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史記 / 儒林列伝

今上即位,為江都相。以春秋災異之變推陰陽所以錯行,故求雨閉諸陽,縱諸陰,其止雨反是。行之一國,未嘗不得所欲。中廢為中大夫,居舍,著災異之記。是時遼東高廟災,主父偃疾之,取其書奏之天子。天子召諸生示其書,有刺譏。董仲舒弟子呂步舒不知其師書,以為下愚。於是下董仲舒吏,當死,詔赦之。於是董仲舒竟不敢復言災異。董仲舒為人廉直。是時方外攘四夷,公孫弘治春秋不如董仲舒,而弘希世用事,位至公卿。董仲舒以弘為從諛。弘疾之,乃言上曰:「獨董仲舒可使相繆西王。」膠西王素聞董仲舒有行,亦善待之。董仲舒恐久獲罪,疾免居家。至卒,終不治產業,以修學著書為事。故漢興至于五世之閒,唯董仲舒名為明於春秋,其傳公羊氏也。胡毋生,齊人也。孝景時為博士,以老歸教授。齊之言春秋者多受胡毋生,公孫弘亦頗受焉。瑕丘江生為穀梁春秋。自公孫弘得用,嘗集比其義,卒用董仲舒。仲舒弟子遂者:蘭陵褚大,廣川殷忠,溫呂步舒。褚大至梁相。步舒至長史,持節使決淮南獄,於諸侯擅專斷,不報,以春秋之義正之,天子皆以為是。弟子通者,至於命大夫;為郎、謁者、掌故者以百數。而董仲舒子及孫皆以學至大官。

新字:今上即位,為江都相。以春秋災異之変推陰陽所以錯行,故求雨閉諸陽,縦諸陰,其止雨反是。行之一国,未嘗不得所欲。中廃為中大夫,居舎,著災異之記。是時遼東高廟災,主父偃疾之,取其書奏之天子。天子召諸生示其書,有刺譏。董仲舒弟子呂歩舒不知其師書,以為下愚。於是下董仲舒吏,当死,詔赦之。於是董仲舒竟不敢復言災異。董仲舒為人廉直。是時方外攘四夷,公孫弘治春秋不如董仲舒,而弘希世用事,位至公卿。董仲舒以弘為従諛。弘疾之,乃言上曰:「独董仲舒可使相繆西王。」膠西王素聞董仲舒有行,亦善待之。董仲舒恐久獲罪,疾免居家。至卒,終不治産業,以修学著書為事。故漢興至于五世之閒,唯董仲舒名為明於春秋,其伝公羊氏也。胡毋生,斉人也。孝景時為博士,以老帰教授。斉之言春秋者多受胡毋生,公孫弘亦頗受焉。瑕丘江生為穀梁春秋。自公孫弘得用,嘗集比其義,卒用董仲舒。仲舒弟子遂者:蘭陵褚大,広川殷忠,温呂歩舒。褚大至梁相。歩舒至長史,持節使決淮南獄,於諸侯擅専断,不報,以春秋之義正之,天子皆以為是。弟子通者,至於命大夫;為郎、謁者、掌故者以百数。而董仲舒子及孫皆以学至大官。

書き下し

今上位に即き、江都の相と為る。春秋の災異の変を以て陰陽の錯行する所以を推す、故に雨を求むるには諸陽を閉ぢ、諸陰を縦ち、其の雨を止むるには是に反す。之を一国に行ひ、未だ嘗て欲する所を得ずんばあらず。中ごろ廃せられて中大夫と為り、舎に居り、災異の記を著す。是の時遼東の高廟災あり、主父偃之を疾み、其の書を取りて之を天子に奏す。天子諸生を召して其の書を示す、刺譏有り。董仲舒の弟子呂歩舒其の師の書なるを知らず、以て下愚と為す。是に於て董仲舒を吏に下す、死に当たる、詔して之を赦す。是に於て董仲舒竟に敢て復た災異を言はず。董仲舒人と為り廉直なり。是の時方に外に四夷を攘ふ、公孫弘春秋を治むること董仲舒に如かず、而して弘世に希ひて事を用ひ、位公卿に至る。董仲舒弘を以て従諛と為す。弘之を疾み、乃ち上に言ひて曰く、「独り董仲舒のみ膠西王に相たらしむべし」と。膠西王素より董仲舒の行ひ有るを聞き、亦善く之を待つ。董仲舒久しくして罪を獲んことを恐れ、疾みて免じて家に居る。卒するに至るまで、終に産業を治めず、学を修め書を著すを以て事と為す。故に漢興りて五世の間に至るまで、唯だ董仲舒のみ名づけて春秋に明らかなりと為す、其の伝は公羊氏なり。胡毋生は、斉人なり。孝景の時博士と為り、老いたるを以て帰りて教授す。斉の春秋を言ふ者多く胡毋生に受く、公孫弘も亦頗る受く。瑕丘の江生穀梁春秋を為む。公孫弘用ひらるるを得てより、嘗て集めて其の義を比べ、卒に董仲舒を用ふ。仲舒の弟子の遂げし者は、蘭陵の褚大、広川の殷忠、温の呂歩舒なり。褚大は梁の相に至る。歩舒は長史に至り、節を持して使ひして淮南の獄を決し、諸侯に於いて擅に専断し、報ぜず、春秋の義を以て之を正す、天子皆以て是と為す。弟子の通ずる者、命大夫に至る、郎・謁者・掌故と為る者百を以て数ふ。而して董仲舒の子及び孫皆学を以て大官に至る。

