史記 / 酷吏列伝
數廢數起,爲御史及中丞者幾二十歳。王温舒免中尉,而宣爲左内史。其治米鹽,事大小皆關其手,自部署縣名曹實物,官吏令丞不得擅搖,痛以重法繩之。居官數年,一切郡中爲小治辨,然獨宣以小致大,能因力行之,難以爲經。中廢。爲右扶風,坐怨成信,信亡藏上林中,宣使郿令格殺信,吏卒格信時,射中上林苑門,宣下吏詆罪,以爲大逆,當族,自殺。而杜周任用。杜周者,南陽杜衍人。義縱爲南陽守,以爲爪牙,舉爲廷尉史。事張湯,湯數言其無害,至御史。使案邊失亡,所論殺甚衆。奏事中上意,任用,與減宣相編,更爲中丞十餘歳。其治與宣相放,然重遲,外寬,内深次骨。宣爲左内史,周爲廷尉,其治大放張湯而善候伺。上所欲擠者,因而陷之;上所欲釋者,久繫待問而微見其冤狀。客有讓周曰:「君爲天子決平,不循三尺法,專以人主意指爲獄。獄者固如是乎?」周曰:「三尺安出哉?前主所是著爲律,後主所是疎爲令,當時爲是,何古之法乎!」至周爲廷尉,詔獄亦益多矣。二千石繋者新故相因,不減百餘人。郡吏大府舉之廷尉,一歳至千餘章。章大者連逮證案數百,小者數十人;遠者數千,近者數百里。會獄,吏因責如章告劾,不服,以笞掠定之。
新字:数廃数起,為御史及中丞者幾二十歳。王温舒免中尉,而宣為左内史。其治米塩,事大小皆関其手,自部署県名曹実物,官吏令丞不得擅揺,痛以重法縄之。居官数年,一切郡中為小治弁,然独宣以小致大,能因力行之,難以為経。中廃。為右扶風,坐怨成信,信亡蔵上林中,宣使郿令格殺信,吏卒格信時,射中上林苑門,宣下吏詆罪,以為大逆,当族,自殺。而杜周任用。杜周者,南陽杜衍人。義縦為南陽守,以為爪牙,舉為廷尉史。事張湯,湯数言其無害,至御史。使案辺失亡,所論殺甚衆。奏事中上意,任用,与減宣相編,更為中丞十余歳。其治与宣相放,然重遅,外寛,内深次骨。宣為左内史,周為廷尉,其治大放張湯而善候伺。上所欲擠者,因而陥之;上所欲釈者,久繋待問而微見其冤状。客有譲周曰:「君為天子決平,不循三尺法,専以人主意指為獄。獄者固如是乎?」周曰:「三尺安出哉?前主所是著為律,後主所是疎為令,当時為是,何古之法乎!」至周為廷尉,詔獄亦益多矣。二千石繋者新故相因,不減百余人。郡吏大府舉之廷尉,一歳至千余章。章大者連逮証案数百,小者数十人;遠者数千,近者数百里。会獄,吏因責如章告劾,不服,以笞掠定之。
書き下し
数々廃せられ数々起こり、御史及び中丞為ること幾ど二十歳。王温舒中尉を免ぜられ、而して宣左内史と為る。其の米塩を治む、事の大小皆其の手に関はる、自ら県名曹の実物を部署し、官吏令丞擅に揺かすことを得ず、痛く重法を以て之を縄す。官に居ること数年、一切の郡中小治弁を為す、然れども独り宣のみ小を以て大に致し、能く力に因りて之を行ふ、以て経と為し難し。中ごろ廃せらる。右扶風と為り、成信を怨むに坐す、信亡げて上林の中に蔵る、宣郿の令をして信を格殺せしむ、吏卒信を格する時、射て上林苑の門に中つ、宣吏に下されて罪を詆られ、以て大逆と為し、族に当たる、自殺す。而して杜周任用せらる。杜周は、南陽杜衍の人なり。義縦南陽の守為り、以て爪牙と為し、挙げて廷尉史と為す。張湯に事ふ、湯数々其の害無きを言ひ、御史に至る。辺の失亡を案ぜしむ、論殺する所甚だ衆し。事を奏して上の意に中る、任用せられ、減宣と相編み、更々中丞と為ること十余歳。其の治宣と相放ふ、然れども重遅にして、外は寛、内は深く骨に次ぐ。宣左内史為り、周廷尉為り、其の治大いに張湯に放ひて善く候伺す。上の擠さんと欲する所は、因りて之を陥れ、上の釈さんと欲する所は、久しく繋ぎて問を待ちて微かに其の冤状を見す。