史記 / 酷吏列伝
湯數行丞相事,知此三長史素貴,常淩折之。以故三長史合謀曰:「始湯約與君謝,已而賣君;今欲劾君以宗廟事,此欲代君耳。吾知湯陰事。」使吏捕案湯左田信等,曰湯且欲奏請,信輒先知之,居物致富,與湯分之,及他姦事。事辭頗聞。上問湯曰:「吾所爲,賈人輒先知之,益居其物,是類有以吾謀告之者。」湯不謝。湯又詳驚曰:「固宜有。」減宣亦奏謁居等事。天子果以湯懷詐面欺,使使八輩簿責湯。湯具自道無此,不服。於是上使趙禹責湯。禹至,讓湯曰:「君何不知分也。君所治夷滅者幾何人矣?今人言君皆有狀,天子重致君獄,欲令君自爲計,何多以對簿爲?」湯乃爲書謝曰:「湯無尺寸功,起刀筆吏,陛下幸致爲三公,無以塞責。然謀陷湯罪者,三長史也。」遂自殺。湯死,家産直不過五百金,皆所得奉賜,無他業。昆弟諸子欲厚葬湯,湯母曰:「湯爲天子大臣,被汙惡言而死,何厚葬乎!」載以牛車,有棺無槨。天子聞之,曰:「非此母不能生此子。」乃盡案誅三長史。丞相靑翟自殺。出田信。上惜湯。稍遷其子安世。趙禹中廢,已而爲廷尉。始條侯以爲禹賊深,弗任。及禹爲少府,比九卿。禹酷急,至晩節,事益多,吏務爲嚴峻,而禹治加緩,而名爲平。
新字:湯数行丞相事,知此三長史素貴,常淩折之。以故三長史合謀曰:「始湯約与君謝,已而売君;今欲劾君以宗廟事,此欲代君耳。吾知湯陰事。」使吏捕案湯左田信等,曰湯且欲奏請,信輒先知之,居物致富,与湯分之,及他姦事。事辞頗聞。上問湯曰:「吾所為,賈人輒先知之,益居其物,是類有以吾謀告之者。」湯不謝。湯又詳驚曰:「固宜有。」減宣亦奏謁居等事。天子果以湯懐詐面欺,使使八輩簿責湯。湯具自道無此,不服。於是上使趙禹責湯。禹至,譲湯曰:「君何不知分也。君所治夷滅者幾何人矣?今人言君皆有状,天子重致君獄,欲令君自為計,何多以対簿為?」湯乃為書謝曰:「湯無尺寸功,起刀筆吏,陛下幸致為三公,無以塞責。然謀陥湯罪者,三長史也。」遂自殺。湯死,家産直不過五百金,皆所得奉賜,無他業。昆弟諸子欲厚葬湯,湯母曰:「湯為天子大臣,被汚悪言而死,何厚葬乎!」載以牛車,有棺無槨。天子聞之,曰:「非此母不能生此子。」乃尽案誅三長史。丞相青翟自殺。出田信。上惜湯。稍遷其子安世。趙禹中廃,已而為廷尉。始条侯以為禹賊深,弗任。及禹為少府,比九卿。禹酷急,至晩節,事益多,吏務為厳峻,而禹治加緩,而名為平。
書き下し
湯数々丞相の事を行ふ、此の三長史の素より貴きを知り、常に之を淩折す。故を以て三長史合謀して曰く、「始め湯君と謝せんことを約し、已にして君を売る。今君を劾するに宗廟の事を以てせんと欲す、此れ君に代はらんと欲するのみ。吾湯の陰事を知る」と。吏をして湯の左の田信等を捕へ案ぜしめ、曰く湯且に奏請せんと欲すれば、信輒ち先に之を知り、物を居へて富を致し、湯と之を分かつと、及び他の姦事あり。事の辞頗る聞こゆ。上湯に問ひて曰く、「吾の為す所、賈人輒ち先に之を知り、益々其の物を居ふ、是れ類ひ吾が謀を以て之に告ぐる者有るなり」と。湯謝せず。湯又詳り驚きて曰く、「固より宜しく有るべし」と。減宣も亦謁居等の事を奏す。天子果して湯を以て詐を懐き面欺すと為し、使ひ八輩をして湯を簿責せしむ。湯具に自ら此れ無しと道ひ、服せず。是に於て上趙禹をして湯を責めしむ。禹至り、湯を譲めて曰く、「君何ぞ分を知らざるや。