史記 / 儒林列伝
然已招致,則以為太中大夫,舍魯邸,議明堂事。太皇竇太后好老子言,不說儒術,得趙綰、王臧之過以讓上,上因廢明堂事,盡下趙綰、王臧吏,後皆自殺。申公亦疾免以歸,數年卒。弟子為博士者十餘人:孔安國至臨淮太守,周霸至膠西內史,夏寬至城陽內史,碭魯賜至東海太守,蘭陵繆生至長沙內史,徐偃為膠西中尉,鄒人闕門慶忌為膠東內史。其治官民皆有廉節,稱其好學。學官弟子行雖不備,而至於大夫、郎中、掌故以百數。言詩雖殊,多本於申公。清河王太傅轅固生者,齊人也。以治詩,孝景時為博士。與黃生爭論景帝前。黃生曰:「湯武非受命,乃弒也。」轅固生曰:「不然。夫桀紂虐亂,天下之心皆歸湯武,湯武與天下之心而誅桀紂,桀紂之民不為之使而歸湯武,湯武不得已而立,非受命為何?」黃生曰:「冠雖敝,必加於首;履雖新,必關於足。何者,上下之分也。今桀紂雖失道,然君上也;湯武雖聖,臣下也。夫主有失行,臣下不能正言匡過以尊天子,反因過而誅之,代立踐南面,非弒而何也?」轅固生曰:「必若所云,是高帝代秦即天子之位,非邪?」於是景帝曰:「食肉不食馬肝,不為不知味;言學者無言湯武受命,不為愚。」遂罷。是後學者莫敢明受命放殺者。
新字:然已招致,則以為太中大夫,舎魯邸,議明堂事。太皇竇太后好老子言,不説儒術,得趙綰、王臧之過以譲上,上因廃明堂事,尽下趙綰、王臧吏,後皆自殺。申公亦疾免以帰,数年卒。弟子為博士者十余人:孔安国至臨淮太守,周覇至膠西内史,夏寛至城陽内史,碭魯賜至東海太守,蘭陵繆生至長沙内史,徐偃為膠西中尉,鄒人闕門慶忌為膠東内史。其治官民皆有廉節,称其好学。学官弟子行雖不備,而至於大夫、郎中、掌故以百数。言詩雖殊,多本於申公。清河王太傅轅固生者,斉人也。以治詩,孝景時為博士。与黄生争論景帝前。黄生曰:「湯武非受命,乃弒也。」轅固生曰:「不然。夫桀紂虐乱,天下之心皆帰湯武,湯武与天下之心而誅桀紂,桀紂之民不為之使而帰湯武,湯武不得已而立,非受命為何?」黄生曰:「冠雖敝,必加於首;履雖新,必関於足。何者,上下之分也。今桀紂雖失道,然君上也;湯武雖聖,臣下也。夫主有失行,臣下不能正言匡過以尊天子,反因過而誅之,代立践南面,非弒而何也?」轅固生曰:「必若所云,是高帝代秦即天子之位,非邪?」於是景帝曰:「食肉不食馬肝,不為不知味;言学者無言湯武受命,不為愚。」遂罷。是後学者莫敢明受命放殺者。
書き下し
然れども已に招致す、則ち以て太中大夫と為し、魯の邸に舎らしめ、明堂の事を議せしむ。太皇竇太后老子の言を好み、儒術を説ばず、趙綰・王臧の過ちを得て以て上を譲む、上因りて明堂の事を廃し、尽く趙綰・王臧を吏に下す、後に皆自殺す。申公も亦疾みて免ぜられ以て帰り、数年にして卒す。弟子の博士と為る者十余人。孔安国は臨淮太守に至り、周霸は膠西内史に至り、夏寛は城陽内史に至り、碭の魯賜は東海太守に至り、蘭陵の繆生は長沙内史に至り、徐偃は膠西中尉と為り、鄒人闕門慶忌は膠東内史と為る。其の官民を治むるに皆廉節有り、其の学を好むを称せらる。学官の弟子行ひ備はらずと雖も、而して大夫・郎中・掌故に至る者百を以て数ふ。詩を言ふこと殊なると雖も、多く申公に本づく。清河王の太傅轅固生は、斉の人なり。詩を治むるを以て、孝景の時博士と為る。黄生と景帝の前に争論す。黄生曰く、「湯武は命を受くるに非ず、乃ち弑するなり」と。轅固生曰く、「然らず。夫れ桀紂虐乱にして、天下の心皆湯武に帰す、湯武天下の心に与して桀紂を誅す、桀紂の民之が使ひと為らずして湯武に帰す、湯武已むを得ずして立つ、命を受くるに非ずして何為れぞ」と。