史記 / 酷吏列伝
素居廣平時,皆知河内豪姦之家,及往,九月而至。令郡具私馬五十匹,爲驛自河内至長安,部吏如居廣平時方略,捕郡中豪猾,郡中豪猾相連坐千餘家。上書請,大者至族,小者乃死,家盡沒入償臧。奏行不過二三日,得可事。論報,至流血十餘里。河内皆怪其奏,以爲神速。盡十二月,郡中毋聲,毋敢夜行,野無犬吠之盜。其頗不得,失之旁郡國,黎來,會春,温舒頓足嘆曰:「嗟乎,令冬月益展一月,足吾事矣!」其好殺伐行威不愛人如此。天子聞之,以爲能,遷爲中尉。其治復放河内,徙諸名禍猾吏與從事,河内則楊皆、麻戊,關中楊贛、成信等。義縱爲内史,憚未敢恣治。及縱死,張湯敗後,徙爲廷尉,而尹齊爲中尉。尹齊者,東郡茌平人。以刀筆稍遷至御史。事張湯,張湯數稱以爲廉武,使督盜賊,所斬伐不避貴戚。遷爲關内都尉,聲甚於寧成。上以爲能,遷爲中尉,吏民益凋敝。尹齊木彊少文,豪惡吏伏匿而善吏不能爲治,以故事多廢,抵罪。上復徙温舒爲中尉,而楊仆以嚴酷爲主爵都尉。楊仆者,宜陽人也。以千夫爲吏。河南守案舉以爲能,遷爲御史,使督盜賊關東。治放尹齊,以爲敢摯行。稍遷至主爵都尉,列九卿。天子以爲能。
新字:素居広平時,皆知河内豪姦之家,及往,九月而至。令郡具私馬五十匹,為駅自河内至長安,部吏如居広平時方略,捕郡中豪猾,郡中豪猾相連坐千余家。上書請,大者至族,小者乃死,家尽没入償臧。奏行不過二三日,得可事。論報,至流血十余里。河内皆怪其奏,以為神速。尽十二月,郡中毋声,毋敢夜行,野無犬吠之盗。其頗不得,失之旁郡国,黎来,会春,温舒頓足嘆曰:「嗟乎,令冬月益展一月,足吾事矣!」其好殺伐行威不愛人如此。天子聞之,以為能,遷為中尉。其治復放河内,徙諸名禍猾吏与従事,河内則楊皆、麻戊,関中楊贛、成信等。義縦為内史,憚未敢恣治。及縦死,張湯敗後,徙為廷尉,而尹斉為中尉。尹斉者,東郡茌平人。以刀筆稍遷至御史。事張湯,張湯数称以為廉武,使督盗賊,所斬伐不避貴戚。遷為関内都尉,声甚於寧成。上以為能,遷為中尉,吏民益凋敝。尹斉木彊少文,豪悪吏伏匿而善吏不能為治,以故事多廃,抵罪。上復徙温舒為中尉,而楊仆以厳酷為主爵都尉。楊仆者,宜陽人也。以千夫為吏。河南守案舉以為能,遷為御史,使督盗賊関東。治放尹斉,以為敢摯行。稍遷至主爵都尉,列九卿。天子以為能。
書き下し
素より広平に居りし時、皆河内の豪姦の家を知る、往くに及び、九月にして至る。郡をして私馬五十匹を具へしめ、駅を為りて河内より長安に至り、吏を部すること広平に居りし時の方略の如くし、郡中の豪猾を捕ふ、郡中の豪猾相連坐すること千余家。上書して請ふ、大なる者は族に至り、小なる者は乃ち死し、家は尽く没入して臧を償はしむ。奏行くこと二三日に過ぎずして、可を得て事とす。論報して、流血十余里に至る。河内皆其の奏を怪しみ、以て神速と為す。十二月を尽くして、郡中声毋く、敢て夜行く毋く、野に犬吠の盗無し。其の頗る得ざるもの、之を旁の郡国に失ふ、黎来るに、会々春なり、温舒足を頓して嘆じて曰く、「嗟乎、冬月をして益々一月を展べしめば、吾が事足れり」と。其の殺伐を好み威を行ひて人を愛せざること此くの如し。天子之を聞き、以て能と為し、遷して中尉と為す。其の治復た河内に放ひ、諸々の名禍猾吏を徙して与に事に従ふ、河内は則ち楊皆・麻戊、関中は楊贛・成信等なり。義縦内史為り、憚りて未だ敢て恣に治めず。縦死し、張湯敗るるの後に及び、徙りて廷尉と為る、而して尹斉中尉と為る。尹斉は、東郡茌平の人なり。刀筆を以て稍く遷りて御史に至る。張湯に事ふ、張湯数々称して以て廉武と為し、盗賊を督せしむ、斬伐する所貴戚を避けず。遷りて関内の都尉と為る、声寧成より甚し。上以て能と為し、遷して中尉と為す、吏民益々凋敝す。尹斉は木彊にして文少なし、豪悪の吏伏匿して善吏は治を為すこと能はず、故を以て事多く廃れ、罪に抵る。上復た温舒を徙して中尉と為す、而して楊僕厳酷を以て主爵都尉と為る。楊僕は、宜陽の人なり。千夫を以て吏と為る。河南の守案じて挙げて以て能と為し、遷りて御史と為り、盗賊を関東に督せしむ。治むること尹斉に放ひ、以て敢て摯行すと為す。稍く遷りて主爵都尉に至り、九卿に列す。天子以て能と為す。
現代語訳