君の治めて夷滅する所の者幾何人ぞや。今人君を言ふに皆状有り、天子重ねて君を獄に致し、君をして自ら計を為さしめんと欲す、何ぞ多く以て簿に対ふるを為さんや」と。湯乃ち書を為りて謝して曰く、「湯尺寸の功無く、刀筆の吏より起こり、陛下幸ひに致して三公と為す、以て責を塞ぐ無し。然れども謀りて湯を罪に陥るる者は、三長史なり」と。遂に自殺す。湯死し、家産の直五百金に過ぎず、皆得る所の奉賜にして、他の業無し。昆弟諸子厚く湯を葬らんと欲す、湯の母曰く、「湯は天子の大臣為り、汚悪の言を被りて死す、何ぞ厚く葬らんや」と。載するに牛車を以てし、棺有りて槨無し。天子之を聞きて、曰く、「此の母に非ずんば此の子を生むこと能はず」と。乃ち尽く案じて三長史を誅す。丞相青翟自殺す。田信を出だす。上湯を惜しむ。稍く其の子安世を遷す。趙禹中ごろ廃せられ、已にして廷尉と為る。始め条侯以為へらく禹は賊深なりと、任ぜず。禹少府と為るに及び、九卿に比す。禹は酷急なり、晩節に至り、事益々多く、吏務めて厳峻を為す、而して禹の治は加々緩やかにして、名づけて平と為す。
現代語訳
張湯はたびたび丞相の職務を代行し、この三人の長史がもとは高い身分であったことを知りながら、いつも彼らを侮り押さえつけていた。そのため三人の長史は共謀して(丞相に)言った。「はじめ張湯はあなたと一緒に謝罪すると約束しておきながら、すぐにあなたを売った。今度は宗廟の件であなたを弾劾しようとしている。これはあなたに取って代わろうとしているのだ。われわれは張湯の隠し事を知っている」。そして役人に命じて張湯の側近の田信らを捕らえて取り調べさせ、張湯が何かを上奏しようとすると、田信はいつも前もってそれを知り、物資を買い占めて富を築き、張湯とそれを山分けしていたこと、その他の悪事を明らかにした。その供述はかなり主上の耳に入った。主上は張湯に尋ねた。「わたしのすることを、商人たちはいつも前もって知っていて、ますます物を買い占めている。どうやらわたしの計画を彼らに漏らしている者がいるようだ」。張湯は謝罪しなかった。張湯はまたわざと驚いたふりをして言った。「きっといるに違いない」。減宣もまた魯謁居らの件を上奏した。天子はやはり、張湯は偽りを抱いて面と向かって欺いていると考え、八回も使者を送って罪状を一つ一つ責めさせた。張湯はすべて自分にはそのような事実はないと述べて、罪を認めなかった。そこで主上は趙禹に張湯を責めさせた。趙禹はやって来ると、張湯を責めて言った。「君はどうして身の程をわきまえないのか。君が取り調べて一族皆殺しにした者は何人いると思う。今、人々が君について言っていることには、みな証拠がある。天子は君を獄に下すことをはばかり、君に自分で身の処し方を決めさせようとしておられる。どうしてあれこれと罪状に反論する必要があろうか」。張湯はそこで書を書いて謝罪した。「わたしには寸分の功もなく、刀筆の吏から身を起こし、陛下はありがたくもわたしを三公にまでしてくださったが、その責任を果たすことができなかった。しかし、謀ってわたしを罪に陥れたのは三人の長史である」。そしてついに自殺した。張湯が死ぬと、家の財産は五百金にすぎず、すべて俸禄と下賜品で、ほかに財産はなかった。兄弟や子らは張湯を手厚く葬ろうとしたが、張湯の母は言った。