史記 / 酷吏列伝
南越反,拜爲樓船將軍,有功,封將梁侯。爲荀彘所縛。居久之,病死。而温舒復爲中尉。爲人少文,居廷惛惛不辯,至於中尉則心開。督盜賊,素習關中俗,知豪惡吏,豪惡吏盡復爲用,爲方略。吏苛察,盜賊惡少年投缿購告言姦,置伯格長以牧司姦盜賊。温舒爲人讇善事有埶者;卽無埶者,視之如奴。有埶家,雖有姦如山,弗犯;無埶者,貴戚必侵辱。舞文巧詆下戸之猾,以熏大豪。其治中尉如此。姦猾窮治,大抵盡靡爛獄中,行論無出者。其爪牙吏虎而冠。於是中尉部中中猾以下皆伏,有勢者爲游聲譽,稱治。治數歳,其吏多以權富。温舒撃東越還,議有不中意者,坐小法抵罪免。是時天子方欲作通天臺而未有人,温舒請覆中尉脱卒,得數萬人作。上説,拜爲少府。徙爲右内史,治如其故,姦邪少禁。坐法失官。復爲右輔,行中尉事。如故操。歳餘,會宛軍發,詔徴豪吏,温舒匿其吏華成,及人有變告温舒受員騎錢,他姦利事,罪至族,自殺。其時兩弟及兩婚家亦各自坐他罪而族。光祿徐自爲曰:「悲夫,夫古有三族,而王温舒罪至同時而五族乎!」温舒死,家直累千金。後數歳,尹齊亦以淮陽都尉病死,家直不滿五十金。
新字:南越反,拝為楼船将軍,有功,封将梁侯。為荀彘所縛。居久之,病死。而温舒復為中尉。為人少文,居廷惛惛不弁,至於中尉則心開。督盗賊,素習関中俗,知豪悪吏,豪悪吏尽復為用,為方略。吏苛察,盗賊悪少年投缿購告言姦,置伯格長以牧司姦盗賊。温舒為人讇善事有埶者;即無埶者,視之如奴。有埶家,雖有姦如山,弗犯;無埶者,貴戚必侵辱。舞文巧詆下戸之猾,以熏大豪。其治中尉如此。姦猾窮治,大抵尽靡爛獄中,行論無出者。其爪牙吏虎而冠。於是中尉部中中猾以下皆伏,有勢者為游声誉,称治。治数歳,其吏多以権富。温舒撃東越還,議有不中意者,坐小法抵罪免。是時天子方欲作通天台而未有人,温舒請覆中尉脱卒,得数万人作。上説,拝為少府。徙為右内史,治如其故,姦邪少禁。坐法失官。復為右輔,行中尉事。如故操。歳余,会宛軍発,詔徴豪吏,温舒匿其吏華成,及人有変告温舒受員騎銭,他姦利事,罪至族,自殺。其時両弟及両婚家亦各自坐他罪而族。光禄徐自為曰:「悲夫,夫古有三族,而王温舒罪至同時而五族乎!」温舒死,家直累千金。後数歳,尹斉亦以淮陽都尉病死,家直不満五十金。
書き下し
南越反し、拝して楼船将軍と為る、功有り、将梁侯に封ぜらる。荀彘の縛する所と為る。居ること之を久しくして、病死す。而して温舒復た中尉と為る。人と為り文少なく、廷に居りては惛惛として弁ぜず、中尉に至れば則ち心開く。盗賊を督す、素より関中の俗に習ひ、豪悪の吏を知る、豪悪の吏尽く復た用を為し、方略を為す。吏苛察にして、盗賊・悪少年缿に投じて購ひ姦を告言せしめ、伯格長を置きて以て姦盗賊を牧司す。温舒人と為り讇ひて善く埶有る者に事ふ。即し埶無き者は、之を視ること奴の如し。埶有る家は、姦有ること山の如しと雖も、犯さず。埶無き者は、貴戚も必ず侵辱す。文を舞はして巧みに下戸の猾を詆り、以て大豪を熏ず。其の中尉を治むること此くの如し。姦猾窮治せられ、大抵尽く獄中に靡爛し、行論して出づる者無し。其の爪牙の吏は虎にして冠す。是に於て中尉の部中の中猾以下皆伏し、勢ひ有る者為に声誉を游ばせ、治まると称す。治むること数歳、其の吏多く権を以て富む。温舒東越を撃ちて還り、議に意に中らざる者有り、小法に坐して罪に抵りて免ぜらる。是の時天子方に通天台を作らんと欲して未だ人有らず、温舒中尉の脱卒を覆さんことを請ひ、数万人を得て作る。