史記 / 酷吏列伝
上問其便,山曰:「兵者凶器,未易數動。髙帝欲伐匈奴,大困平城,乃遂結和親。孝惠、髙后時,天下安樂。及孝文帝欲事匈奴,北邊蕭然苦兵矣。孝景時,呉楚七國反,景帝往來兩宮閒,寒心者數月。呉楚已破,竟景帝不言兵,天下富實。今自陛下舉兵撃匈奴,中國以空虚,邊民大困貧。由此觀之,不如和親。」上問湯,湯曰:「此愚儒,無知。」狄山曰:「臣固愚忠,若御史大夫湯乃詐忠。若湯之治淮南、江都,以深文痛詆諸侯,別疎骨肉,使蕃臣不自安。臣固知湯之爲詐忠。」於是上作色曰:「吾使生居一郡,能無使虜入盜乎?」曰:「不能。」曰:「居一縣?」對曰:「不能。」復曰:「居一障閒?」山自度辯窮且下吏,曰:「能。」於是上遣山乘鄣。至月餘,匈奴斬山頭而去。自是以後,群臣震慴。湯之客田甲,雖賈人,有賢操。始湯爲小吏時,與錢通,及湯爲大吏,甲所以責湯行義過失,亦有烈士風。湯爲御史大夫七歳,敗。河東人李文嘗與湯有卻,已而爲御史中丞,恚,數從中文書事有可以傷湯者,不能爲地。湯有所愛史魯謁居,知湯不平,使人上蜚變告文姦事,事下湯,湯治論殺文,而湯心知謁居爲之。上問曰:「言變事縱跡安起?」湯詳驚曰:「此殆文故人怨之。」
新字:上問其便,山曰:「兵者凶器,未易数動。高帝欲伐匈奴,大困平城,乃遂結和親。孝恵、高后時,天下安楽。及孝文帝欲事匈奴,北辺蕭然苦兵矣。孝景時,呉楚七国反,景帝往来両宮閒,寒心者数月。呉楚已破,竟景帝不言兵,天下富実。今自陛下舉兵撃匈奴,中国以空虚,辺民大困貧。由此観之,不如和親。」上問湯,湯曰:「此愚儒,無知。」狄山曰:「臣固愚忠,若御史大夫湯乃詐忠。若湯之治淮南、江都,以深文痛詆諸侯,別疎骨肉,使蕃臣不自安。臣固知湯之為詐忠。」於是上作色曰:「吾使生居一郡,能無使虜入盗乎?」曰:「不能。」曰:「居一県?」対曰:「不能。」復曰:「居一障閒?」山自度弁窮且下吏,曰:「能。」於是上遣山乗鄣。至月余,匈奴斬山頭而去。自是以後,群臣震慴。湯之客田甲,雖賈人,有賢操。始湯為小吏時,与銭通,及湯為大吏,甲所以責湯行義過失,亦有烈士風。湯為御史大夫七歳,敗。河東人李文嘗与湯有却,已而為御史中丞,恚,数従中文書事有可以傷湯者,不能為地。湯有所愛史魯謁居,知湯不平,使人上蜚変告文姦事,事下湯,湯治論殺文,而湯心知謁居為之。上問曰:「言変事縦跡安起?」湯詳驚曰:「此殆文故人怨之。」
書き下し
上其の便を問ふ、山曰く、「兵は凶器なり、未だ数々動かし易からず。高帝匈奴を伐たんと欲し、大いに平城に困しみ、乃ち遂に和親を結ぶ。孝恵・高后の時、天下安楽なり。孝文帝の匈奴を事とせんと欲するに及び、北辺蕭然として兵に苦しむ。孝景の時、呉楚七国反し、景帝両宮の間を往来し、寒心すること数月。呉楚已に破れ、景帝を竟ふるまで兵を言はず、天下富実す。今陛下兵を挙げて匈奴を撃ちてより、中国以て空虚にして、辺民大いに困貧す。此に由りて之を観れば、和親に如かず」と。上湯に問ふ、湯曰く、「此れ愚儒にして、知無し」と。狄山曰く、「臣は固より愚忠なり、御史大夫湯の若きは乃ち詐忠なり。湯の淮南・江都を治むるが若き、深文を以て痛く諸侯を詆り、骨肉を別疎し、蕃臣をして自ら安んぜざらしむ。臣固より湯の詐忠為るを知る」と。是に於て上色を作して曰く、「吾生をして一郡に居らしめば、能く虜をして入りて盗ましむる無からんか」と。曰く、「能はず」と。曰く、「一県に居らしめば」と。対へて曰く、「能はず」と。復た曰く、「一障の間に居らしめば」と。山自ら弁窮まりて且に吏に下されんとするを度り、曰く、「能くせん」と。是に於て上山を遣はして鄣に乗らしむ。月余に至りて、匈奴山の頭を斬りて去る。是より以後、群臣震慴す。湯の客田甲は、賈人なりと雖も、賢操有り。始め湯小吏為りし時、銭を与に通ず、湯大吏と為るに及び、甲の湯の行義の過失を責むる所以、亦烈士の風有り。湯御史大夫為ること七歳にして、敗る。河東の人李文嘗て湯と卻有り、已にして御史中丞と為り、恚りて、数々中の文書の事より以て湯を傷つくべき者有らば、地を為すこと能はず。湯に愛する所の史魯謁居有り、湯の平らかならざるを知り、人をして蜚変を上らしめて文の姦事を告げしむ、事湯に下る、湯治めて文を論殺す、而して湯心に謁居の之を為すを知る。上問ひて曰く、「変事を言ふ縦跡安くより起こる」と。湯詳り驚きて曰く、「此れ殆ど文の故人之を怨むならん」と。
