史記 / 酷吏列伝
縱至,掩定襄獄中重罪輕繋二百餘人,及賓客昆弟私入相視亦二百餘人。縱一捕鞠,曰「爲死罪解脱」。是日皆報殺四百餘人。其後郡中不寒而栗,猾民佐吏爲治。是時趙禹、張湯以深刻爲九卿矣,然其治尚寬,輔法而行,而縱以鷹撃毛摯爲治。後會五銖錢白金起,民爲姦,京師尤甚,乃以縱爲右内史,王温舒爲中尉。温舒至惡,其所爲不先言縱,縱必以氣淩之,敗壞其功。其治,所誅殺甚多,然取爲小治,姦益不勝,直指始出矣。吏之治以斬殺縛束爲務,閻奉以惡用矣。縱廉,其治放郅都。上幸鼎湖,病久,已而卒起幸甘泉,道多不治。上怒曰:「縱以我爲不復行此道乎?」嗛之。至冬,楊可方受告緡,縱以爲此亂民,部吏捕其爲可使者。天子聞,使杜式治,以爲廢格沮事,棄縱市。後一歳,張湯亦死。王温舒者,陽陵人也。少時椎埋爲姦。已而試補縣亭長,數廢。爲吏,以治獄至廷史。事張湯,遷爲御史。督盜賊,殺傷甚多,稍遷至廣平都尉。擇郡中豪敢任吏十餘人,以爲爪牙,皆把其陰重罪,而縱使督盜賊,快其意所欲得。此人雖有百罪,弗法;卽有避,因其事夷之,亦滅宗。以其故齊趙之郊盜賊不敢近廣平,廣平聲爲道不拾遺。上聞,遷爲河内太守。
新字:縦至,掩定襄獄中重罪軽繋二百余人,及賓客昆弟私入相視亦二百余人。縦一捕鞠,曰「為死罪解脱」。是日皆報殺四百余人。其後郡中不寒而栗,猾民佐吏為治。是時趙禹、張湯以深刻為九卿矣,然其治尚寛,輔法而行,而縦以鷹撃毛摯為治。後会五銖銭白金起,民為姦,京師尤甚,乃以縦為右内史,王温舒為中尉。温舒至悪,其所為不先言縦,縦必以気淩之,敗壊其功。其治,所誅殺甚多,然取為小治,姦益不勝,直指始出矣。吏之治以斬殺縛束為務,閻奉以悪用矣。縦廉,其治放郅都。上幸鼎湖,病久,已而卒起幸甘泉,道多不治。上怒曰:「縦以我為不復行此道乎?」嗛之。至冬,楊可方受告緡,縦以為此乱民,部吏捕其為可使者。天子聞,使杜式治,以為廃格沮事,棄縦市。後一歳,張湯亦死。王温舒者,陽陵人也。少時椎埋為姦。已而試補県亭長,数廃。為吏,以治獄至廷史。事張湯,遷為御史。督盗賊,殺傷甚多,稍遷至広平都尉。択郡中豪敢任吏十余人,以為爪牙,皆把其陰重罪,而縦使督盗賊,快其意所欲得。此人雖有百罪,弗法;即有避,因其事夷之,亦滅宗。以其故斉趙之郊盗賊不敢近広平,広平声為道不拾遺。上聞,遷為河内太守。
書き下し
縦至り、定襄の獄中の重罪の軽く繋がるる二百余人、及び賓客昆弟の私に入りて相視る亦二百余人を掩ふ。縦一に捕鞠して、曰く「死罪の為に解脱せしむ」と。是の日皆報じて四百余人を殺す。其の後郡中寒からずして栗へ、猾民吏を佐けて治を為す。是の時趙禹・張湯深刻を以て九卿と為る、然れども其の治尚ほ寛にして、法を輔けて行ふ、而して縦は鷹撃毛摯を以て治を為す。後に会々五銖銭・白金起こり、民姦を為す、京師尤も甚し、乃ち縦を以て右内史と為し、王温舒を中尉と為す。温舒は至悪なり、其の為す所先に縦に言はざれば、縦必ず気を以て之を淩ぎ、其の功を敗壊す。其の治、誅殺する所甚だ多し、然れども小治を為すを取り、姦益々勝へず、直指始めて出づ。吏の治は斬殺縛束を以て務めと為し、閻奉悪を以て用ひらる。縦は廉なり、其の治郅都に放ふ。上鼎湖に幸し、病久しく、已にして卒かに起ちて甘泉に幸す、道多く治まらず。上怒りて曰く、「縦我を以て復た此の道を行かずと為すか」と。之を嗛む。冬に至り、楊可方に告緡を受く、縦以て此れ民を乱すと為し、吏を部して其の可が使ひ為る者を捕へしむ。