客周を譲めて曰く、「君天子の為に平を決す、三尺の法に循はず、専ら人主の意指を以て獄を為す。獄は固より是くの如きか」と。周曰く、「三尺安くより出づるや。前主の是とする所は著して律と為し、後主の是とする所は疏して令と為す、当時是と為す、何ぞ古の法ならんや」と。周廷尉と為るに至り、詔獄も亦益々多し。二千石の繋がるる者新故相因り、百余人を減ぜず。郡吏大府之を廷尉に挙ぐ、一歳に千余章に至る。章の大なる者は連逮証案数百、小なる者は数十人。遠き者は数千、近き者は数百里。獄に会し、吏因りて責むること章の告劾の如くし、服せざれば、笞掠を以て之を定む。
現代語訳
(減宣は)何度も罷免されては何度も復帰し、御史や御史中丞を務めること二十年近くに及んだ。王温舒が中尉を免職されると、減宣は左内史となった。米や塩のような細かなことまで治め、事の大小を問わずすべて自分の手を通し、自ら各県の名や部署ごとの物資を割り振り、官吏や県令・丞も勝手に動かすことはできず、重い法で厳しく縛った。在官数年、郡中のすべてについて細かなことまで整えたが、小事から大事までこなし、力ずくでやり遂げられたのは減宣ただ一人であり、他の者が手本とするのは難しかった。途中で罷免された。右扶風となったとき、成信を恨んだことで罪に問われた。成信が逃げて上林苑の中に隠れたので、減宣は郿県の令に命じて成信を討ち殺させた。役人や兵が成信を討ったとき、矢が上林苑の門に当たった。減宣は獄吏に下されて罪を問われ、大逆と見なされて一族皆殺しに当たるとされ、自殺した。そして杜周が任用された。杜周は南陽杜衍の人である。義縦が南陽太守であったとき、杜周を手足とし、推挙して廷尉史とした。張湯に仕え、張湯はたびたび杜周が有能で落ち度がないと言い、御史にまで至った。辺境で兵や物資を失った件を取り調べさせると、死罪とした者はたいへん多かった。奏上したことが主上の意にかない、任用されて減宣と肩を並べ、交代で御史中丞を務めること十余年に及んだ。その統治は減宣に似ていたが、重々しく慎重で、外見は寛大だが、内心は骨まで刺すほど深く厳しかった。減宣が左内史、杜周が廷尉であったとき、杜周の統治は大いに張湯を手本とし、主上の意向をうかがうのがうまかった。主上が退けたいと思っている者は、それに乗じて罪に陥れ、主上が許したいと思っている者は、長く獄につないで尋問を待たせ、それとなくその冤罪の様子を示した。ある客が杜周を責めて言った。「あなたは天子のために公平な裁きを下す身なのに、三尺の法(竹簡に書かれた成文法)に従わず、もっぱら君主の意向だけで裁判をしている。裁判とはもともとそういうものなのか」。杜周は言った。「三尺の法はどこから出てきたのか。前の君主がよしとしたものを書き著して律とし、後の君主がよしとしたものを箇条書きにして令とした。その時々によしとされたものが正しいのであって、どうして古の法などに従う必要があろうか」。杜周が廷尉となると、詔獄の事件もますます多くなった。獄につながれた二千石の官は、新しく入る者と前からいる者が重なって、百余人を下らなかった。郡の役人や中央の役所が廷尉に送る事件は、一年に千余件に達した。大きな事件では連座して逮捕され証拠調べを受ける者が数百人、小さな事件でも数十人に及び、遠い者は数千里、近い者でも数百里の彼方から呼び出された。獄で対質させると、役人は告発状どおりの罪を認めさせようとし、認めなければ鞭打ちの拷問で決着をつけた。
解説
関連する章句