現代語訳
主上がその利点を尋ねると、狄山は言った。「武器は不吉な道具であり、たびたび動かすべきものではない。高帝は匈奴を討とうとして平城でひどく苦しみ、そこでついに和親を結んだ。孝恵帝・高后の時代には、天下は安らかで楽しかった。孝文帝が匈奴に事を構えようとすると、北の辺境は荒れ果て、戦に苦しんだ。孝景帝の時代には呉楚七国が反乱を起こし、景帝は(未央宮と長楽宮の)両宮の間を行き来して、数か月の間肝を冷やした。呉楚が破れた後、景帝は亡くなるまで戦のことを口にせず、天下は豊かに満ちた。今、陛下が兵を挙げて匈奴を撃ってから、中国は空になり、辺境の民はひどく困窮している。これから見れば、和親に及ぶものはない」。主上が張湯に尋ねると、張湯は言った。「これは愚かな儒者で、何もわかっていない」。狄山は言った。「わたしはもとより愚かな忠臣だが、御史大夫張湯などは偽りの忠臣である。張湯が淮南や江都の事件を裁いたやり方は、法文を深く読み込んで諸侯をひどく陥れ、骨肉の間を引き裂いて疎遠にし、藩屏の臣たちを不安にさせた。わたしは張湯が偽りの忠臣であることをよく知っている」。すると主上は顔色を変えて言った。「わたしがおまえに一郡を治めさせたら、匈奴が侵入して略奪しないようにできるか」。狄山は「できない」と答えた。「では一県ならどうか」。「できない」と答えた。さらに「では一つの砦ならどうか」と言われると、狄山は自分の弁がもう尽き、このままでは獄吏に下されると考え、「できる」と答えた。そこで主上は狄山を遣わして砦を守らせた。一か月余りたつと、匈奴は狄山の首を斬って去った。これより後、群臣は震え上がった。張湯の客の田甲は、商人ではあったが、立派な節操があった。はじめ張湯が下級の役人だったころは金銭のやり取りで通じていたが、張湯が高官になると、田甲は張湯の行いや道義の過ちを責めた。そこには烈士の気風があった。張湯は御史大夫を七年務めて失脚した。河東の人李文は、かつて張湯と不仲であったが、やがて御史中丞となると、恨みを抱き、たびたび宮中の文書の中から張湯を傷つけられるものを見つけては、容赦しなかった。張湯には目をかけていた属官の魯謁居がいて、張湯が心穏やかでないのを知り、人に匿名で変事を上告させて李文の悪事を告発させた。事件は張湯に下され、張湯は取り調べて李文を死罪とした。しかし張湯は内心、魯謁居がやったことだと知っていた。主上が「この変事の告発は、どこから出てきたのか」と尋ねると、張湯はわざと驚いたふりをして言った。「これはおそらく李文の昔なじみが恨んでやったのだろう」。
解説
関連する章句
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史記 酷吏列伝治むる所即し上の意の罪せんと欲する所ならば、監史の深禍なる者に予へ、即し上の意の釈さんと欲する所ならば、監史の軽平なる者に与ふ。治むる所即し豪ならば、必ず文を舞はし巧みに詆る。即し下戸の羸弱ならば、時に口もて言ふ、文もて法を致すと雖も、上財察せよと。是に於て往往にして湯の言ふ所を釈す。湯大吏に至り、内行修まる。賓客に通じて飲食す。故人の子弟の吏為る及び貧しき昆弟に於て、之を調護すること尤も厚し。其の諸公に造り請ふこと、寒暑を避けず。