現代語訳

(董仲舒は)今上が即位すると、江都国の相となった。『春秋』に記された災害や異変をもとに、陰陽の運行が乱れる理由を推し量った。そこで雨を求めるときは陽気を閉ざし陰気を放ち、雨を止めるときはその逆を行った。これを一国で行うと、望んだ結果が得られなかったことはなかった。途中で罷免されて中大夫となり、家にいて災異についての記録を著した。このころ遼東の高祖廟に火災があった。主父偃は董仲舒を妬み、その書を盗み取って天子に奏上した。天子は儒生たちを召してその書を見せたところ、朝廷を批判し風刺する内容があった。董仲舒の弟子の呂歩舒は師の書とは知らず、きわめて愚かなものだと評した。そこで董仲舒を獄吏に下し、死罪に当たるとされたが、詔によって赦された。こうして董仲舒は、二度と災異について語ろうとしなかった。董仲舒は清廉で剛直な人柄であった。このころはちょうど外では四方の異民族を討っていた。公孫弘は『春秋』の学では董仲舒に及ばなかったが、世の流れに迎合して政務を執り、位は公卿に至った。董仲舒は弘をへつらい者だと見なしていた。弘は董仲舒を憎み、主上に言った。「董仲舒でなければ膠西王の相は務まらない」。膠西王はもともと董仲舒が徳行ある人物だと聞いていたので、彼を手厚く遇した。董仲舒は長くいれば罪を得るのではと恐れ、病を理由に辞めて家にいた。亡くなるまで、ついに財産づくりには励まず、学問を修め書を著すことを仕事とした。だから漢が興ってから五代の間で、『春秋』に通じていると名高いのは董仲舒ただ一人であり、その伝える学は公羊氏の学である。胡毋生は斉の人である。孝景帝の時代に博士となり、年老いてから故郷に帰って教授した。斉で『春秋』を説く者の多くは胡毋生から学び、公孫弘もかなり学んだ。瑕丘の江生は『穀梁春秋』を修めた。公孫弘が用いられるようになってから、かつて両派の説を集めてその意義を比べたが、結局は董仲舒の説を用いた。董仲舒の弟子で学業を成し遂げた者は、蘭陵の褚大、広川の殷忠、温の呂歩舒である。褚大は梁の相に至った。呂歩舒は丞相長史に至り、節を持って使者となり淮南王の獄を裁いたとき、諸侯に対して独断で処断して事前に報告しなかったが、『春秋』の義によって正したので、天子はみなそれを正しいとした。弟子で学問に通じた者は命大夫にまで至り、郎・謁者・掌故となった者は百人を数えた。そして董仲舒の子や孫もみな学問によって高官に至った。

解説

漢代儒学の最大の学者董仲舒の後半生を描く段です。董仲舒は『春秋』の災異の記録から陰陽の乱れを推し量る学説を立て、江都の相として実践しましたが、遼東の高祖廟の火災について書いた草稿を主父偃に盗まれ、朝廷批判として死罪に問われかけます。しかも自分の弟子が師の書と知らずに「愚か」と酷評したという皮肉な話です。以後、董仲舒は二度と災異を語りませんでした。また学問では劣る公孫弘が世に迎合して出世し、董仲舒は彼をへつらい者と見て憎まれ、乱暴で知られた膠西王の相に回されます。それでも財産には無縁で学問と著述に生きた董仲舒の学統は大きく広がりました。書いたものが意図と違う文脈で読まれる怖さと、迎合せずに学び続けた人の影響の長さを示す段です。

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