「湯は天子の大臣でありながら、汚らわしい悪評を受けて死んだのだ。どうして手厚く葬ることがあろうか」。遺体を牛車に載せ、棺だけで外棺はなかった。天子はこれを聞いて、「この母でなければ、この子は生まれなかった」と言った。そこで三人の長史をことごとく取り調べて誅した。丞相の荘青翟は自殺した。田信は釈放された。主上は張湯を惜しみ、しだいにその子の張安世を昇進させた。趙禹は途中で罷免されたが、やがて廷尉となった。はじめ条侯周亜夫は、趙禹は残酷で厳しすぎるとして重用しなかった。趙禹は少府となって九卿と同格になった。趙禹は苛酷で性急であったが、晩年になると、政務はますます多くなり、役人たちは努めて厳しくしたのに、趙禹の政治はかえって緩やかになり、公平だと評判になった。
解説
関連する章句
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史記 酷吏列伝父死して後、湯長安の吏と為ること、之を久しくす。周陽侯始め諸卿為りし時、嘗て長安に繋がる、湯身を傾けて之が為にす。出でて侯と為るに及び、大いに湯と交はり、遍く湯を貴人に見えしむ。湯内史に給事し、寧成の掾と為る、湯を以て害無しと為し、大府に言ひ、調して茂陵の尉と為し、方中を治めしむ。武安侯丞相と為り、湯を徴して史と為し、時に之を天子に薦言し、御史に補し、事を案ぜしむ。陳皇后の蠱獄を治め、深く党与を竟む。是に於て上以て能と為し、稍く遷りて太中大夫に至る。趙禹と共に諸律令を定め、務めは文を深くし、職を守るの吏を拘するに在り。已にして趙禹遷りて中尉と為り、徙りて少府と為る、而して張湯廷尉と為る、両人交驩し、而して禹に兄事す。禹人と為り廉倨なり。吏と為りて以来、舎に食客毋し。公卿相造りて禹に請ふも、禹終に報謝せず、務めて知友賓客の請を絶ち、孤立して一意を行ふのみ。文法を見れば輒ち取り、亦覆案せず、官属の陰罪を求む。湯人と為り詐多く、智を舞はして以て人を御す。始め小吏為りしとき、乾没し、長安の富賈田甲・魚翁叔の属と交私す。九卿に列するに及び、天下の名士大夫を収接し、己の心内に合はずと雖も、然れども陽に浮慕す。是の時上方に文学に郷ふ、湯大獄を決し、古義に傅けんと欲し、乃ち博士弟子の尚書・春秋を治むるものを請ひて廷尉史に補し、疑法を亭す。疑事を奏讞するに、必ず豫め先に上の為に其の原を分別し、上の是とする所は、受けて讞決の法を廷尉の絜令に著し、主の明を揚ぐ。事を奏して即し譴めらるれば、湯応じて謝し、上の意の便とする所に郷ひ、必ず正・監・掾史の賢者を引きて、曰く、「固より臣の為に議す、上の臣を責むるが如し、臣用ひず、愚にして此に抵る」と。罪常に釈さる。間々事を奏して、上之を善しとすれば、曰く、「臣此の奏を為るを知るに非ず、乃ち正・監・掾史某之を為る」と。其の吏を薦めんと欲するや、人の善を揚げ人の過ちを蔽ふこと此くの如し。