(王温舒は)もともと広平にいたころから、河内の豪族や悪人の家をすべて知っていたので、赴任すると九月に着任した。郡に命じて私有の馬五十頭を用意させ、河内から長安まで駅を設け、部下の役人の使い方は広平にいたときのやり方どおりにして、郡中の豪族や悪賢い者を捕らえた。郡中の豪族や悪人で連座した者は千余家に及んだ。上書して処罰を願い出て、罪の重い者は一族皆殺し、軽い者も本人は死刑、家財はすべて没収して盗んだ財物の償いに充てるとした。上奏文が往復するのに二、三日しかかからず、許可を得て執行した。判決を下して処刑すると、流れた血は十余里に及んだ。河内の人々はみな、その上奏の速さを不思議がり、神業のようだと言った。十二月が終わるころには、郡中には物音もなく、夜に出歩く者もなく、野には犬が吠えるような盗みもなかった。捕らえきれなかった者は近隣の郡国に逃げていたが、追跡して連れ戻したときには、ちょうど春になっていた(春は処刑しない決まりであった)。王温舒は足を踏み鳴らして嘆いた。「ああ、冬をもう一か月延ばせたら、わたしの仕事は片づいたのに」。彼が殺戮を好み、威勢をふるって人を愛さないことは、このようであった。天子はこれを聞いて有能だと考え、中尉に昇進させた。その統治はまた河内でのやり方を手本とし、悪名高い悪賢い役人たちを呼び寄せて一緒に仕事をさせた。河内からは楊皆・麻戊、関中からは楊贛・成信らであった。義縦が内史であったあいだは、王温舒も義縦をはばかって、思うままには治めなかった。義縦が死に、張湯が失脚した後、王温舒は廷尉に移り、尹斉が中尉となった。尹斉は東郡茌平(しへい)の人である。刀筆の吏からしだいに昇進して御史に至った。張湯に仕え、張湯はたびたび彼を清廉で武勇があるとほめ、盗賊の取り締まりを監督させたが、斬り殺すのに貴族や外戚も避けなかった。昇進して関内の都尉となると、その名は寧成よりも恐れられた。主上は有能だと考え、中尉に昇進させたが、役人も民もますます疲弊した。尹斉は木のように頑固で融通がきかず、飾り気がなかったので、悪い役人たちは身を潜め、善い役人も治めることができず、そのため政務の多くが滞り、罪に問われた。主上は再び王温舒を中尉に移し、楊僕は厳しく苛酷であることで主爵都尉となった。楊僕は宜陽の人である。千夫(武功爵の一つ)の身分から役人となった。河南太守が取り調べて推挙し、有能だとされ、御史に昇進し、関東の盗賊取り締まりを監督させた。その統治は尹斉を手本とし、思い切って猛々しく事を行うとされた。しだいに昇進して主爵都尉に至り、九卿に列した。天子は有能だと考えた。
解説
関連する章句
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史記 酷吏列伝南越反し、拝して楼船将軍と為る、功有り、将梁侯に封ぜらる。荀彘の縛する所と為る。居ること之を久しくして、病死す。而して温舒復た中尉と為る。人と為り文少なく、廷に居りては惛惛として弁ぜず、中尉に至れば則ち心開く。盗賊を督す、素より関中の俗に習ひ、豪悪の吏を知る、豪悪の吏尽く復た用を為し、方略を為す。吏苛察にして、盗賊・悪少年缿に投じて購ひ姦を告言せしめ、伯格長を置きて以て姦盗賊を牧司す。温舒人と為り讇ひて善く埶有る者に事ふ。即し埶無き者は、之を視ること奴の如し。埶有る家は、姦有ること山の如しと雖も、犯さず。埶無き者は、貴戚も必ず侵辱す。文を舞はして巧みに下戸の猾を詆り、以て大豪を熏ず。其の中尉を治むること此くの如し。姦猾窮治せられ、大抵尽く獄中に靡爛し、行論して出づる者無し。其の爪牙の吏は虎にして冠す。是に於て中尉の部中の中猾以下皆伏し、勢ひ有る者為に声誉を游ばせ、治まると称す。治むること数歳、其の吏多く権を以て富む。温舒東越を撃ちて還り、議に意に中らざる者有り、小法に坐して罪に抵りて免ぜらる。是の時天子方に通天台を作らんと欲して未だ人有らず、温舒中尉の脱卒を覆さんことを請ひ、数万人を得て作る。上説び、拝して少府と為す。徙りて右内史と為る、治むること其の故の如く、姦邪少しく禁ず。法に坐して官を失ふ。復た右輔と為り、中尉の事を行ふ。故の操の如し。歳余にして、会々宛の軍発す、詔して豪吏を徴す、温舒其の吏華成を匿す、及び人の温舒の員騎の銭を受け、他の姦利の事を変告する有り、罪族に至る、自殺す。其の時両弟及び両婚家も亦各自ら他罪に坐して族せらる。光禄徐自為曰く、「悲しいかな、夫れ古に三族有り、而して王温舒は罪同時にして五族に至るか」と。温舒死し、家の直千金を累ぬ。後数歳にして、尹斉も亦淮陽の都尉を以て病死す、家の直五十金に満たず。