上説び、拝して少府と為す。徙りて右内史と為る、治むること其の故の如く、姦邪少しく禁ず。法に坐して官を失ふ。復た右輔と為り、中尉の事を行ふ。故の操の如し。歳余にして、会々宛の軍発す、詔して豪吏を徴す、温舒其の吏華成を匿す、及び人の温舒の員騎の銭を受け、他の姦利の事を変告する有り、罪族に至る、自殺す。其の時両弟及び両婚家も亦各自ら他罪に坐して族せらる。光禄徐自為曰く、「悲しいかな、夫れ古に三族有り、而して王温舒は罪同時にして五族に至るか」と。温舒死し、家の直千金を累ぬ。後数歳にして、尹斉も亦淮陽の都尉を以て病死す、家の直五十金に満たず。
現代語訳
(楊僕は)南越が反乱を起こすと楼船将軍に任じられ、功を立てて将梁侯に封じられた。(朝鮮遠征では)荀彘に捕縛された。しばらくして病死した。一方、王温舒は再び中尉となった。人柄は飾り気がなく教養に乏しく、朝廷ではぼんやりとして弁も立たなかったが、中尉の職に就くと生き生きとした。盗賊の取り締まりを監督するにあたって、もとから関中の風俗に通じ、悪辣な役人たちを知っていたので、そうした悪辣な役人たちがみな再び彼のために働き、計略を立てた。役人たちは苛酷に詮索し、盗賊や不良少年に投書用の壺に投書させて懸賞金を与えて悪事を密告させ、伯格長(村々の監視役)を置いて悪人や盗賊を見張らせた。王温舒はへつらう人柄で、権勢のある者にはうまく仕えたが、権勢のない者は奴隷のように扱った。権勢のある家は、山のように悪事があっても手を出さなかったが、権勢のない者は、たとえ貴族や外戚でも必ず辱めた。法文をもてあそんで貧しい家の悪賢い者を巧みに罪に陥れ、それによって大豪族を脅した。彼の中尉としての統治はこのようであった。悪賢い者は徹底的に取り調べられ、たいてい獄中で朽ち果て、判決を受けて獄から出られた者はいなかった。その手足となる役人たちは、冠をかぶった虎であった。こうして中尉の管轄下では、中程度以下の悪人はみな身を潜め、権勢のある者は彼のために評判を広め、よく治まっているとたたえた。数年治めると、その役人たちの多くは権力によって富を得た。王温舒は東越を討って帰ると、議論で主上の意に沿わないことがあり、些細な法に触れて罪に問われ免職された。このころ天子はちょうど通天台を造ろうとしていたが人手がなかった。王温舒は中尉の管轄下で兵役を逃れている者を調べ上げることを願い出て、数万人を得て工事にあたらせた。主上は喜び、少府に任じた。右内史に移っても、統治は以前のままで、悪事は少し抑えられた。法に触れて官を失った。再び右輔都尉となり、中尉の職務を代行した。やり方は以前と同じであった。一年余りして、ちょうど大宛への遠征軍が出発することになり、詔によって勇猛な役人を徴発したが、王温舒は部下の華成をかくまった。また王温舒が騎兵の定員を操作して金銭を受け取ったことや、その他の不正な利得を変事として告発する者があり、罪は一族皆殺しに当たるとされ、自殺した。そのとき二人の弟と二つの姻戚の家も、それぞれ別の罪に問われて一族皆殺しとなった。光禄勲の徐自為は言った。「悲しいことだ。昔は三族(父・母・妻の一族)を滅ぼす刑があったが、王温舒は同時に五族まで滅ぼされるに至ったのか」。王温舒が死んだとき、家の財産は千金を重ねるほどであった。数年後、尹斉もまた淮陽都尉として病死したが、家の財産は五十金にも満たなかった。