黄生曰く、「冠は敝ると雖も、必ず首に加ふ。履は新たなりと雖も、必ず足に関す。何となれば、上下の分なればなり。今桀紂は道を失ふと雖も、然れども君上なり。湯武は聖なりと雖も、臣下なり。夫れ主に失行有らば、臣下正言して過ちを匡して以て天子を尊ぶこと能はず、反りて過ちに因りて之を誅し、代はり立ちて南面を践む、弑に非ずして何ぞや」と。轅固生曰く、「必ず云ふ所の若くならば、是れ高帝秦に代はりて天子の位に即くは、非なるか」と。是に於て景帝曰く、「肉を食ひて馬肝を食はざるも、味を知らずと為さず。学を言ふ者湯武の受命を言ふ無きも、愚と為さず」と。遂に罷む。是の後学者敢て受命放殺を明らかにする者莫し。
現代語訳
しかしすでに招いてしまったので、(申公を)太中大夫とし、魯の藩邸に住まわせて、明堂のことを議論させた。太皇太后の竇太后は老子の言を好み、儒学を喜ばなかったので、趙綰と王臧の過失をつかんで主上を責めた。主上はそのため明堂の件を取りやめ、趙綰と王臧をことごとく獄吏に下したが、二人はのちにどちらも自殺した。申公もまた病で免職となって帰郷し、数年後に亡くなった。弟子で博士となった者は十余人いた。孔安国は臨淮太守に、周霸は膠西内史に、夏寛は城陽内史に、碭の魯賜は東海太守に、蘭陵の繆生は長沙内史に至り、徐偃は膠西中尉に、鄒の人闕門慶忌は膠東内史となった。彼らは官吏や民を治めるにあたってみな清廉で節操があり、学問を好むことで称えられた。学官の弟子たちは、行いは十分でなかったものの、大夫・郎中・掌故にまで至った者は百人を数えた。『詩経』の説き方はそれぞれ違っていたが、多くは申公に基づいていた。清河王の太傅となった轅固生(えんこせい)は斉の人である。『詩経』に通じていたことで、孝景帝の時代に博士となった。黄生と景帝の前で論争した。黄生は言った。「殷の湯王と周の武王は天命を受けたのではなく、主君を弑したのである」。轅固生は言った。「そうではない。夏の桀王と殷の紂王は暴虐で乱れ、天下の心はみな湯王・武王に帰していた。湯王・武王は天下の心に応じて桀・紂を誅したのであり、桀・紂の民は彼らの命令に従わず、湯王・武王に帰した。湯王・武王はやむをえず位に立ったのである。これが天命を受けたのでなくて何であろうか」。黄生は言った。「冠はたとえ破れても必ず頭にかぶり、履物はたとえ新しくても必ず足に履く。なぜか。上下の分があるからである。今、桀・紂は道を失ったとはいえ主君であり、湯王・武王は聖人とはいえ臣下である。主君に誤った行いがあれば、臣下は正しい言葉で過ちを正して天子を尊ぶべきなのに、それができずに、かえってその過ちにつけ込んで主君を誅し、代わって天子の位に就いた。これが弑でなくて何であろうか」。轅固生は言った。「どうしてもあなたの言うとおりだとすれば、高帝が秦に代わって天子の位に就いたのも、間違いだったということか」。そこで景帝は言った。「肉を食べて馬の肝(毒があるとされた)を食べなくても、味を知らないことにはならない。学問を論じる者が湯王・武王の受命を論じなくても、愚かということにはならない」。こうして論争を打ち切った。これより後、学者で天命を受けて暴君を追放し殺すことを明言する者はいなくなった。
解説
関連する章句