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史記 酷吏列伝是に於て逮有るを聞けば皆亡げ匿る。獄の久しき者は数々の赦を更ること十有余歳に至りて相告言す、大抵尽く詆るに不道以上を以てす。廷尉及び中都官の詔獄の逮至ること六七万人、吏の増加する所十万余人。周中ごろ廃せられ、後に執金時為り、盗を逐ひ、桑弘羊・衛皇后の昆弟の子を捕へ治むること刻深なり、天子以て力を尽くして私無しと為し、遷りて御史大夫と為る。家の両子、河を夾みて守と為る。其の治暴酷なること皆王温舒等より甚し。杜周初め徴されて廷史と為りしとき、一馬有り、且つ全からず。身久しく事に任じ、三公の列に至るに及び、子孫尊官にして、家訾数巨万を累ぬ。
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史記 酷吏列伝称して曰く、「仕へて二千石に至らず、賈して千万に至らずんば、安んぞ人に比すべけんや」と。乃ち貰貸して陂田千余頃を買ひ、貧民に仮し、役使すること数千家。数年にして、赦に会ふ。産を致すこと数千金、任侠を為し、吏の長短を持し、出づれば数十騎を従ふ。其の民を使ふこと威は郡守より重し。周陽由は、其の父趙兼淮南王の舅父なるを以て周陽に侯たり、故に因りて周陽氏を姓とす。由宗家を以て任ぜられて郎と為り、孝文及び景帝に事ふ。景帝の時、由郡守と為る。武帝位に即き、吏治尚ほ循謹なること甚し、然れども由は二千石の中に居りて、最も暴酷驕恣為り。愛する所の者は、法を撓めて之を活かし、憎む所の者は、法を曲げて之を誅滅す。居る所の郡、必ず其の豪を夷ぐ。守と為りては、都尉を視ること令の如し。都尉と為りては、必ず太守を陵ぎ、之が治を奪ふ。汲黯と倶に忮為り、司馬安の文悪、倶に二千石の列に在り、車を同じくするも未だ嘗て敢て茵伏を均しくせず。由後に河東の都尉と為る、時に其の守勝屠公と権を争ひ、相告げて罪を言ふ。勝屠公当に罪に抵るべし、義として刑を受けず、自殺す、而して由は棄市せらる。寧成・周陽由の後より、事益々多く、民法に巧みなり、大抵吏の治は成・由等に類すること多し。趙禹は、斄の人なり。佐史を以て中都官に補せられ、廉を用て令史と為り、太尉亜夫に事ふ。亜夫丞相と為り、禹丞相史と為る、府中皆其の廉平を称す。然れども亜夫任ぜず、曰く、「極めて禹の害無きを知る、然れども文深し、以て大府に居るべからず」と。今上の時、禹刀筆の吏を以て労を積み、稍く遷りて御史と為る。上以て能と為し、太中大夫に至る。張湯と諸律令を論定し、見知を作り、吏伝へて相監司するを得しむ。法を用ふること益々刻なるは、蓋し此より始まる。
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史記 酷吏列伝淮陽に誅滅する所甚だ多し、死するに及び、仇家其の尸を焼かんと欲す、尸亡げ去りて帰葬す。温舒等悪を以て治を為してより、而して郡守・都尉・諸侯の二千石の治を為さんと欲する者、其の治大抵尽く温舒に放ふ、而して吏民益々軽く法を犯し、盗賊滋々起こる。南陽に梅免・白政有り、楚に殷中・杜少有り、斉に徐勃有り、燕趙の間に堅盧・范生の属有り。大群は数千人に至り、擅に自ら号し、城邑を攻め、庫兵を取り、死罪を釈し、郡の太守・都尉を縛辱し、二千石を殺し、檄を為りて県に告げて食を具ふるを趣す。小群は百を以て数へ、郷里を掠鹵する者、勝げて数ふべからざるなり。是に於て天子始めて御史中丞・丞相長史をして之を督せしむ。猶ほ禁ずること能はざるなり、乃ち光禄大夫范昆・諸輔都尉及び故の九卿張徳等をして繍衣を衣、節を持し、虎符もて兵を発して以て興撃せしむ、首を斬ること大部或いは万余級に至り、及び法を以て通飲食を誅し、坐して諸郡に連なり、甚しき者は数千人。