天子聞き、杜式をして治めしむ、以て廃格沮事と為し、縦を市に棄つ。後一歳にして、張湯も亦死す。王温舒は、陽陵の人なり。少き時椎埋して姦を為す。已にして試みに県の亭長に補せらるるも、数々廃せらる。吏と為り、獄を治むるを以て廷史に至る。張湯に事へ、遷りて御史と為る。盗賊を督し、殺傷甚だ多し、稍く遷りて広平の都尉に至る。郡中の豪にして敢て任ずる吏十余人を択び、以て爪牙と為し、皆其の陰の重罪を把り、而して縦ちて盗賊を督せしめ、其の意の得んと欲する所を快くす。此の人百罪有りと雖も、法せず。即し避くる有らば、其の事に因りて之を夷ぐ、亦宗を滅ぼす。其の故を以て斉趙の郊の盗賊敢て広平に近づかず、広平声あり道に遺ちたるを拾はずと為す。上聞き、遷して河内太守と為す。
現代語訳
義縦は着任すると、定襄の獄中で重罪なのに軽くつながれているだけの二百余人と、賓客や兄弟でひそかに獄に入って面会していた者二百余人を、不意に捕らえた。義縦はまとめて逮捕して取り調べ、「死罪の者を逃がそうとした」とした。その日のうちに判決を下して四百余人を殺した。その後、郡の中は寒くもないのに震え上がり、悪賢い民も役人を助けて治安に協力した。このころ趙禹や張湯は苛酷さで九卿となっていたが、その統治はまだ寛大な面があり、法を補いながら行っていた。しかし義縦は鷹が獲物に襲いかかるような激しさで治めた。後に五銖銭と白金の貨幣が作られると、民は偽造などの悪事を働き、都がとくにひどかったので、義縦を右内史、王温舒を中尉とした。王温舒はきわめて悪辣であったが、自分のすることを先に義縦に言っておかないと、義縦は必ず気迫で彼をしのぎ、その功をぶち壊した。その統治では誅殺した者がたいへん多かったが、目先の小さな治安を得るだけで、悪事はますます抑えきれず、直指使者(天子直属の監察官)が初めて派遣されるようになった。役人の統治は斬殺と捕縛ばかりを務めとし、閻奉は悪辣さによって用いられた。義縦は清廉で、その統治は郅都を手本としていた。主上が鼎湖宮に行幸して長く病に伏し、やがて急に起き上がって甘泉宮に行幸したところ、道の多くが整備されていなかった。主上は怒って言った。「義縦はわたしがもうこの道を通ることはないと思っていたのか」。それを根に持った。冬になって、楊可がちょうど告緡(財産隠しの告発)の受付を担当していたが、義縦はこれは民を乱すものだとして、部下の役人に命じて楊可の使いの者を捕らえさせた。天子はそれを聞くと、杜式に取り調べさせ、詔を妨げ事業を阻んだ罪として、義縦を市で死刑にした。その一年後、張湯もまた死んだ。王温舒は陽陵の人である。若いころは人を殺して埋めるなどの悪事を働いていた。やがて試みに県の亭長に補任されたが、たびたび罷免された。役人となって、獄を裁くことで廷史に至った。張湯に仕えて御史に昇進した。盗賊の取り締まりを監督し、殺傷した者がたいへん多く、しだいに昇進して広平の都尉に至った。郡中の豪族で思い切ったことのできる役人十余人を選んで手足とし、彼らの隠れた重罪の証拠をすべて握っておいて、盗賊の取り締まりをさせ、自分の望む成果を存分に挙げさせた。こうした者はたとえ百の罪があっても処罰しなかったが、もし手を抜けば、その罪を口実に殺し、一族まで滅ぼした。そのため斉・趙の境の盗賊は広平に近づこうとせず、広平は道に落ちた物を拾う者もいないと評判になった。主上はそれを聞いて、王温舒を河内太守に昇進させた。