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史記 酷吏列伝謁居病みて閭里の主人に臥す、湯自ら往きて疾を視、謁居の為に足を摩す。趙国は冶鋳を以て業と為す、王数々鉄官の事を訟ふ、湯常に趙王を排す。趙王湯の陰事を求む。謁居嘗て趙王を案ず、趙王之を怨み、并せて上書して告ぐ、「湯は、大臣なり、史謁居病有り、湯至りて為に足を摩す、疑ふらくは与に大姦を為すならん」と。事廷尉に下る。謁居病死す、事其の弟に連なり、弟導官に繋がる。湯も亦他の囚を導官に治む、謁居の弟を見、陰に之が為にせんと欲し、而して詳りて省みず。謁居の弟知らず、湯を怨み、人をして上書して湯と謁居と謀りて、共に李文を変告せしを告げしむ。事減宣に下る。宣嘗て湯と卻有り、此の事を得るに及び、其の事を窮竟するも、未だ奏せざるなり。会々人の孝文園の瘞銭を盗み発く者有り、丞相青翟朝し、湯と約して倶に謝せんとす、前に至り、湯念ふに独り丞相のみ四時を以て園を行る、当に謝すべし、湯は与る無しと、謝せず。丞相謝す、上御史をして其の事を案ぜしむ。湯其の文を丞相の見知に致さんと欲す、丞相之を患ふ。三長史皆湯を害し、之を陥れんと欲す。始め長史朱買臣は、会稽の人なり。春秋を読む。荘助人をして買臣を言はしむ、買臣楚辞を以て助と倶に幸せられ、侍中となり、太中大夫と為りて、事を用ふ。而して湯は乃ち小吏為り、買臣等の前に跪伏して使はる。已にして湯廷尉と為り、淮南の獄を治め、荘助を排擠す、買臣固より心に望む。湯御史大夫と為るに及び、買臣会稽守を以て主爵都尉と為り、九卿に列す。数年にして、法に坐して廃せられ、長史を守す、湯に見ゆるに、湯床上に坐し、丞史買臣を遇して礼を為さず。買臣は楚の士なり、深く怨み、常に之を死なしめんと欲す。王朝は、斉人なり。術を以て右内史に至る。辺通は、長短を学ぶ、剛暴にして彊き人なり、官再び済南の相に至る。故より皆湯の右に居る、已にして官を失ひ、長史を守し、体を湯に詘す。
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史記 酷吏列伝治むる所即し上の意の罪せんと欲する所ならば、監史の深禍なる者に予へ、即し上の意の釈さんと欲する所ならば、監史の軽平なる者に与ふ。治むる所即し豪ならば、必ず文を舞はし巧みに詆る。即し下戸の羸弱ならば、時に口もて言ふ、文もて法を致すと雖も、上財察せよと。是に於て往往にして湯の言ふ所を釈す。湯大吏に至り、内行修まる。賓客に通じて飲食す。故人の子弟の吏為る及び貧しき昆弟に於て、之を調護すること尤も厚し。其の諸公に造り請ふこと、寒暑を避けず。是を以て湯は文深く意忌にして専ら平らかならずと雖も、然れども此の声誉を得たり。而して刻深の吏の多く爪牙の用を為す者は、文学の士に依る。丞相弘数々其の美を称す。淮南・衡山・江都の反獄を治むるに及び、皆根本を窮む。厳助及び伍被、上之を釈さんと欲す。湯争ひて曰く、「伍被は本反謀を画す、而して助は親幸して禁闥に出入する爪牙の臣なり、乃ち諸侯と交私すること此くの如し、誅せずんば、後に治むべからず」と。是に於て上之を論ずるを可とす。其の獄を治めて大臣を排して自ら功と為すこと、多く此の類なり。是に於て湯益々尊任せられ、遷りて御史大夫と為る。会々渾邪等降り、漢大いに兵を興して匈奴を伐つ、山東水旱あり、貧民流徙し、皆給を県官に仰ぐ、県官空虚なり。是に於て上の指を丞け、請ひて白金及び五銖銭を造り、天下の塩鉄を籠め、富商大賈を排し、告緡令を出だし、豪彊并兼の家を鉏き、文を舞はし巧みに詆りて以て法を輔く。湯朝する毎に事を奏し、国家の用を語り、日晏れ、天子食を忘る。丞相は充位を取るのみ、天下の事皆湯に決す。百姓其の生に安んぜず、騒動す、県官の興す所、未だ其の利を獲ず、姦吏并びに侵漁す、是に於て痛く縄するに罪を以てす。則ち公卿以下より、庶人に至るまで、咸湯を指す。湯嘗て病む、天子自ら至りて病を視る、其の隆貴なること此くの如し。匈奴来たりて和親を請ふ、群臣上の前に議す。博士狄山曰く、「和親便なり」と。