数歳にして、乃ち頗る其の渠率を得。散卒失亡し、復た党を聚めて山川に阻む者、往往にして群居し、柰何ともすべき無し。是に於て「沈命法」を作る、曰く群盗起こりて発覚せず、発覚して捕ふるも品に満たざる者は、二千石以下小吏の主る者に至るまで皆死せしむと。其の後小吏誅を畏れ、盗有りと雖も敢て発せず、得ること能はずして、課に坐して府に累はさんことを恐る、府も亦其れをして言はざらしむ。故に盗賊寖く多く、上下相為に匿し、文辞を以て法を避く。減宣は、楊の人なり。佐史にして害無きを以て河東の守府に給事す。衛将軍青使ひして馬を河東に買はしむ、宣の害無きを見て、上に言ひ、徴して大廐の丞と為す。官事弁じ、稍く遷りて御史及び中丞に至る。主父偃を治め及び淮南の反獄を治めしむ、微文深詆を以てする所以、殺す者甚だ衆し、称して敢て疑はしきを決すと為す。
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史記 酷吏列伝父死して後、湯長安の吏と為ること、之を久しくす。周陽侯始め諸卿為りし時、嘗て長安に繋がる、湯身を傾けて之が為にす。出でて侯と為るに及び、大いに湯と交はり、遍く湯を貴人に見えしむ。湯内史に給事し、寧成の掾と為る、湯を以て害無しと為し、大府に言ひ、調して茂陵の尉と為し、方中を治めしむ。武安侯丞相と為り、湯を徴して史と為し、時に之を天子に薦言し、御史に補し、事を案ぜしむ。陳皇后の蠱獄を治め、深く党与を竟む。是に於て上以て能と為し、稍く遷りて太中大夫に至る。趙禹と共に諸律令を定め、務めは文を深くし、職を守るの吏を拘するに在り。已にして趙禹遷りて中尉と為り、徙りて少府と為る、而して張湯廷尉と為る、両人交驩し、而して禹に兄事す。禹人と為り廉倨なり。吏と為りて以来、舎に食客毋し。公卿相造りて禹に請ふも、禹終に報謝せず、務めて知友賓客の請を絶ち、孤立して一意を行ふのみ。文法を見れば輒ち取り、亦覆案せず、官属の陰罪を求む。湯人と為り詐多く、智を舞はして以て人を御す。始め小吏為りしとき、乾没し、長安の富賈田甲・魚翁叔の属と交私す。九卿に列するに及び、天下の名士大夫を収接し、己の心内に合はずと雖も、然れども陽に浮慕す。是の時上方に文学に郷ふ、湯大獄を決し、古義に傅けんと欲し、乃ち博士弟子の尚書・春秋を治むるものを請ひて廷尉史に補し、疑法を亭す。疑事を奏讞するに、必ず豫め先に上の為に其の原を分別し、上の是とする所は、受けて讞決の法を廷尉の絜令に著し、主の明を揚ぐ。事を奏して即し譴めらるれば、湯応じて謝し、上の意の便とする所に郷ひ、必ず正・監・掾史の賢者を引きて、曰く、「固より臣の為に議す、上の臣を責むるが如し、臣用ひず、愚にして此に抵る」と。罪常に釈さる。間々事を奏して、上之を善しとすれば、曰く、「臣此の奏を為るを知るに非ず、乃ち正・監・掾史某之を為る」と。其の吏を薦めんと欲するや、人の善を揚げ人の過ちを蔽ふこと此くの如し。
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史記 酷吏列伝湯数々丞相の事を行ふ、此の三長史の素より貴きを知り、常に之を淩折す。故を以て三長史合謀して曰く、「始め湯君と謝せんことを約し、已にして君を売る。今君を劾するに宗廟の事を以てせんと欲す、此れ君に代はらんと欲するのみ。吾湯の陰事を知る」と。吏をして湯の左の田信等を捕へ案ぜしめ、曰く湯且に奏請せんと欲すれば、信輒ち先に之を知り、物を居へて富を致し、湯と之を分かつと、及び他の姦事あり。事の辞頗る聞こゆ。