解説
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史記 酷吏列伝王温舒等後に起こり、治むること禹より酷なり。禹老いたるを以て、徙りて燕の相と為る。数歳にして、乱悖して罪有り、免ぜられて帰る。湯に後るること十余年、寿を以て家に卒す。義縦は、河東の人なり。少年為りし時、嘗て張次公と倶に攻剽して群盗と為る。縦に姊姁有り、医を以て王太后に幸せらる。王太后問ふ、「子兄弟の官為る者有るか」と。姊曰く、「弟有るも行ひ無し、不可なり」と。太后乃ち上に告げ、義姁の弟縦を拝して中郎と為し、上党郡中の令に補す。治むること敢行にして、蘊藉少なし、県に逋事無く、挙げられて第一と為る。遷りて長陵及び長安の令と為り、法を直くし治を行ひ、貴戚を避けず。太后の外孫修成君の子仲を捕へ案ずるを以て、上以て能と為し、遷して河内の都尉と為す。至れば則ち其の豪穣氏の属を族滅し、河内道に遺ちたるを拾はず。而して張次公も亦郎と為り、勇悍を以て軍に従ひ、敢て深く入り、功有り、岸頭侯と為る。寧成家居す、上以て郡守と為さんと欲す。御史大夫弘曰く、「臣山東に居りて小吏為りし時、寧成済南の都尉為り、其の治狼の羊を牧するが如し。成は民を治めしむべからず」と。上乃ち成を拝して関の都尉と為す。歳余にして、関東の吏隷の郡国の関を出入する者、号して曰く「寧ろ乳虎を見るとも、寧成の怒りに値ふ無かれ」と。義縦河内より遷りて南陽太守と為る、寧成の家南陽に居ると聞く、縦の関に至るに及び、寧成側行して送迎す、然れども縦気盛んにして、礼を為さず。郡に至り、遂に寧氏を案じ、尽く其の家を破砕す。成罪有るに坐し、及び孔・暴の属皆奔亡し、南陽の吏民足を重ねて跡を一にす。而して平氏の朱彊・杜衍の杜周縦の牙爪の吏と為り、任用せられ、遷りて廷史と為る。軍数々定襄に出で、定襄の吏民乱敗す、是に於て縦を徙して定襄太守と為す。
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史記 酷吏列伝素より広平に居りし時、皆河内の豪姦の家を知る、往くに及び、九月にして至る。郡をして私馬五十匹を具へしめ、駅を為りて河内より長安に至り、吏を部すること広平に居りし時の方略の如くし、郡中の豪猾を捕ふ、郡中の豪猾相連坐すること千余家。上書して請ふ、大なる者は族に至り、小なる者は乃ち死し、家は尽く没入して臧を償はしむ。奏行くこと二三日に過ぎずして、可を得て事とす。論報して、流血十余里に至る。河内皆其の奏を怪しみ、以て神速と為す。十二月を尽くして、郡中声毋く、敢て夜行く毋く、野に犬吠の盗無し。其の頗る得ざるもの、之を旁の郡国に失ふ、黎来るに、会々春なり、温舒足を頓して嘆じて曰く、「嗟乎、冬月をして益々一月を展べしめば、吾が事足れり」と。其の殺伐を好み威を行ひて人を愛せざること此くの如し。天子之を聞き、以て能と為し、遷して中尉と為す。其の治復た河内に放ひ、諸々の名禍猾吏を徙して与に事に従ふ、河内は則ち楊皆・麻戊、関中は楊贛・成信等なり。義縦内史為り、憚りて未だ敢て恣に治めず。縦死し、張湯敗るるの後に及び、徙りて廷尉と為る、而して尹斉中尉と為る。尹斉は、東郡茌平の人なり。刀筆を以て稍く遷りて御史に至る。張湯に事ふ、張湯数々称して以て廉武と為し、盗賊を督せしむ、斬伐する所貴戚を避けず。