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『長短経』是非〔是に曰く〕漢の景帝の時、轅固と黄生と上の前に争論す。黄生曰く「湯・武は受命に非ず、乃ち殺なり」と。固曰く「然らず。夫れ桀紂は荒乱し、天下の心は皆な湯武に帰す。湯武は天下の心と与にして桀紂を誅す。桀紂の人、為に使われずして湯武に帰す。湯武は已むを得ずして立つ。受命に非ずして何と為さん」と。〔非に曰く〕黄生曰く「冠は敝ると雖も必ず首に加え、履は新しと雖も必ず足に貫く。何となれば、上下の分なり。今、桀紂は道を失うと雖も、然れども君上なり。湯武は聖なりと雖も、臣下なり。夫れ君に失行有れば、臣は正言して過ちを匡し、以て天子を尊ぶ。反って過ちに因りて之を誅し、代わり立ちて南面す。殺に非ずして何ぞ」と。
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史記 儒林列伝蘭陵の王臧既に詩を受け、以て孝景帝に事へて太子少傅と為り、免じて去る。今上初めて位に即く、臧乃ち上書して上に宿衛し、累遷して、一歳の中に郎中令と為る。及び代の趙綰も亦嘗て詩を申公に受く、綰御史大夫と為る。綰・臧天子に請ひ、明堂を立てて以て諸侯を朝せしめんと欲するも、其の事を就すこと能はず、乃ち師の申公を言ふ。
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史記 儒林列伝陳渉は匹夫より起こり、瓦合の適戍を駆り、旬月にして以て楚に王たり、半歳に満たずして竟に滅亡す、其の事至って微浅なり、然れども縉紳先生の徒孔子の礼器を負ひて往きて質を委ねて臣と為る者は、何ぞや。秦其の業を焚くを以て、怨みを積みて憤りを陳王に発するなり。高皇帝項籍を誅し、兵を挙げて魯を囲むに及び、魯中の諸儒尚ほ講誦して礼楽を習ひ、弦歌の音絶えず、豈に聖人の遺化にして、礼楽を好むの国に非ずや。故に孔子陳に在りて曰く、「帰らんか、帰らんか。吾が党の小子は狂簡にして、斐然として章を成す、之を裁する所以を知らず」と。夫れ斉魯の間の文学に於けるや、古より以来、其の天性なり。故に漢興り、然る後に諸儒始めて其の経芸を修め、大射郷飲の礼を講習するを得たり。叔孫通漢の礼儀を作り、因りて太常と為り、諸生弟子の共に定むる者、咸選の首と為る、是に於て喟然として学に興るを嘆ず。然れども尚ほ干戈有り、四海を平定し、亦未だ庠序の事に暇遑あらざるなり。孝恵・呂后の時、公卿は皆武力功有るの臣なり。孝文の時頗る徴用す、然れども孝文帝は本より刑名の言を好む。孝景に至るに及び、儒者を任ぜず、而して竇太后又黄老の術を好む、故に諸博士官に具はりて問を待つも、未だ進む者有らず。今上位に即くに及び、趙綰・王臧の属儒学に明らかなり、而して上も亦之に郷ふ、是に於て方正賢良文学の士を招く。是より後、詩を言ふは魯に於ては則ち申培公、斉に於ては則ち轅固生、燕に於ては則ち韓太傅。尚書を言ふは済南の伏生よりす。礼を言ふは魯の高堂生よりす。易を言ふは菑川の田生よりす。春秋を言ふは斉魯に於ては胡毋生よりし、趙に於ては董仲舒よりす。
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史記 魏其武安侯列伝太后は黄老の言を好む。而るに魏其・武安・趙綰・王臧等務めて儒術を隆推し、道家の言を貶す。是を以て竇太后滋々魏其等を説ばず。建元二年に及び、御史大夫趙綰東宮に事を奏すること無からんことを請ふ。竇太后大いに怒り、乃ち趙綰・王臧等を罷逐し、而して丞相・太尉を免じ、柏至侯許昌を以て丞相と為し、武彊侯荘青翟を御史大夫と為す。魏其・武安此に由りて侯を以て家居す。