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史記 酷吏列伝上其の便を問ふ、山曰く、「兵は凶器なり、未だ数々動かし易からず。高帝匈奴を伐たんと欲し、大いに平城に困しみ、乃ち遂に和親を結ぶ。孝恵・高后の時、天下安楽なり。孝文帝の匈奴を事とせんと欲するに及び、北辺蕭然として兵に苦しむ。孝景の時、呉楚七国反し、景帝両宮の間を往来し、寒心すること数月。呉楚已に破れ、景帝を竟ふるまで兵を言はず、天下富実す。今陛下兵を挙げて匈奴を撃ちてより、中国以て空虚にして、辺民大いに困貧す。此に由りて之を観れば、和親に如かず」と。上湯に問ふ、湯曰く、「此れ愚儒にして、知無し」と。狄山曰く、「臣は固より愚忠なり、御史大夫湯の若きは乃ち詐忠なり。湯の淮南・江都を治むるが若き、深文を以て痛く諸侯を詆り、骨肉を別疎し、蕃臣をして自ら安んぜざらしむ。臣固より湯の詐忠為るを知る」と。是に於て上色を作して曰く、「吾生をして一郡に居らしめば、能く虜をして入りて盗ましむる無からんか」と。曰く、「能はず」と。曰く、「一県に居らしめば」と。対へて曰く、「能はず」と。復た曰く、「一障の間に居らしめば」と。山自ら弁窮まりて且に吏に下されんとするを度り、曰く、「能くせん」と。是に於て上山を遣はして鄣に乗らしむ。月余に至りて、匈奴山の頭を斬りて去る。是より以後、群臣震慴す。湯の客田甲は、賈人なりと雖も、賢操有り。始め湯小吏為りし時、銭を与に通ず、湯大吏と為るに及び、甲の湯の行義の過失を責むる所以、亦烈士の風有り。湯御史大夫為ること七歳にして、敗る。河東の人李文嘗て湯と卻有り、已にして御史中丞と為り、恚りて、数々中の文書の事より以て湯を傷つくべき者有らば、地を為すこと能はず。湯に愛する所の史魯謁居有り、湯の平らかならざるを知り、人をして蜚変を上らしめて文の姦事を告げしむ、事湯に下る、湯治めて文を論殺す、而して湯心に謁居の之を為すを知る。上問ひて曰く、「変事を言ふ縦跡安くより起こる」と。湯詳り驚きて曰く、「此れ殆ど文の故人之を怨むならん」と。
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史記 酷吏列伝王温舒等後に起こり、治むること禹より酷なり。禹老いたるを以て、徙りて燕の相と為る。数歳にして、乱悖して罪有り、免ぜられて帰る。湯に後るること十余年、寿を以て家に卒す。義縦は、河東の人なり。少年為りし時、嘗て張次公と倶に攻剽して群盗と為る。縦に姊姁有り、医を以て王太后に幸せらる。王太后問ふ、「子兄弟の官為る者有るか」と。姊曰く、「弟有るも行ひ無し、不可なり」と。太后乃ち上に告げ、義姁の弟縦を拝して中郎と為し、上党郡中の令に補す。