史記 / 儒林列伝
居頃之,景帝以固為廉直,拜為清河王太傅。久之,病免。
新字:居頃之,景帝以固為廉直,拝為清河王太傅。久之,病免。
書き下し
居ること頃之にして、景帝固を以て廉直と為し、拝して清河王の太傅と為す。之を久しくして、病みて免ぜらる。
現代語訳
しばらくして、景帝は轅固生を清廉で剛直な人物と見て、清河王の太傅に任じた。長く務めた後、病で免職となった。
解説
轅固生の経歴の一場面を記す短い段です。この直前には、老子を好む竇太后に『老子』の書をどう思うかと問われた轅固生が「これは下働きの者の言葉にすぎない」と答えて激怒を買い、豚の囲いに入れられて豚と戦わされたところ、景帝がひそかに鋭い刃物を渡したので一突きで豚を倒し、太后も黙るしかなかったという話が語られています。景帝はその剛直さを評価して、清河王の守り役に任じたのです。権力者の好みに逆らってでも自分の学問の立場を曲げない轅固生と、表立っては母に逆らえないながらも陰で彼を助け、後に取り立てた景帝の姿が対照的です。上司が表では言えない支持を、別の形で示すこともある。立場を守りつつ正しい者を守る知恵が見える場面です。
関連する章句
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史記 儒林列伝竇太后老子の書を好み、轅固生を召して老子の書を問ふ。固曰く、「此は是れ家人の言のみ」と。太后怒りて曰く、「安くんぞ司空城旦の書を得んや」と。乃ち固をして圈に入りて豕を刺さしむ。景帝太后の怒りて固の直言にして罪無きを知り、乃ち固に利兵を假し、圈に下りて豕を刺さしむ、正に其の心に中り、一刺にして、豕手に応じて倒る。太后默然として、以て復た罪する無く、之を罷む。
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史記 儒林列伝今上初めて即位し、復た賢良を以て固を徴す。諸諛儒多く固を疾毀し、「固老いたり」と曰ひ、罷めて之を帰す。時に固已に九十餘なり。固の徴さるるや、薛人公孫弘も亦た徴さる、目を側てて固を視る。固曰く、「公孫子、務めて学を正して以て言へ、学を曲げて以て世に阿る無かれ」と。
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史記 汲鄭列伝汲黯字は長孺、濮陽の人なり。其の先古の衛君に寵有り。黯に至るまで七世、世々卿大夫為り。黯父の任を以て、孝景の時太子洗馬と為り、荘を以て憚らる。孝景帝崩じ、太子位に即く、黯謁者と為る。東越相攻む、上黯をして往きて之を視しむ。至らず、呉に至りて還り、報じて曰く、「越人相攻むるは、固より其の俗然り、以て天子の使ひを辱むるに足らず」と。
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