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史記 儒林列伝其の学を事とせず若しくは下材及び一芸に通ずること能はざるものは、輒ち之を罷め、而して諸々の称はざる者を罰せんことを請ふ。臣謹んで案ずるに詔書律令の下る者は、天人の分際を明らかにし、古今の義に通じ、文章爾雅にして、訓辞深厚、恩施甚だ美なり。小吏は浅聞にして、究め宣ぶること能はず、以て明らかに布きて下に諭す無し。礼を治むるは掌故を治むるに次ぐ、文学礼義を以て官と為り、遷ること留滞す。請ふ其の秩比二百石以上、及び吏百石にして一芸以上に通ずるものを選択して、左右内史・大行の卒史に補し、比百石已下は、郡太守の卒史に補せん。皆各々二人、辺郡は一人。先づ誦すること多き者を用ひ、若し足らずんば、乃ち掌故を択びて中二千石の属に補し、文学掌故をもて郡の属に補し、員に備へん。請ふ功令に著せん。佗は律令の如くせん」と。制して曰く、「可なり」と。此より以来、則ち公卿大夫士吏斌斌として文学の士多し。申公は、魯の人なり。高祖魯を過ぐ、申公弟子を以て師に従ひて入りて高祖に魯の南宮に見ゆ。呂太后の時、申公長安に游学し、劉郢と師を同じくす。已にして郢楚王と為り、申公をして其の太子戊に傅たらしむ。戊学を好まず、申公を疾む。王郢卒するに及び、戊立ちて楚王と為り、申公を胥靡にす。
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史記 儒林列伝是より後、斉の詩を言ふは皆轅固生に本づくなり。諸々の斉人の詩を以て顕貴なる者は、皆固の弟子なり。韓生は、燕人なり。孝文帝の時博士と為り、景帝の時常山王の太傅と為る。韓生詩の意を推して内外伝数万言を為る、其の語頗る斉魯の間と殊なり、然れども其の帰は一なり。淮南の賁生之を受く。是より後、燕趙の間の詩を言ふ者は韓生に由る。韓生の孫商今上の博士と為る。伏生は、済南の人なり。故の秦の博士為り。孝文帝の時、能く尚書を治むる者を求めんと欲するも、天下に有る無し、乃ち伏生の能く治むるを聞き、之を召さんと欲す。是の時伏生年九十余、老いて、行くこと能はず、是に於て乃ち太常に詔して掌故晁錯をして往きて之を受けしむ。秦の時書を焚く、伏生壁に之を蔵す。其の後兵大いに起こり、流亡す、漢定まり、伏生其の書を求むるに、数十篇を亡ひ、独り二十九篇を得、即ち以て斉魯の間に教ふ。学者是に由りて頗る能く尚書を言ひ、諸々の山東の大師尚書に渉りて以て教へざる無し。伏生済南の張生及び欧陽生に教へ、欧陽生千乗の兒寛に教ふ。兒寛既に尚書に通じ、文学を以て郡の挙に応じ、博士に詣りて業を受く、業を孔安国に受く。兒寛貧しくして資用無し、常に弟子の為に都養し、及び時時間行して傭賃し、以て衣食に給す。行くに常に経を帯び、止息すれば則ち之を誦習す。試みの第次を以て、廷尉史に補せらる。是の時張湯方に学に郷ひ、以て奏讞の掾と為し、古法を以て疑はしき大獄を議決せしめ、而して寛を愛幸す。寛人と為り温良にして、廉智有り、自ら持し、而して善く書を著し、書奏し、文に敏きも、口発明すること能はざるなり。湯以て長者と為し、数々之を称誉す。湯御史大夫と為るに及び、兒寛を以て掾と為し、之を天子に薦む。天子見て問ひ、之を説ぶ。
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