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史記 / 酷吏列伝

稱曰:「仕不至二千石,賈不至千萬,安可比人乎!」乃貰貸買陂田千餘頃,假貧民,役使數千家。數年,會赦。致産數千金,爲任俠,持吏長短,出從數十騎。其使民威重於郡守。周陽由者,其父趙兼以淮南王舅父侯周陽,故因姓周陽氏。由以宗家任爲郎,事孝文及景帝。景帝時,由爲郡守。武帝卽位,吏治尚循謹甚,然由居二千石中,最爲暴酷驕恣。所愛者,撓法活之;所憎者,曲法誅滅之。所居郡,必夷其豪。爲守,視都尉如令。爲都尉,必陵太守,奪之治。與汲黯倶爲忮,司馬安之文惡,倶在二千石列,同車未嘗敢均茵伏。由後爲河東都尉,時與其守勝屠公爭權,相告言罪。勝屠公當抵罪,義不受刑,自殺,而由棄市。自寧成、周陽由之後,事益多,民巧法,大抵吏之治類多成、由等矣。趙禹者,斄人。以佐史補中都官,用廉爲令史,事太尉亞夫。亞夫爲丞相,禹爲丞相史,府中皆稱其廉平。然亞夫弗任,曰:「極知禹無害,然文深,不可以居大府。」今上時,禹以刀筆吏積勞,稍遷爲御史。上以爲能,至太中大夫。與張湯論定諸律令,作見知,吏傳得相監司。用法益刻,蓋自此始。

新字:称曰:「仕不至二千石,賈不至千万,安可比人乎!」乃貰貸買陂田千余頃,仮貧民,役使数千家。数年,会赦。致産数千金,為任侠,持吏長短,出従数十騎。其使民威重於郡守。周陽由者,其父趙兼以淮南王舅父侯周陽,故因姓周陽氏。由以宗家任為郎,事孝文及景帝。景帝時,由為郡守。武帝即位,吏治尚循謹甚,然由居二千石中,最為暴酷驕恣。所愛者,撓法活之;所憎者,曲法誅滅之。所居郡,必夷其豪。為守,視都尉如令。為都尉,必陵太守,奪之治。与汲黯倶為忮,司馬安之文悪,倶在二千石列,同車未嘗敢均茵伏。由後為河東都尉,時与其守勝屠公争権,相告言罪。勝屠公当抵罪,義不受刑,自殺,而由棄市。自寧成、周陽由之後,事益多,民巧法,大抵吏之治類多成、由等矣。趙禹者,斄人。以佐史補中都官,用廉為令史,事太尉亜夫。亜夫為丞相,禹為丞相史,府中皆称其廉平。然亜夫弗任,曰:「極知禹無害,然文深,不可以居大府。」今上時,禹以刀筆吏積労,稍遷為御史。上以為能,至太中大夫。与張湯論定諸律令,作見知,吏伝得相監司。用法益刻,蓋自此始。

書き下し

称して曰く、「仕へて二千石に至らず、賈して千万に至らずんば、安んぞ人に比すべけんや」と。乃ち貰貸して陂田千余頃を買ひ、貧民に仮し、役使すること数千家。数年にして、赦に会ふ。産を致すこと数千金、任侠を為し、吏の長短を持し、出づれば数十騎を従ふ。其の民を使ふこと威は郡守より重し。周陽由は、其の父趙兼淮南王の舅父なるを以て周陽に侯たり、故に因りて周陽氏を姓とす。由宗家を以て任ぜられて郎と為り、孝文及び景帝に事ふ。景帝の時、由郡守と為る。武帝位に即き、吏治尚ほ循謹なること甚し、然れども由は二千石の中に居りて、最も暴酷驕恣為り。愛する所の者は、法を撓めて之を活かし、憎む所の者は、法を曲げて之を誅滅す。居る所の郡、必ず其の豪を夷ぐ。守と為りては、都尉を視ること令の如し。都尉と為りては、必ず太守を陵ぎ、之が治を奪ふ。汲黯と倶に忮為り、司馬安の文悪、倶に二千石の列に在り、車を同じくするも未だ嘗て敢て茵伏を均しくせず。由後に河東の都尉と為る、時に其の守勝屠公と権を争ひ、相告げて罪を言ふ。勝屠公当に罪に抵るべし、義として刑を受けず、自殺す、而して由は棄市せらる。寧成・周陽由の後より、事益々多く、民法に巧みなり、大抵吏の治は成・由等に類すること多し。趙禹は、斄の人なり。佐史を以て中都官に補せられ、廉を用て令史と為り、太尉亜夫に事ふ。亜夫丞相と為り、禹丞相史と為る、府中皆其の廉平を称す。然れども亜夫任ぜず、曰く、「極めて禹の害無きを知る、然れども文深し、以て大府に居るべからず」と。今上の時、禹刀筆の吏を以て労を積み、稍く遷りて御史と為る。上以て能と為し、太中大夫に至る。張湯と諸律令を論定し、見知を作り、吏伝へて相監司するを得しむ。法を用ふること益々刻なるは、蓋し此より始まる。

