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史記 / 酷吏列伝

王温舒等後起,治酷於禹。禹以老,徙爲燕相。數歳,亂悖有罪,免歸。後湯十餘年,以壽卒于家。義縱者,河東人也。爲少年時,嘗與張次公倶攻剽爲群盜。縱有姊姁,以醫幸王太后。王太后問:「有子兄弟爲官者乎?」姊曰:「有弟無行,不可。」太后乃告上,拜義姁弟縱爲中郎,補上黨郡中令。治敢行,少蘊藉,縣無逋事,舉爲第一。遷爲長陵及長安令,直法行治,不避貴戚。以捕案太后外孫修成君子仲,上以爲能,遷爲河内都尉。至則族滅其豪穰氏之屬,河内道不拾遺。而張次公亦爲郎,以勇悍從軍,敢深入,有功,爲岸頭侯。寧成家居,上欲以爲郡守。御史大夫弘曰:「臣居山東爲小吏時,寧成爲濟南都尉,其治如狼牧羊。成不可使治民。」上乃拜成爲關都尉。歳餘,關東吏隸郡國出入關者,號曰「寧見乳虎,無値寧成之怒」。義縱自河内遷爲南陽太守,聞寧成家居南陽,及縱至關,寧成側行送迎,然縱氣盛,弗爲禮。至郡,遂案寧氏,盡破碎其家。成坐有罪,及孔、暴之屬皆奔亡,南陽吏民重足一跡。而平氏朱彊、杜衍、杜周爲縱牙爪之吏,任用,遷爲廷史。軍數出定襄,定襄吏民亂敗,於是徙縱爲定襄太守。

新字:王温舒等後起,治酷於禹。禹以老,徙為燕相。数歳,乱悖有罪,免帰。後湯十余年,以寿卒于家。義縦者,河東人也。為少年時,嘗与張次公倶攻剽為群盗。縦有姊姁,以医幸王太后。王太后問:「有子兄弟為官者乎?」姊曰:「有弟無行,不可。」太后乃告上,拝義姁弟縦為中郎,補上党郡中令。治敢行,少蘊藉,県無逋事,舉為第一。遷為長陵及長安令,直法行治,不避貴戚。以捕案太后外孫修成君子仲,上以為能,遷為河内都尉。至則族滅其豪穰氏之属,河内道不拾遺。而張次公亦為郎,以勇悍従軍,敢深入,有功,為岸頭侯。寧成家居,上欲以為郡守。御史大夫弘曰:「臣居山東為小吏時,寧成為済南都尉,其治如狼牧羊。成不可使治民。」上乃拝成為関都尉。歳余,関東吏隸郡国出入関者,号曰「寧見乳虎,無値寧成之怒」。義縦自河内遷為南陽太守,聞寧成家居南陽,及縦至関,寧成側行送迎,然縦気盛,弗為礼。至郡,遂案寧氏,尽破砕其家。成坐有罪,及孔、暴之属皆奔亡,南陽吏民重足一跡。而平氏朱彊、杜衍、杜周為縦牙爪之吏,任用,遷為廷史。軍数出定襄,定襄吏民乱敗,於是徙縦為定襄太守。

書き下し

王温舒等後に起こり、治むること禹より酷なり。禹老いたるを以て、徙りて燕の相と為る。数歳にして、乱悖して罪有り、免ぜられて帰る。湯に後るること十余年、寿を以て家に卒す。義縦は、河東の人なり。少年為りし時、嘗て張次公と倶に攻剽して群盗と為る。縦に姊姁有り、医を以て王太后に幸せらる。王太后問ふ、「子兄弟の官為る者有るか」と。姊曰く、「弟有るも行ひ無し、不可なり」と。太后乃ち上に告げ、義姁の弟縦を拝して中郎と為し、上党郡中の令に補す。治むること敢行にして、蘊藉少なし、県に逋事無く、挙げられて第一と為る。遷りて長陵及び長安の令と為り、法を直くし治を行ひ、貴戚を避けず。太后の外孫修成君の子仲を捕へ案ずるを以て、上以て能と為し、遷して河内の都尉と為す。至れば則ち其の豪穣氏の属を族滅し、河内道に遺ちたるを拾はず。而して張次公も亦郎と為り、勇悍を以て軍に従ひ、敢て深く入り、功有り、岸頭侯と為る。寧成家居す、上以て郡守と為さんと欲す。御史大夫弘曰く、「臣山東に居りて小吏為りし時、寧成済南の都尉為り、其の治狼の羊を牧するが如し。成は民を治めしむべからず」と。上乃ち成を拝して関の都尉と為す。歳余にして、関東の吏隷の郡国の関を出入する者、号して曰く「寧ろ乳虎を見るとも、寧成の怒りに値ふ無かれ」と。義縦河内より遷りて南陽太守と為る、寧成の家南陽に居ると聞く、縦の関に至るに及び、寧成側行して送迎す、然れども縦気盛んにして、礼を為さず。郡に至り、遂に寧氏を案じ、尽く其の家を破砕す。成罪有るに坐し、及び孔・暴の属皆奔亡し、南陽の吏民足を重ねて跡を一にす。而して平氏の朱彊・杜衍の杜周縦の牙爪の吏と為り、任用せられ、遷りて廷史と為る。軍数々定襄に出で、定襄の吏民乱敗す、是に於て縦を徙して定襄太守と為す。