解説
関連する章句
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史記 酷吏列伝素より広平に居りし時、皆河内の豪姦の家を知る、往くに及び、九月にして至る。郡をして私馬五十匹を具へしめ、駅を為りて河内より長安に至り、吏を部すること広平に居りし時の方略の如くし、郡中の豪猾を捕ふ、郡中の豪猾相連坐すること千余家。上書して請ふ、大なる者は族に至り、小なる者は乃ち死し、家は尽く没入して臧を償はしむ。奏行くこと二三日に過ぎずして、可を得て事とす。論報して、流血十余里に至る。河内皆其の奏を怪しみ、以て神速と為す。十二月を尽くして、郡中声毋く、敢て夜行く毋く、野に犬吠の盗無し。其の頗る得ざるもの、之を旁の郡国に失ふ、黎来るに、会々春なり、温舒足を頓して嘆じて曰く、「嗟乎、冬月をして益々一月を展べしめば、吾が事足れり」と。其の殺伐を好み威を行ひて人を愛せざること此くの如し。天子之を聞き、以て能と為し、遷して中尉と為す。其の治復た河内に放ひ、諸々の名禍猾吏を徙して与に事に従ふ、河内は則ち楊皆・麻戊、関中は楊贛・成信等なり。義縦内史為り、憚りて未だ敢て恣に治めず。縦死し、張湯敗るるの後に及び、徙りて廷尉と為る、而して尹斉中尉と為る。尹斉は、東郡茌平の人なり。刀筆を以て稍く遷りて御史に至る。張湯に事ふ、張湯数々称して以て廉武と為し、盗賊を督せしむ、斬伐する所貴戚を避けず。遷りて関内の都尉と為る、声寧成より甚し。上以て能と為し、遷して中尉と為す、吏民益々凋敝す。尹斉は木彊にして文少なし、豪悪の吏伏匿して善吏は治を為すこと能はず、故を以て事多く廃れ、罪に抵る。上復た温舒を徙して中尉と為す、而して楊僕厳酷を以て主爵都尉と為る。楊僕は、宜陽の人なり。千夫を以て吏と為る。河南の守案じて挙げて以て能と為し、遷りて御史と為り、盗賊を関東に督せしむ。治むること尹斉に放ひ、以て敢て摯行すと為す。稍く遷りて主爵都尉に至り、九卿に列す。天子以て能と為す。
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史記 酷吏列伝縦至り、定襄の獄中の重罪の軽く繋がるる二百余人、及び賓客昆弟の私に入りて相視る亦二百余人を掩ふ。縦一に捕鞠して、曰く「死罪の為に解脱せしむ」と。是の日皆報じて四百余人を殺す。其の後郡中寒からずして栗へ、猾民吏を佐けて治を為す。是の時趙禹・張湯深刻を以て九卿と為る、然れども其の治尚ほ寛にして、法を輔けて行ふ、而して縦は鷹撃毛摯を以て治を為す。後に会々五銖銭・白金起こり、民姦を為す、京師尤も甚し、乃ち縦を以て右内史と為し、王温舒を中尉と為す。温舒は至悪なり、其の為す所先に縦に言はざれば、縦必ず気を以て之を淩ぎ、其の功を敗壊す。其の治、誅殺する所甚だ多し、然れども小治を為すを取り、姦益々勝へず、直指始めて出づ。吏の治は斬殺縛束を以て務めと為し、閻奉悪を以て用ひらる。縦は廉なり、其の治郅都に放ふ。上鼎湖に幸し、病久しく、已にして卒かに起ちて甘泉に幸す、道多く治まらず。上怒りて曰く、「縦我を以て復た此の道を行かずと為すか」と。之を嗛む。冬に至り、楊可方に告緡を受く、縦以て此れ民を乱すと為し、吏を部して其の可が使ひ為る者を捕へしむ。天子聞き、杜式をして治めしむ、以て廃格沮事と為し、縦を市に棄つ。