遷りて関内の都尉と為る、声寧成より甚し。上以て能と為し、遷して中尉と為す、吏民益々凋敝す。尹斉は木彊にして文少なし、豪悪の吏伏匿して善吏は治を為すこと能はず、故を以て事多く廃れ、罪に抵る。上復た温舒を徙して中尉と為す、而して楊僕厳酷を以て主爵都尉と為る。楊僕は、宜陽の人なり。千夫を以て吏と為る。河南の守案じて挙げて以て能と為し、遷りて御史と為り、盗賊を関東に督せしむ。治むること尹斉に放ひ、以て敢て摯行すと為す。稍く遷りて主爵都尉に至り、九卿に列す。天子以て能と為す。
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史記 酷吏列伝南越反し、拝して楼船将軍と為る、功有り、将梁侯に封ぜらる。荀彘の縛する所と為る。居ること之を久しくして、病死す。而して温舒復た中尉と為る。人と為り文少なく、廷に居りては惛惛として弁ぜず、中尉に至れば則ち心開く。盗賊を督す、素より関中の俗に習ひ、豪悪の吏を知る、豪悪の吏尽く復た用を為し、方略を為す。吏苛察にして、盗賊・悪少年缿に投じて購ひ姦を告言せしめ、伯格長を置きて以て姦盗賊を牧司す。温舒人と為り讇ひて善く埶有る者に事ふ。即し埶無き者は、之を視ること奴の如し。埶有る家は、姦有ること山の如しと雖も、犯さず。埶無き者は、貴戚も必ず侵辱す。文を舞はして巧みに下戸の猾を詆り、以て大豪を熏ず。其の中尉を治むること此くの如し。姦猾窮治せられ、大抵尽く獄中に靡爛し、行論して出づる者無し。其の爪牙の吏は虎にして冠す。是に於て中尉の部中の中猾以下皆伏し、勢ひ有る者為に声誉を游ばせ、治まると称す。治むること数歳、其の吏多く権を以て富む。温舒東越を撃ちて還り、議に意に中らざる者有り、小法に坐して罪に抵りて免ぜらる。是の時天子方に通天台を作らんと欲して未だ人有らず、温舒中尉の脱卒を覆さんことを請ひ、数万人を得て作る。上説び、拝して少府と為す。徙りて右内史と為る、治むること其の故の如く、姦邪少しく禁ず。法に坐して官を失ふ。復た右輔と為り、中尉の事を行ふ。故の操の如し。歳余にして、会々宛の軍発す、詔して豪吏を徴す、温舒其の吏華成を匿す、及び人の温舒の員騎の銭を受け、他の姦利の事を変告する有り、罪族に至る、自殺す。其の時両弟及び両婚家も亦各自ら他罪に坐して族せらる。光禄徐自為曰く、「悲しいかな、夫れ古に三族有り、而して王温舒は罪同時にして五族に至るか」と。温舒死し、家の直千金を累ぬ。後数歳にして、尹斉も亦淮陽の都尉を以て病死す、家の直五十金に満たず。
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史記 酷吏列伝治むる所即し上の意の罪せんと欲する所ならば、監史の深禍なる者に予へ、即し上の意の釈さんと欲する所ならば、監史の軽平なる者に与ふ。治むる所即し豪ならば、必ず文を舞はし巧みに詆る。即し下戸の羸弱ならば、時に口もて言ふ、文もて法を致すと雖も、上財察せよと。是に於て往往にして湯の言ふ所を釈す。湯大吏に至り、内行修まる。賓客に通じて飲食す。故人の子弟の吏為る及び貧しき昆弟に於て、之を調護すること尤も厚し。其の諸公に造り請ふこと、寒暑を避けず。是を以て湯は文深く意忌にして専ら平らかならずと雖も、然れども此の声誉を得たり。而して刻深の吏の多く爪牙の用を為す者は、文学の士に依る。