正法眼蔵随聞記 / 巻五
示して云く、昔し國王あり、國を治て後ちに諸の臣下に問ふ、我好く國を治む、よく賢なりやと、諸臣みな云く、帝甚だよく治む、太だ賢なりと、時に一臣ありて云く、帝は賢ならずと、帝の云く故は如何、臣が云く、國を治て後ち、帝の弟に與へずして息に與ふと、帝の心にかなはずして、追ひ立られて後、亦一臣に問ふ、朕よく仁なりや、臣が云く、甚だ仁なり、帝の云く、其の故いかん、臣が云く、仁君には必ず忠臣あり、忠臣は直言あるなり、前きの臣太だ直言なり、是れ忠臣なり、仁君にあらずんば得じと、帝是を感じて、卽ち前きの臣をめしかへさるゝなり、
新字:示して云く、昔し国王あり、国を治て後ちに諸の臣下に問ふ、我好く国を治む、よく賢なりやと、諸臣みな云く、帝甚だよく治む、太だ賢なりと、時に一臣ありて云く、帝は賢ならずと、帝の云く故は如何、臣が云く、国を治て後ち、帝の弟に与へずして息に与ふと、帝の心にかなはずして、追ひ立られて後、亦一臣に問ふ、朕よく仁なりや、臣が云く、甚だ仁なり、帝の云く、其の故いかん、臣が云く、仁君には必ず忠臣あり、忠臣は直言あるなり、前きの臣太だ直言なり、是れ忠臣なり、仁君にあらずんば得じと、帝是を感じて、即ち前きの臣をめしかへさるゝなり、
書き下し
示して云く、昔し国王あり、国を治て後ちに諸の臣下に問ふ、我好く国を治む、よく賢なりやと、諸臣みな云く、帝甚だよく治む、太だ賢なりと、時に一臣ありて云く、帝は賢ならずと、帝の云く故は如何、臣が云く、国を治て後ち、帝の弟に与へずして息に与ふと、帝の心にかなはずして、追ひ立られて後、亦一臣に問ふ、朕よく仁なりや、臣が云く、甚だ仁なり、帝の云く、其の故いかん、臣が云く、仁君には必ず忠臣あり、忠臣は直言あるなり、前きの臣太だ直言なり、是れ忠臣なり、仁君にあらずんば得じと、帝是を感じて、即ち前きの臣をめしかへさるゝなり、
現代語訳
示して言われた。昔、国王があった。国を治めた後に諸々の臣下に問うた。わたしはよく国を治めた。よく賢いか、と。諸臣はみな言った。帝ははなはだよく治めておられます。たいそう賢くあられます、と。時にひとりの臣があって言った。帝は賢くありません、と。帝が言った。理由はどうか、と。臣が言った。国を治めた後、帝の弟に与えずに息子に与えられました、と。帝の心にかなわずに追い立てられた後、また一人の臣に問うた。朕はよく仁があるか、と。臣が言った。はなはだ仁があられます、と。帝が言った。その理由はどうか、と。臣が言った。仁の君には必ず忠臣があります。忠臣には直言があるものです。先の臣ははなはだ直言でした。これは忠臣です。仁君でなければ得られないでしょう、と。帝はこれに感じ入って、すぐに先の臣を召し返されたのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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呂氏春秋・貴直①賢主の貴ぶ所は士に如くは莫し。士を貴ぶ所以は、其の直言の為なり。言直なれば則ち枉れる者見ゆ。人主の患いは、枉れるを聞かんと欲して直言を惡む。是れ其の源を障ぎて其の水を欲するなり。水奚に自りてか至らん。是れ其の欲する所を賤しみて、其の惡む所を貴ぶなり。欲する所奚に自りてか來たらん。
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呂氏春秋・壅塞①亡國の主は、以て直言す可からず。以て直言す可からざれば、則ち過、道りて聞く無く、而して善、自りて至ること無し。自りて至ること無ければ、則ち壅がる。
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説苑・尊賢晋の文侯、地を行きて隧に登るに、大夫皆之を扶く。隨会扶けず。文侯曰く、「会よ、夫れ人臣為りて其の君を忍ぶ者は、其の罪奚如ん」と。対えて曰く、「其の罪重死なり」と。文侯曰く、「何をか重死と謂う」と。対えて曰く、「身死し、妻子戮せらる」と。隨会曰く、「君奚ぞ独り人臣為りて其の君を忍ぶ者を問いて、人君為りて其の臣を忍ぶ者を問わざるや」と。文侯曰く、「人君為りて其の臣を忍ぶ者は、其の罪何如ん」と。隨会対えて曰く、「人君為りて其の臣を忍ぶ者は、智士謀を為さず、弁士言を為さず、仁士行を為さず、勇士死を為さず」と。文侯綏を援きて車を下り、大夫に辞して曰く、「寡人に腰髀の病有り、願わくは諸大夫罪する勿かれ」と。
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説苑・雜言子石、呉山に登りて四望し、喟然として歎息して曰く、「嗚呼悲しいかな。世に事情に明らかにして人心に合わざる者有り、人心に合いて事情に明らかならざる者有り」と。弟子問いて曰く、「何の謂いぞや」と。子石曰く、「昔者、呉王夫差、伍子胥の言を聴かず、忠を尽くし極めて諫めしも、目を抉られて辜せらる。太宰嚭・公孫雒は、偷かに合し苟くも容れられ、以て夫差の志に順いて呉を伐たしむ。二子は身を江湖に沈められ、頭は越の旗に懸けらる。昔者、費仲・惡來革・長鼻決耳、崇侯虎は紂の心に順い、意に合わんと欲せしも、武王紂を伐ちて、四子は身を牧野に死し、頭足所を異にす。比干は忠を尽くして心を剖かれて死す。今、事情を明らかにせんと欲すれば、目を抉られ心を剖かるるの禍い有らんことを恐れ、人心に合わんと欲すれば、頭足所を異にするの患い有らんことを恐る。是に由りて之を観れば、君子の道狭きのみ。誠に其の明主に逢わずんば、狭道の中、又将に危険閉塞して、従いて出づ可き無からんとす」と。
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尚書・太甲下言の汝の心に逆らう有らば必ず諸を道に求め、言の汝の志に遜う有らば必ず諸を非道に求めよ。
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『宋名臣言行録』前集巻四・王曙謝希深・歐陽永叔、洛陽に官する時、同に嵩山に游ぶ。歸り、暮に龍門・香山に抵る。雪作る。留守錢文僖公、吏を遣わし厨傳・歌妓を以て至らしむ。且つ之を勞いて曰く、山行良に勞す。少しく龍門に留まりて雪を賞せよ。府事簡なり。遽かに歸る無かれと。錢の諸公に遇すること之れ厚きこと此に類す。公、錢に代わりて留守と為る。吏を御すること束濕の如し。諸公俱に其の憂いに堪えず。日に其の多く出游するを訝り、責めて曰く、公等、自ら萊公に比す。何如。萊公すら尚お奢縱に坐して禍を取り貶死す。況んや其の下なる者をやと。希深より下、敢えて對えず。永叔、手板を取りて起立して曰く、莱公の禍は杯酒に在らず。老いて退くを知らざるに在るのみと。時に公の年已に髙し。若し之が為に動く。卒に永叔を薦めて館に入らしむ。