史記 / 儒林列伝
今上初即位,復以賢良徵固。諸諛儒多疾毀固,曰「固老」,罷歸之。時固已九十餘矣。固之徵也,薛人公孫弘亦徵,側目而視固。固曰:「公孫子,務正學以言,無曲學以阿世!
新字:今上初即位,復以賢良徴固。諸諛儒多疾毀固,曰「固老」,罷帰之。時固已九十余矣。固之徴也,薛人公孫弘亦徴,側目而視固。固曰:「公孫子,務正学以言,無曲学以阿世!
書き下し
今上初めて即位し、復た賢良を以て固を徴す。諸諛儒多く固を疾毀し、「固老いたり」と曰ひ、罷めて之を帰す。時に固已に九十餘なり。固の徴さるるや、薛人公孫弘も亦た徴さる、目を側てて固を視る。固曰く、「公孫子、務めて学を正して以て言へ、学を曲げて以て世に阿る無かれ」と。
現代語訳
今の帝が即位したばかりのころ、ふたたび賢良の士として固を召し出した。おもねる儒者たちの多くが固を憎み中傷し、「固は老いた」と言って、罷免して帰らせた。当時、固はすでに九十を過ぎていた。固が召された際、薛の人・公孫弘も召され、彼は横目で固を見た。固は言った。「公孫くん、学問を正しく修めて物を言いなさい。学問を曲げて世におもねってはいけない」。
解説
「学問や信念を曲げて、時流や権力にへつらってはならない」——九十を過ぎた老学者・轅固生が、後進に贈った戒めを描いた一段です。武帝が即位すると、賢良の士として、九十歳を超えた老学者・轅固生が、再び召し出されました。しかし、へつらいを事とする俗物の儒者たちは、こぞって轅固生を妬み、悪く言います。「轅固生はもう老いぼれだ」と讒言して、結局、彼を追い返してしまいました。この轅固生が召されたとき、同じく召し出された者の中に、後に丞相にまで上る公孫弘がいました。公孫弘は、(この剛直な老人を煙たく思い)横目でじろりと轅固生を睨みます。その公孫弘に対し、轅固生は、こう言い聞かせました。「公孫くん。学問というものは、あくまで正しい筋道を貫いて論じなさい。けっして、学問(自分の信じる正しさ)を曲げてまで、世の風潮や権力にへつらってはならない(務正學以言、無曲學以阿世)」と。ここから「曲学阿世(学問を曲げて世におもねること)」という言葉が生まれました。時流に迎合して出世する道ではなく、たとえ煙たがられ、老いぼれと讒言されても、正しい筋を貫くべきだ——生涯を剛直に貫いた老学者の、重い戒めです。ここに、信念と迎合についての教訓があります。第一に、自分の学問・専門・信念を、時流や権力にへつらうために、曲げてはならないということ(無曲學以阿世)。轅固生は、迎合して出世する俗物の儒者たちを尻目に、正しい筋を貫いた。その場の風潮や、上の者の顔色に合わせて、自分の信じる正しさを歪めれば、専門家としての魂を失う。第二に、正しさを貫く者は、しばしば、迎合する多数派から妬まれ、疎んじられるということ。轅固生は「老いぼれ」と讒言されて追い返された。しかし、それでも筋を曲げなかった。多数派に嫌われることを恐れて、信念を売ってはならない。第三に、後進に対して、目先の出世術ではなく、こうした本質的な生き方の筋を伝えること。組織や専門職で、自分の信念や専門を時流や権力への迎合のために曲げないこと、正しさを貫く者が多数派から妬まれても屈しないこと、そして後進に本質的な筋を伝えること——轅固生の戒め「曲学阿世する無かれ」は、専門家が守るべき魂を教えます。
この章句が説くこと
轅固生公孫弘無曲学以阿世曲学阿世信念を時流に曲げない権力に阿らない
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人生を、一行の式にしてみた。
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