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史記 酷吏列伝縦至り、定襄の獄中の重罪の軽く繋がるる二百余人、及び賓客昆弟の私に入りて相視る亦二百余人を掩ふ。縦一に捕鞠して、曰く「死罪の為に解脱せしむ」と。是の日皆報じて四百余人を殺す。其の後郡中寒からずして栗へ、猾民吏を佐けて治を為す。是の時趙禹・張湯深刻を以て九卿と為る、然れども其の治尚ほ寛にして、法を輔けて行ふ、而して縦は鷹撃毛摯を以て治を為す。後に会々五銖銭・白金起こり、民姦を為す、京師尤も甚し、乃ち縦を以て右内史と為し、王温舒を中尉と為す。温舒は至悪なり、其の為す所先に縦に言はざれば、縦必ず気を以て之を淩ぎ、其の功を敗壊す。其の治、誅殺する所甚だ多し、然れども小治を為すを取り、姦益々勝へず、直指始めて出づ。吏の治は斬殺縛束を以て務めと為し、閻奉悪を以て用ひらる。縦は廉なり、其の治郅都に放ふ。上鼎湖に幸し、病久しく、已にして卒かに起ちて甘泉に幸す、道多く治まらず。上怒りて曰く、「縦我を以て復た此の道を行かずと為すか」と。之を嗛む。冬に至り、楊可方に告緡を受く、縦以て此れ民を乱すと為し、吏を部して其の可が使ひ為る者を捕へしむ。天子聞き、杜式をして治めしむ、以て廃格沮事と為し、縦を市に棄つ。後一歳にして、張湯も亦死す。王温舒は、陽陵の人なり。少き時椎埋して姦を為す。已にして試みに県の亭長に補せらるるも、数々廃せらる。吏と為り、獄を治むるを以て廷史に至る。張湯に事へ、遷りて御史と為る。盗賊を督し、殺傷甚だ多し、稍く遷りて広平の都尉に至る。郡中の豪にして敢て任ずる吏十余人を択び、以て爪牙と為し、皆其の陰の重罪を把り、而して縦ちて盗賊を督せしめ、其の意の得んと欲する所を快くす。此の人百罪有りと雖も、法せず。即し避くる有らば、其の事に因りて之を夷ぐ、亦宗を滅ぼす。其の故を以て斉趙の郊の盗賊敢て広平に近づかず、広平声あり道に遺ちたるを拾はずと為す。上聞き、遷して河内太守と為す。
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史記 酷吏列伝王温舒等後に起こり、治むること禹より酷なり。禹老いたるを以て、徙りて燕の相と為る。数歳にして、乱悖して罪有り、免ぜられて帰る。湯に後るること十余年、寿を以て家に卒す。義縦は、河東の人なり。少年為りし時、嘗て張次公と倶に攻剽して群盗と為る。縦に姊姁有り、医を以て王太后に幸せらる。王太后問ふ、「子兄弟の官為る者有るか」と。姊曰く、「弟有るも行ひ無し、不可なり」と。太后乃ち上に告げ、義姁の弟縦を拝して中郎と為し、上党郡中の令に補す。治むること敢行にして、蘊藉少なし、県に逋事無く、挙げられて第一と為る。遷りて長陵及び長安の令と為り、法を直くし治を行ひ、貴戚を避けず。太后の外孫修成君の子仲を捕へ案ずるを以て、上以て能と為し、遷して河内の都尉と為す。至れば則ち其の豪穣氏の属を族滅し、河内道に遺ちたるを拾はず。而して張次公も亦郎と為り、勇悍を以て軍に従ひ、敢て深く入り、功有り、岸頭侯と為る。寧成家居す、上以て郡守と為さんと欲す。御史大夫弘曰く、「臣山東に居りて小吏為りし時、寧成済南の都尉為り、其の治狼の羊を牧するが如し。成は民を治めしむべからず」と。上乃ち成を拝して関の都尉と為す。歳余にして、関東の吏隷の郡国の関を出入する者、号して曰く「寧ろ乳虎を見るとも、寧成の怒りに値ふ無かれ」と。義縦河内より遷りて南陽太守と為る、寧成の家南陽に居ると聞く、縦の関に至るに及び、寧成側行して送迎す、然れども縦気盛んにして、礼を為さず。郡に至り、遂に寧氏を案じ、尽く其の家を破砕す。成罪有るに坐し、及び孔・暴の属皆奔亡し、南陽の吏民足を重ねて跡を一にす。而して平氏の朱彊・杜衍の杜周縦の牙爪の吏と為り、任用せられ、遷りて廷史と為る。軍数々定襄に出で、定襄の吏民乱敗す、是に於て縦を徙して定襄太守と為す。
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