是を以て湯は文深く意忌にして専ら平らかならずと雖も、然れども此の声誉を得たり。而して刻深の吏の多く爪牙の用を為す者は、文学の士に依る。丞相弘数々其の美を称す。淮南・衡山・江都の反獄を治むるに及び、皆根本を窮む。厳助及び伍被、上之を釈さんと欲す。湯争ひて曰く、「伍被は本反謀を画す、而して助は親幸して禁闥に出入する爪牙の臣なり、乃ち諸侯と交私すること此くの如し、誅せずんば、後に治むべからず」と。是に於て上之を論ずるを可とす。其の獄を治めて大臣を排して自ら功と為すこと、多く此の類なり。是に於て湯益々尊任せられ、遷りて御史大夫と為る。会々渾邪等降り、漢大いに兵を興して匈奴を伐つ、山東水旱あり、貧民流徙し、皆給を県官に仰ぐ、県官空虚なり。是に於て上の指を丞け、請ひて白金及び五銖銭を造り、天下の塩鉄を籠め、富商大賈を排し、告緡令を出だし、豪彊并兼の家を鉏き、文を舞はし巧みに詆りて以て法を輔く。湯朝する毎に事を奏し、国家の用を語り、日晏れ、天子食を忘る。丞相は充位を取るのみ、天下の事皆湯に決す。百姓其の生に安んぜず、騒動す、県官の興す所、未だ其の利を獲ず、姦吏并びに侵漁す、是に於て痛く縄するに罪を以てす。則ち公卿以下より、庶人に至るまで、咸湯を指す。湯嘗て病む、天子自ら至りて病を視る、其の隆貴なること此くの如し。匈奴来たりて和親を請ふ、群臣上の前に議す。博士狄山曰く、「和親便なり」と。
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史記 酷吏列伝湯数々丞相の事を行ふ、此の三長史の素より貴きを知り、常に之を淩折す。故を以て三長史合謀して曰く、「始め湯君と謝せんことを約し、已にして君を売る。今君を劾するに宗廟の事を以てせんと欲す、此れ君に代はらんと欲するのみ。吾湯の陰事を知る」と。吏をして湯の左の田信等を捕へ案ぜしめ、曰く湯且に奏請せんと欲すれば、信輒ち先に之を知り、物を居へて富を致し、湯と之を分かつと、及び他の姦事あり。事の辞頗る聞こゆ。上湯に問ひて曰く、「吾の為す所、賈人輒ち先に之を知り、益々其の物を居ふ、是れ類ひ吾が謀を以て之に告ぐる者有るなり」と。湯謝せず。湯又詳り驚きて曰く、「固より宜しく有るべし」と。減宣も亦謁居等の事を奏す。天子果して湯を以て詐を懐き面欺すと為し、使ひ八輩をして湯を簿責せしむ。湯具に自ら此れ無しと道ひ、服せず。是に於て上趙禹をして湯を責めしむ。禹至り、湯を譲めて曰く、「君何ぞ分を知らざるや。君の治めて夷滅する所の者幾何人ぞや。今人君を言ふに皆状有り、天子重ねて君を獄に致し、君をして自ら計を為さしめんと欲す、何ぞ多く以て簿に対ふるを為さんや」と。湯乃ち書を為りて謝して曰く、「湯尺寸の功無く、刀筆の吏より起こり、陛下幸ひに致して三公と為す、以て責を塞ぐ無し。然れども謀りて湯を罪に陥るる者は、三長史なり」と。遂に自殺す。湯死し、家産の直五百金に過ぎず、皆得る所の奉賜にして、他の業無し。昆弟諸子厚く湯を葬らんと欲す、湯の母曰く、「湯は天子の大臣為り、汚悪の言を被りて死す、何ぞ厚く葬らんや」と。載するに牛車を以てし、棺有りて槨無し。天子之を聞きて、曰く、「此の母に非ずんば此の子を生むこと能はず」と。乃ち尽く案じて三長史を誅す。丞相青翟自殺す。田信を出だす。上湯を惜しむ。稍く其の子安世を遷す。趙禹中ごろ廃せられ、已にして廷尉と為る。始め条侯以為へらく禹は賊深なりと、任ぜず。禹少府と為るに及び、九卿に比す。禹は酷急なり、晩節に至り、事益々多く、吏務めて厳峻を為す、而して禹の治は加々緩やかにして、名づけて平と為す。