後一歳にして、張湯も亦死す。王温舒は、陽陵の人なり。少き時椎埋して姦を為す。已にして試みに県の亭長に補せらるるも、数々廃せらる。吏と為り、獄を治むるを以て廷史に至る。張湯に事へ、遷りて御史と為る。盗賊を督し、殺傷甚だ多し、稍く遷りて広平の都尉に至る。郡中の豪にして敢て任ずる吏十余人を択び、以て爪牙と為し、皆其の陰の重罪を把り、而して縦ちて盗賊を督せしめ、其の意の得んと欲する所を快くす。此の人百罪有りと雖も、法せず。即し避くる有らば、其の事に因りて之を夷ぐ、亦宗を滅ぼす。其の故を以て斉趙の郊の盗賊敢て広平に近づかず、広平声あり道に遺ちたるを拾はずと為す。上聞き、遷して河内太守と為す。
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史記 酷吏列伝淮陽に誅滅する所甚だ多し、死するに及び、仇家其の尸を焼かんと欲す、尸亡げ去りて帰葬す。温舒等悪を以て治を為してより、而して郡守・都尉・諸侯の二千石の治を為さんと欲する者、其の治大抵尽く温舒に放ふ、而して吏民益々軽く法を犯し、盗賊滋々起こる。南陽に梅免・白政有り、楚に殷中・杜少有り、斉に徐勃有り、燕趙の間に堅盧・范生の属有り。大群は数千人に至り、擅に自ら号し、城邑を攻め、庫兵を取り、死罪を釈し、郡の太守・都尉を縛辱し、二千石を殺し、檄を為りて県に告げて食を具ふるを趣す。小群は百を以て数へ、郷里を掠鹵する者、勝げて数ふべからざるなり。是に於て天子始めて御史中丞・丞相長史をして之を督せしむ。猶ほ禁ずること能はざるなり、乃ち光禄大夫范昆・諸輔都尉及び故の九卿張徳等をして繍衣を衣、節を持し、虎符もて兵を発して以て興撃せしむ、首を斬ること大部或いは万余級に至り、及び法を以て通飲食を誅し、坐して諸郡に連なり、甚しき者は数千人。数歳にして、乃ち頗る其の渠率を得。散卒失亡し、復た党を聚めて山川に阻む者、往往にして群居し、柰何ともすべき無し。是に於て「沈命法」を作る、曰く群盗起こりて発覚せず、発覚して捕ふるも品に満たざる者は、二千石以下小吏の主る者に至るまで皆死せしむと。其の後小吏誅を畏れ、盗有りと雖も敢て発せず、得ること能はずして、課に坐して府に累はさんことを恐る、府も亦其れをして言はざらしむ。故に盗賊寖く多く、上下相為に匿し、文辞を以て法を避く。減宣は、楊の人なり。佐史にして害無きを以て河東の守府に給事す。衛将軍青使ひして馬を河東に買はしむ、宣の害無きを見て、上に言ひ、徴して大廐の丞と為す。官事弁じ、稍く遷りて御史及び中丞に至る。主父偃を治め及び淮南の反獄を治めしむ、微文深詆を以てする所以、殺す者甚だ衆し、称して敢て疑はしきを決すと為す。
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史記 酷吏列伝王温舒等後に起こり、治むること禹より酷なり。禹老いたるを以て、徙りて燕の相と為る。数歳にして、乱悖して罪有り、免ぜられて帰る。湯に後るること十余年、寿を以て家に卒す。義縦は、河東の人なり。少年為りし時、嘗て張次公と倶に攻剽して群盗と為る。縦に姊姁有り、医を以て王太后に幸せらる。王太后問ふ、「子兄弟の官為る者有るか」と。姊曰く、「弟有るも行ひ無し、不可なり」と。太后乃ち上に告げ、義姁の弟縦を拝して中郎と為し、上党郡中の令に補す。