麦を田(つく)る。蒲陶酒有り。善馬多く、馬は血を汗す。其の先は天馬の子なり。城郭屋室有り。其の属邑は大小七十余城、衆は数十万可りなり。其の兵は弓矛騎射なり。其の北は則ち康居、西は則ち大月氏、西南は則ち大夏、東北は則ち烏孫、東は則ち扜穼・于窴なり。于窴の西は、則ち水皆西に流れ、西海に注ぐ。其の東は水東に流れ、塩沢に注ぐ。塩沢は潜かに地下を行き、其の南は則ち河源焉より出づ。玉石多く、河は中国に注ぐ。而して楼蘭・姑師の邑は城郭有り、塩沢に臨む。塩沢は長安を去ること五千里可りなり。匈奴の右方は塩沢より以東に居り、隴西の長城に至り、南は羌に接し、漢の道を鬲(へだ)つ。烏孫は大宛の東北二千里可りに在り、行国にして畜に随ひ、匈奴と俗を同じくす。控弦の者数万、戦ひを敢へてす。故は匈奴に服せしも、盛んなるに及び、其の羈属を取りて、肯へて往きて朝会せず。康居は大宛の西北二千里可りに在り、行国にして、月氏と大いに俗を同じくす。控弦の者八九万人。大宛と隣国たり。国小にして、南は月氏に羈事し、東は匈奴に羈事す。奄蔡は康居の西北二千里可りに在り、行国にして、康居と大いに俗を同じくす。控弦の者十余万。大沢に臨みて崖無し。蓋し乃ち北海なりと云ふ。大月氏は大宛の西二三千里可りに在り、嬀水の北に居る。其の南は則ち大夏、西は則ち安息、北は則ち康居なり。行国なり。畜に随ひて移徙し、匈奴と俗を同じくす。控弦の者一二十万可りなり。故時は彊く、匈奴を軽んぜしも、冒頓立つに及び、攻めて月氏を破り、匈奴の老上単于に至りて、月氏の王を殺し、其の頭を以て飲器と為す。
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史記 大宛列伝博望侯騫外国の道を開きて以て尊貴なるより、其の後従ふ吏卒皆争ひて上書して外国の奇怪利害を言ひ、使ひを求む。来還するに幣物を侵盗する毋き能はず、及び使ひ指を失ふ。其の吏卒亦た輒ち復た盛んに外国の有る所を推し、大を言ふ者には節を予へ、小を言ふ者には副と為す、故に妄言無行の徒皆争ひて之に効ふ。其の使ひは皆貧人の子、県官の齎物を私し、賤売して以て其の利を私せんと欲す。外国も亦た漢使の人人言に軽重有るを厭ふ。
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史記 大宛列伝今、身毒国又大夏の東南数千里に居りて蜀の物有り。此れ其の蜀を去ること遠からざるなり。今、大夏に使ひするに、羌中よりすれば険にして、羌人之を悪む。少しく北すれば、則ち匈奴の得る所と為る。蜀よりすれば宜しく径なるべく、又寇無し」と。天子既に大宛及び大夏・安息の属は皆大国にして奇物多く、土著にして頗る中国と業を同じくし、而して兵弱く、漢の財物を貴ぶを聞く。其の北には大月氏・康居の属有り、兵彊く、賂遺を以て利を設けて朝せしむ可し。且つ誠に得て義を以て之を属せしめば、則ち地を広むること万里、九訳を重ね、殊俗を致し、威徳四海に遍からん。天子欣然として、騫の言を以て然りと為し、乃ち騫をして蜀の犍為に因りて間使を発せしめ、四道並び出づ。駹より出で、冉より出で、徙より出で、邛・僰より出で、皆各々行くこと一二千里。其の北方は氐・筰に閉ざされ、南方は巂・昆明に閉ざさる。昆明の属は君長無く、寇盗を善くし、輒ち漢の使ひを殺略し、終に通ずるを得る莫し。然れども其の西千余里可りに乗象国有り、名づけて滇越と曰ふと聞く。而して蜀の賈の姦に物を出す者或いは焉に至る。是に於いて漢、大夏の道を求むるを以て始めて滇国に通ず。初め、漢、西南夷に通ぜんと欲するも、費多く道通ぜず、之を罷む。張騫の大夏に通ず可しと言ふに及び、乃ち復た西南夷を事とす。騫、校尉を以て大将軍に従ひて匈奴を撃ち、水草の処を知り、軍以て乏しからざるを得たり。乃ち騫を封じて博望侯と為す。是の歳は元朔六年なり。其の明年、騫、衛尉と為り、李将軍と俱に右北平に出でて匈奴を撃つ。匈奴、李将軍を囲み、軍の失亡多し。而して騫、期に後れて斬に当たり、贖ひて庶人と為る。是の歳、漢、驃騎を遣はして匈奴の西域の数万人を破り、祁連山に至る。其の明年、渾邪王其の民を率ゐて漢に降り、而して金城・河西の西、南山に並びて塩沢に至るまで、空しくして匈奴無し。匈奴時に候者の到る有るも、希なり。
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史記 大宛列伝騫の為人彊力にして、寛大にして人を信じ、蛮夷之を愛す。堂邑父は故と胡人なり、善く射、窮急すれば禽獣を射て食を給す。騫身ら至る所の者は大宛・大月氏・大夏・康居なり、而して其の旁の大国五六を伝聞し、具に天子の為に之を言ふ。
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