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史記 酷吏列伝謁居病みて閭里の主人に臥す、湯自ら往きて疾を視、謁居の為に足を摩す。趙国は冶鋳を以て業と為す、王数々鉄官の事を訟ふ、湯常に趙王を排す。趙王湯の陰事を求む。謁居嘗て趙王を案ず、趙王之を怨み、并せて上書して告ぐ、「湯は、大臣なり、史謁居病有り、湯至りて為に足を摩す、疑ふらくは与に大姦を為すならん」と。事廷尉に下る。謁居病死す、事其の弟に連なり、弟導官に繋がる。湯も亦他の囚を導官に治む、謁居の弟を見、陰に之が為にせんと欲し、而して詳りて省みず。謁居の弟知らず、湯を怨み、人をして上書して湯と謁居と謀りて、共に李文を変告せしを告げしむ。事減宣に下る。宣嘗て湯と卻有り、此の事を得るに及び、其の事を窮竟するも、未だ奏せざるなり。会々人の孝文園の瘞銭を盗み発く者有り、丞相青翟朝し、湯と約して倶に謝せんとす、前に至り、湯念ふに独り丞相のみ四時を以て園を行る、当に謝すべし、湯は与る無しと、謝せず。丞相謝す、上御史をして其の事を案ぜしむ。湯其の文を丞相の見知に致さんと欲す、丞相之を患ふ。三長史皆湯を害し、之を陥れんと欲す。始め長史朱買臣は、会稽の人なり。春秋を読む。荘助人をして買臣を言はしむ、買臣楚辞を以て助と倶に幸せられ、侍中となり、太中大夫と為りて、事を用ふ。而して湯は乃ち小吏為り、買臣等の前に跪伏して使はる。已にして湯廷尉と為り、淮南の獄を治め、荘助を排擠す、買臣固より心に望む。湯御史大夫と為るに及び、買臣会稽守を以て主爵都尉と為り、九卿に列す。数年にして、法に坐して廃せられ、長史を守す、湯に見ゆるに、湯床上に坐し、丞史買臣を遇して礼を為さず。買臣は楚の士なり、深く怨み、常に之を死なしめんと欲す。王朝は、斉人なり。術を以て右内史に至る。辺通は、長短を学ぶ、剛暴にして彊き人なり、官再び済南の相に至る。故より皆湯の右に居る、已にして官を失ひ、長史を守し、体を湯に詘す。
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史記 汲鄭列伝天子既に数々匈奴を征して功有り、黯の言益々用ひられず。始め黯列して九卿為り、而して公孫弘・張湯は小吏為り。弘・湯稍く益々貴く、黯と位を同じくするに及び、黯又弘・湯等を非毀す。已にして弘丞相に至り、封ぜられて侯と為る。湯御史大夫に至る。故の黯の時の丞相史皆黯と列を同じくし、或いは尊用せらるること之に過ぐ。黯褊心にして、少しく望む無きこと能はず、上に見え、前みて言ひて曰く、「陛下の群臣を用ふること積薪の如きのみ、後に来たる者上に居る」と。上黙然たり。間有りて黯罷む、上曰く、「人果して以て学無かるべからず、黯の言を観るに日に益々甚し」と。居ること何も無くして、匈奴の渾邪王衆を率ゐて来たり降る、漢車二万乗を発す。県官銭無く、民より馬を貰る。民或いは馬を匿し、馬具はらず。上怒り、長安の令を斬らんと欲す。黯曰く、「長安の令罪無し、独り黯を斬らば、民乃ち馬を出だすを肯ぜん。且つ匈奴其の主に畔きて漢に降る、漢徐ろに県次を以て之を伝へんのみ、何ぞ天下を騒動せしめ、中国を罷獘して以て夷狄の人に事ふるに至らんや」と。上黙然たり。渾邪至るに及び、賈人の与に市する者、坐して死に当たる者五百余人。黯間を請ひ、高門に見えて、曰く、「夫れ匈奴は当路の塞を攻め、和親を絶つ、中国兵を興して之を誅す、死傷する者勝げて計ふべからず、而して費は巨万百を以て数ふ。臣愚以為へらく陛下胡人を得ば、皆以て奴婢と為して以て従軍して事に死せし者の家に賜ひ、鹵獲する所は、因りて之に予へ、以て天下の苦に謝し、百姓の心を塞がんと。今縦ひ能はずとも、渾邪数万の衆を率ゐて来たり降る、府庫を虚しくして賞賜し、良民を発して侍養せしむ、譬へば驕子を奉ずるが若し。愚民安んぞ長安中の物を市買して文吏縄して以て財物を辺関に闌出すと為すを知らんや。