丞相弘数々其の美を称す。淮南・衡山・江都の反獄を治むるに及び、皆根本を窮む。厳助及び伍被、上之を釈さんと欲す。湯争ひて曰く、「伍被は本反謀を画す、而して助は親幸して禁闥に出入する爪牙の臣なり、乃ち諸侯と交私すること此くの如し、誅せずんば、後に治むべからず」と。是に於て上之を論ずるを可とす。其の獄を治めて大臣を排して自ら功と為すこと、多く此の類なり。是に於て湯益々尊任せられ、遷りて御史大夫と為る。会々渾邪等降り、漢大いに兵を興して匈奴を伐つ、山東水旱あり、貧民流徙し、皆給を県官に仰ぐ、県官空虚なり。是に於て上の指を丞け、請ひて白金及び五銖銭を造り、天下の塩鉄を籠め、富商大賈を排し、告緡令を出だし、豪彊并兼の家を鉏き、文を舞はし巧みに詆りて以て法を輔く。湯朝する毎に事を奏し、国家の用を語り、日晏れ、天子食を忘る。丞相は充位を取るのみ、天下の事皆湯に決す。百姓其の生に安んぜず、騒動す、県官の興す所、未だ其の利を獲ず、姦吏并びに侵漁す、是に於て痛く縄するに罪を以てす。則ち公卿以下より、庶人に至るまで、咸湯を指す。湯嘗て病む、天子自ら至りて病を視る、其の隆貴なること此くの如し。匈奴来たりて和親を請ふ、群臣上の前に議す。博士狄山曰く、「和親便なり」と。
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史記 酷吏列伝淮陽に誅滅する所甚だ多し、死するに及び、仇家其の尸を焼かんと欲す、尸亡げ去りて帰葬す。温舒等悪を以て治を為してより、而して郡守・都尉・諸侯の二千石の治を為さんと欲する者、其の治大抵尽く温舒に放ふ、而して吏民益々軽く法を犯し、盗賊滋々起こる。南陽に梅免・白政有り、楚に殷中・杜少有り、斉に徐勃有り、燕趙の間に堅盧・范生の属有り。大群は数千人に至り、擅に自ら号し、城邑を攻め、庫兵を取り、死罪を釈し、郡の太守・都尉を縛辱し、二千石を殺し、檄を為りて県に告げて食を具ふるを趣す。小群は百を以て数へ、郷里を掠鹵する者、勝げて数ふべからざるなり。是に於て天子始めて御史中丞・丞相長史をして之を督せしむ。猶ほ禁ずること能はざるなり、乃ち光禄大夫范昆・諸輔都尉及び故の九卿張徳等をして繍衣を衣、節を持し、虎符もて兵を発して以て興撃せしむ、首を斬ること大部或いは万余級に至り、及び法を以て通飲食を誅し、坐して諸郡に連なり、甚しき者は数千人。数歳にして、乃ち頗る其の渠率を得。散卒失亡し、復た党を聚めて山川に阻む者、往往にして群居し、柰何ともすべき無し。是に於て「沈命法」を作る、曰く群盗起こりて発覚せず、発覚して捕ふるも品に満たざる者は、二千石以下小吏の主る者に至るまで皆死せしむと。其の後小吏誅を畏れ、盗有りと雖も敢て発せず、得ること能はずして、課に坐して府に累はさんことを恐る、府も亦其れをして言はざらしむ。故に盗賊寖く多く、上下相為に匿し、文辞を以て法を避く。減宣は、楊の人なり。佐史にして害無きを以て河東の守府に給事す。衛将軍青使ひして馬を河東に買はしむ、宣の害無きを見て、上に言ひ、徴して大廐の丞と為す。官事弁じ、稍く遷りて御史及び中丞に至る。主父偃を治め及び淮南の反獄を治めしむ、微文深詆を以てする所以、殺す者甚だ衆し、称して敢て疑はしきを決すと為す。
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