治むること敢行にして、蘊藉少なし、県に逋事無く、挙げられて第一と為る。遷りて長陵及び長安の令と為り、法を直くし治を行ひ、貴戚を避けず。太后の外孫修成君の子仲を捕へ案ずるを以て、上以て能と為し、遷して河内の都尉と為す。至れば則ち其の豪穣氏の属を族滅し、河内道に遺ちたるを拾はず。而して張次公も亦郎と為り、勇悍を以て軍に従ひ、敢て深く入り、功有り、岸頭侯と為る。寧成家居す、上以て郡守と為さんと欲す。御史大夫弘曰く、「臣山東に居りて小吏為りし時、寧成済南の都尉為り、其の治狼の羊を牧するが如し。成は民を治めしむべからず」と。上乃ち成を拝して関の都尉と為す。歳余にして、関東の吏隷の郡国の関を出入する者、号して曰く「寧ろ乳虎を見るとも、寧成の怒りに値ふ無かれ」と。義縦河内より遷りて南陽太守と為る、寧成の家南陽に居ると聞く、縦の関に至るに及び、寧成側行して送迎す、然れども縦気盛んにして、礼を為さず。郡に至り、遂に寧氏を案じ、尽く其の家を破砕す。成罪有るに坐し、及び孔・暴の属皆奔亡し、南陽の吏民足を重ねて跡を一にす。而して平氏の朱彊・杜衍の杜周縦の牙爪の吏と為り、任用せられ、遷りて廷史と為る。軍数々定襄に出で、定襄の吏民乱敗す、是に於て縦を徙して定襄太守と為す。
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史記 酷吏列伝称して曰く、「仕へて二千石に至らず、賈して千万に至らずんば、安んぞ人に比すべけんや」と。乃ち貰貸して陂田千余頃を買ひ、貧民に仮し、役使すること数千家。数年にして、赦に会ふ。産を致すこと数千金、任侠を為し、吏の長短を持し、出づれば数十騎を従ふ。其の民を使ふこと威は郡守より重し。周陽由は、其の父趙兼淮南王の舅父なるを以て周陽に侯たり、故に因りて周陽氏を姓とす。由宗家を以て任ぜられて郎と為り、孝文及び景帝に事ふ。景帝の時、由郡守と為る。武帝位に即き、吏治尚ほ循謹なること甚し、然れども由は二千石の中に居りて、最も暴酷驕恣為り。愛する所の者は、法を撓めて之を活かし、憎む所の者は、法を曲げて之を誅滅す。居る所の郡、必ず其の豪を夷ぐ。守と為りては、都尉を視ること令の如し。都尉と為りては、必ず太守を陵ぎ、之が治を奪ふ。汲黯と倶に忮為り、司馬安の文悪、倶に二千石の列に在り、車を同じくするも未だ嘗て敢て茵伏を均しくせず。由後に河東の都尉と為る、時に其の守勝屠公と権を争ひ、相告げて罪を言ふ。勝屠公当に罪に抵るべし、義として刑を受けず、自殺す、而して由は棄市せらる。寧成・周陽由の後より、事益々多く、民法に巧みなり、大抵吏の治は成・由等に類すること多し。趙禹は、斄の人なり。佐史を以て中都官に補せられ、廉を用て令史と為り、太尉亜夫に事ふ。亜夫丞相と為り、禹丞相史と為る、府中皆其の廉平を称す。然れども亜夫任ぜず、曰く、「極めて禹の害無きを知る、然れども文深し、以て大府に居るべからず」と。今上の時、禹刀筆の吏を以て労を積み、稍く遷りて御史と為る。上以て能と為し、太中大夫に至る。張湯と諸律令を論定し、見知を作り、吏伝へて相監司するを得しむ。法を用ふること益々刻なるは、蓋し此より始まる。
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