治むること敢行にして、蘊藉少なし、県に逋事無く、挙げられて第一と為る。遷りて長陵及び長安の令と為り、法を直くし治を行ひ、貴戚を避けず。太后の外孫修成君の子仲を捕へ案ずるを以て、上以て能と為し、遷して河内の都尉と為す。至れば則ち其の豪穣氏の属を族滅し、河内道に遺ちたるを拾はず。而して張次公も亦郎と為り、勇悍を以て軍に従ひ、敢て深く入り、功有り、岸頭侯と為る。寧成家居す、上以て郡守と為さんと欲す。御史大夫弘曰く、「臣山東に居りて小吏為りし時、寧成済南の都尉為り、其の治狼の羊を牧するが如し。成は民を治めしむべからず」と。上乃ち成を拝して関の都尉と為す。歳余にして、関東の吏隷の郡国の関を出入する者、号して曰く「寧ろ乳虎を見るとも、寧成の怒りに値ふ無かれ」と。義縦河内より遷りて南陽太守と為る、寧成の家南陽に居ると聞く、縦の関に至るに及び、寧成側行して送迎す、然れども縦気盛んにして、礼を為さず。郡に至り、遂に寧氏を案じ、尽く其の家を破砕す。成罪有るに坐し、及び孔・暴の属皆奔亡し、南陽の吏民足を重ねて跡を一にす。而して平氏の朱彊・杜衍の杜周縦の牙爪の吏と為り、任用せられ、遷りて廷史と為る。軍数々定襄に出で、定襄の吏民乱敗す、是に於て縦を徙して定襄太守と為す。
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史記 酷吏列伝数々廃せられ数々起こり、御史及び中丞為ること幾ど二十歳。王温舒中尉を免ぜられ、而して宣左内史と為る。其の米塩を治む、事の大小皆其の手に関はる、自ら県名曹の実物を部署し、官吏令丞擅に揺かすことを得ず、痛く重法を以て之を縄す。官に居ること数年、一切の郡中小治弁を為す、然れども独り宣のみ小を以て大に致し、能く力に因りて之を行ふ、以て経と為し難し。中ごろ廃せらる。右扶風と為り、成信を怨むに坐す、信亡げて上林の中に蔵る、宣郿の令をして信を格殺せしむ、吏卒信を格する時、射て上林苑の門に中つ、宣吏に下されて罪を詆られ、以て大逆と為し、族に当たる、自殺す。而して杜周任用せらる。杜周は、南陽杜衍の人なり。義縦南陽の守為り、以て爪牙と為し、挙げて廷尉史と為す。張湯に事ふ、湯数々其の害無きを言ひ、御史に至る。辺の失亡を案ぜしむ、論殺する所甚だ衆し。事を奏して上の意に中る、任用せられ、減宣と相編み、更々中丞と為ること十余歳。其の治宣と相放ふ、然れども重遅にして、外は寛、内は深く骨に次ぐ。宣左内史為り、周廷尉為り、其の治大いに張湯に放ひて善く候伺す。上の擠さんと欲する所は、因りて之を陥れ、上の釈さんと欲する所は、久しく繋ぎて問を待ちて微かに其の冤状を見す。客周を譲めて曰く、「君天子の為に平を決す、三尺の法に循はず、専ら人主の意指を以て獄を為す。獄は固より是くの如きか」と。周曰く、「三尺安くより出づるや。前主の是とする所は著して律と為し、後主の是とする所は疏して令と為す、当時是と為す、何ぞ古の法ならんや」と。周廷尉と為るに至り、詔獄も亦益々多し。二千石の繋がるる者新故相因り、百余人を減ぜず。郡吏大府之を廷尉に挙ぐ、一歳に千余章に至る。章の大なる者は連逮証案数百、小なる者は数十人。遠き者は数千、近き者は数百里。獄に会し、吏因りて責むること章の告劾の如くし、服せざれば、笞掠を以て之を定む。
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