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史記 汲鄭列伝張湯方に律令を更定するを以て廷尉為り、黯数々湯を上の前に質責して曰く、「公正卿為り、上は先帝の功業を褒むること能はず、下は天下の邪心を抑ふること能はず、国を安んじ民を富まし、囹圄をして空虚ならしむ、二者一も無し。苦に非ずして行に就き、放析して功に就く、何ぞ乃ち斑皇帝の約束を取りて紛更するを之れ為すや。公此を以て種無からん」と。黯時に湯と論議す、湯の弁常に文深く小苛なるに在り、黯伉厲にして高きを守りて屈すること能はず、忿発して罵りて曰く、「天下謂ふ刀筆の吏は以て公卿と為すべからずと、果して然り。必ず湯ならば、天下をして足を重ねて立ち、目を側めて視しめん」と。是の時、漢方に匈奴を征し、四夷を招懐す。黯事を少なくするに務め、上の間に乗じ、常に胡と和親し、兵を起こす無からんことを言ふ。上方に儒術に向かひ、公孫弘を尊ぶ。事益々多きに及び、吏民巧弄す。上文法を分別し、湯等数々決讞を奏して以て幸せらる。而して黯常に儒を毀り、面りに弘等の徒に詐を懐き智を飾りて以て人主に阿りて容を取り、而して刀筆の吏は専ら文を深くし巧みに詆り、人を罪に陥れ、其の真に反るを得ざらしめ、勝つを以て功と為すと触る。上愈々益々弘・湯を貴ぶ、弘・湯深く心に黯を疾む、唯だ天子も亦説ばず、事を以て之を誅せんと欲す。弘丞相と為り、乃ち上に言ひて曰く、「右内史の界部中貴人宗室多く、治め難し、素より重臣に非ずんば任ずること能はず、請ふ黯を徙して右内史と為さん」と。右内史為ること数歳、官事廃れず。
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史記 汲鄭列伝陛下縦ひ匈奴の資を得て以て天下に謝すること能はずとも、又微文を以て無知の者五百余人を殺す、是れ所謂『其の葉を庇ひて其の枝を傷つく』る者なり、臣窃かに陛下の為に取らざるなり」と。上黙然として、許さず、曰く、「吾久しく汲黯の言を聞かず、今又復た妄りに発す」と。後数月、黯小法に坐し、赦に会ひて官を免ぜらる。是に於て黯田園に隠る。居ること数年、会々五銖銭を更む、民多く盗みて銭を鋳る、楚の地尤も甚し。上以為へらく淮陽は、楚の地の郊なりと、乃ち召して黯を拝して淮陽太守と為す。黯伏して謝して印を受けず、詔数々彊ひて予へ、然る後に詔を奉ず。詔して黯を召見す、黯上の為に泣きて曰く、「臣自ら以為へらく溝壑を填め、復た陛下に見えずと、意はざりき陛下復た之を収用せんとは。臣常に狗馬の病有り、力郡の事に任ずること能はず、臣願はくは中郎と為り、禁闥に出入し、過ちを補ひ遺れたるを拾はん、臣の願ひなり」と。上曰く、「君淮陽を薄んずるか。吾今君を召さん。顧ふに淮陽の吏民相得ず、吾徒だ君の重きを得て、臥して之を治めしめんとするのみ」と。黯既に辞して行き、大行李息を過りて、曰く、「黯棄てられて郡に居り、朝廷の議に与るを得ざるなり。然れども御史大夫張湯は智は以て諫めを拒ぐに足り、詐は以て非を飾るに足り、巧佞の語、弁数の辞を務め、肯へて正しく天下の為に言ふに非ず、専ら主の意に阿る。主の意の欲せざる所は、因りて之を毀り、主の意の欲する所は、因りて之を誉む。好んで事を興し、文法を舞はし、内に詐を懐きて以て主の心を御し、外に賊吏を挟みて以て威重と為す。公は九卿に列す、早く之を言はずんば、公之と倶に其の僇を受けん」と。息湯を畏れ、終に敢て言はず。黯郡に居ること故の治の如く、淮陽の政清し。後に張湯果して敗る、上黯の息と言ふを聞き、息を罪に抵つ。黯をして諸侯の相の秩を以て淮陽に居らしむ。七歳にして卒す。卒して後、上黯の故を以て、其の弟汲仁を官して九卿に至らしめ、子汲偃は諸侯の相に至る。
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