現代語訳

(寧成は)こう言った。「仕官して二千石に至らず、商売して千万銭に至らないようでは、どうして人並みといえようか」。そこで借金をして堤のある田地を千余頃買い、貧しい民に貸し与えて、数千家を使役した。数年して大赦に当たった。財産は数千金に達し、任侠として振る舞い、役人の弱みを握り、外出するときは数十騎を従えた。その民を使役する威勢は郡の太守よりも重かった。周陽由は、父の趙兼が淮南王の母方の叔父であったことで周陽侯となったので、それにちなんで周陽を姓とした。周陽由は外戚の家柄であることから任用されて郎となり、孝文帝と景帝に仕えた。景帝の時代に郡の太守となった。武帝が即位したころ、役人の政治はまだたいへん法に従い慎み深いものであったが、周陽由は二千石の長官の中で最も乱暴で苛酷、驕り高ぶってほしいままに振る舞った。気に入った者は法をねじ曲げて生かし、憎い者は法を曲げて一族まで誅滅した。赴任した郡では、必ずその土地の豪族を滅ぼした。太守となれば、都尉(郡の軍事長官)を県令のように扱い、都尉となれば、必ず太守をしのいでその政務を奪った。汲黯とともに剛情で人に逆らい、司馬安の法文のあくどさとともに、いずれも二千石の列にあったが、同じ車に乗っても、周陽由と敷物や手すりを並べて座ろうとはしなかった。周陽由は後に河東の都尉となり、そのとき太守の勝屠公と権力を争い、互いに告発し合った。勝屠公は罪に当たるとされたが、義として刑を受けずに自殺し、周陽由は棄市となった。寧成と周陽由の後、政務はますます多くなり、民は法の抜け道を巧みに使うようになり、役人の政治はたいてい寧成や周陽由らに似たものが多くなった。趙禹は斄(たい)の人である。佐史から中都官に補任され、清廉さによって令史となり、太尉周亜夫に仕えた。亜夫が丞相になると、趙禹は丞相史となり、役所の中ではみなその清廉公平さをたたえた。しかし亜夫は彼を重用せず、「趙禹が害のない人物であることはよく知っている。しかし法文の運用が厳しすぎるので、大きな役所にはふさわしくない」と言った。今上の時代、趙禹は刀筆の吏として功労を積み、しだいに昇進して御史となった。主上は有能だと考え、太中大夫にまで至った。張湯とともに律令を論じて定め、見知の法(犯罪を知りながら告発しない者を罰する法)を作り、役人が互いに監視し合うようにさせた。法の運用がますます苛酷になったのは、おそらくここから始まったのである。

解説

寧成・周陽由・趙禹という三人の酷吏を描く段です。寧成は「二千石にも千万銭にも届かなければ人並みではない」と言って借金で田地を買い占め、貧民を使役して郡守をしのぐ威勢を持ちました。周陽由は気に入った者は法を曲げて生かし、憎い者は法を曲げて滅ぼすという、法を私物化した人物で、太守と権力を争った末に処刑されます。清廉で公平と評された趙禹は、張湯とともに、犯罪を知りながら告発しない者も罰する「見知の法」を作り、役人同士を互いに監視させました。周亜夫が「害はないが法の運用が厳しすぎて大きな役所には向かない」と見抜いていたのが印象的です。本人は清廉でも、人を疑うことを前提にした仕組みを作れば、組織全体が息苦しくなることを教えてくれます。

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