現代語訳

王温舒らが後に現れ、その統治は趙禹よりも苛酷であった。趙禹は老齢のため燕の相に移された。数年して、耄碌して道理に背いたことで罪に問われ、免職されて故郷に帰った。張湯より十余年後に、天寿を全うして家で亡くなった。義縦は河東の人である。若いころ、張次公とともに略奪を働く盗賊の群れに加わっていた。義縦には姁(く)という姉がいて、医術によって王太后に寵愛されていた。王太后が「兄弟か子で役人になっている者はいるか」と尋ねると、姉は「弟はいるが素行が悪く、役人には向かない」と答えた。太后はそれでも主上に告げ、義姁の弟の義縦を中郎に任じ、上党郡のある県の令に補任させた。その統治は思い切りがよく、包容力に欠けたが、県には税の滞納がなく、推挙されて成績第一となった。長陵と長安の県令に昇進すると、法をまっすぐに適用して治め、貴族や外戚も避けなかった。太后の外孫である修成君の子の仲を捕らえて取り調べたので、主上は有能だと考え、河内の都尉に昇進させた。着任すると、その地の豪族穣氏の一族を皆殺しにし、河内では道に落ちた物を拾う者もいなくなった。一方、張次公も郎となり、勇猛さで従軍し、恐れず敵地深く入って功を立て、岸頭侯となった。寧成が家にいたとき、主上は彼を郡の太守にしようとした。御史大夫の公孫弘は言った。「わたしが山東で下級の役人だったころ、寧成は済南の都尉で、その統治は狼に羊の番をさせるようなものだった。寧成に民を治めさせてはならない」。そこで主上は寧成を関所の都尉に任じた。一年余りたつと、関東の役人で郡国から関所を出入りする者たちは、「子連れの虎に出くわしても、寧成の怒りには触れるな」と言い合った。義縦は河内から南陽太守に転任した。寧成の家が南陽にあると聞いていたが、義縦が関所に着くと、寧成は身を低くして脇を歩き送り迎えした。しかし義縦は意気盛んで、礼を返さなかった。郡に着くと、すぐに寧氏を取り調べ、その家をことごとく打ち砕いた。寧成は罪に問われ、孔氏・暴氏らの豪族もみな逃亡し、南陽の役人や民は恐れて足を重ね、一つの足跡に足を置くように身をすくめた。平氏の朱彊と杜衍の杜周は義縦の手足となる役人として任用され、昇進して廷史となった。軍がたびたび定襄から出陣し、定襄の役人と民が乱れたので、義縦を定襄太守に移した。

解説

酷吏の系譜が次の世代へ移っていく段です。張湯の盟友趙禹は晩年は穏やかになり天寿を全うしますが、代わって王温舒ら、より苛酷な者たちが現れます。義縦はもと盗賊で、姉が王太后の侍医だった縁で役人になり、太后の外孫すら取り調べる容赦のなさで出世し、河内の豪族を皆殺しにしました。かつての酷吏寧成は関所の長官となって「子連れの虎に会っても寧成の怒りには触れるな」と恐れられますが、南陽では新たな酷吏義縦に家を打ち砕かれます。恐怖で人を支配した者が、より強い恐怖によって潰されていく連鎖です。また、公孫弘が寧成を「狼に羊の番をさせるようなもの」と評したのは的確でした。厳しさで成果を上げる人を次々と重用すると、組織はより苛烈な人材ばかりを生み出すことになります。

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