上湯に問ひて曰く、「吾の為す所、賈人輒ち先に之を知り、益々其の物を居ふ、是れ類ひ吾が謀を以て之に告ぐる者有るなり」と。湯謝せず。湯又詳り驚きて曰く、「固より宜しく有るべし」と。減宣も亦謁居等の事を奏す。天子果して湯を以て詐を懐き面欺すと為し、使ひ八輩をして湯を簿責せしむ。湯具に自ら此れ無しと道ひ、服せず。是に於て上趙禹をして湯を責めしむ。禹至り、湯を譲めて曰く、「君何ぞ分を知らざるや。君の治めて夷滅する所の者幾何人ぞや。今人君を言ふに皆状有り、天子重ねて君を獄に致し、君をして自ら計を為さしめんと欲す、何ぞ多く以て簿に対ふるを為さんや」と。湯乃ち書を為りて謝して曰く、「湯尺寸の功無く、刀筆の吏より起こり、陛下幸ひに致して三公と為す、以て責を塞ぐ無し。然れども謀りて湯を罪に陥るる者は、三長史なり」と。遂に自殺す。湯死し、家産の直五百金に過ぎず、皆得る所の奉賜にして、他の業無し。昆弟諸子厚く湯を葬らんと欲す、湯の母曰く、「湯は天子の大臣為り、汚悪の言を被りて死す、何ぞ厚く葬らんや」と。載するに牛車を以てし、棺有りて槨無し。天子之を聞きて、曰く、「此の母に非ずんば此の子を生むこと能はず」と。乃ち尽く案じて三長史を誅す。丞相青翟自殺す。田信を出だす。上湯を惜しむ。稍く其の子安世を遷す。趙禹中ごろ廃せられ、已にして廷尉と為る。始め条侯以為へらく禹は賊深なりと、任ぜず。禹少府と為るに及び、九卿に比す。禹は酷急なり、晩節に至り、事益々多く、吏務めて厳峻を為す、而して禹の治は加々緩やかにして、名づけて平と為す。
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史記 酷吏列伝王温舒等後に起こり、治むること禹より酷なり。禹老いたるを以て、徙りて燕の相と為る。数歳にして、乱悖して罪有り、免ぜられて帰る。湯に後るること十余年、寿を以て家に卒す。義縦は、河東の人なり。少年為りし時、嘗て張次公と倶に攻剽して群盗と為る。縦に姊姁有り、医を以て王太后に幸せらる。王太后問ふ、「子兄弟の官為る者有るか」と。姊曰く、「弟有るも行ひ無し、不可なり」と。太后乃ち上に告げ、義姁の弟縦を拝して中郎と為し、上党郡中の令に補す。治むること敢行にして、蘊藉少なし、県に逋事無く、挙げられて第一と為る。遷りて長陵及び長安の令と為り、法を直くし治を行ひ、貴戚を避けず。太后の外孫修成君の子仲を捕へ案ずるを以て、上以て能と為し、遷して河内の都尉と為す。至れば則ち其の豪穣氏の属を族滅し、河内道に遺ちたるを拾はず。而して張次公も亦郎と為り、勇悍を以て軍に従ひ、敢て深く入り、功有り、岸頭侯と為る。寧成家居す、上以て郡守と為さんと欲す。御史大夫弘曰く、「臣山東に居りて小吏為りし時、寧成済南の都尉為り、其の治狼の羊を牧するが如し。成は民を治めしむべからず」と。上乃ち成を拝して関の都尉と為す。歳余にして、関東の吏隷の郡国の関を出入する者、号して曰く「寧ろ乳虎を見るとも、寧成の怒りに値ふ無かれ」と。義縦河内より遷りて南陽太守と為る、寧成の家南陽に居ると聞く、縦の関に至るに及び、寧成側行して送迎す、然れども縦気盛んにして、礼を為さず。郡に至り、遂に寧氏を案じ、尽く其の家を破砕す。成罪有るに坐し、及び孔・暴の属皆奔亡し、南陽の吏民足を重ねて跡を一にす。而して平氏の朱彊・杜衍の杜周縦の牙爪の吏と為り、任用せられ、遷りて廷史と為る。軍数々定襄に出で、定襄の吏民乱敗す、是に於て縦を徙して定襄太守と為す。
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