史記 / 儒林列伝
蘭陵王臧既受詩,以事孝景帝為太子少傅,免去。今上初即位,臧乃上書宿衛上,累遷,一歲中為郎中令。及代趙綰亦嘗受詩申公,綰為御史大夫。綰、臧請天子,欲立明堂以朝諸侯,不能就其事,乃言師申公。
新字:蘭陵王臧既受詩,以事孝景帝為太子少傅,免去。今上初即位,臧乃上書宿衛上,累遷,一歳中為郎中令。及代趙綰亦嘗受詩申公,綰為御史大夫。綰、臧請天子,欲立明堂以朝諸侯,不能就其事,乃言師申公。
書き下し
蘭陵の王臧既に詩を受け、以て孝景帝に事へて太子少傅と為り、免じて去る。今上初めて位に即く、臧乃ち上書して上に宿衛し、累遷して、一歳の中に郎中令と為る。及び代の趙綰も亦嘗て詩を申公に受く、綰御史大夫と為る。綰・臧天子に請ひ、明堂を立てて以て諸侯を朝せしめんと欲するも、其の事を就すこと能はず、乃ち師の申公を言ふ。
現代語訳
蘭陵の王臧は申公から『詩経』を学ぶと、孝景帝に仕えて太子少傅(太子の守り役)となったが、免職されて去った。今上(武帝)が即位したばかりのころ、王臧は上書して主上の宿衛となり、次々と昇進して、一年のうちに郎中令となった。また代の趙綰も、かつて申公から『詩経』を学んでおり、趙綰は御史大夫となった。趙綰と王臧は天子に願い出て、明堂(天子が政令を発し諸侯を朝見させる殿堂)を建てて諸侯を朝見させようとしたが、その事業を成し遂げることができず、そこで師の申公を推薦した。
解説
申公の弟子である王臧と趙綰が、武帝の即位とともに高官に上り、儒学による政治改革を始めようとする段です。二人は明堂という、古の聖王が政令を発し諸侯を朝見させたとされる殿堂を建てようとしますが、制度の詳しいことがわからず、師の申公を推薦して都に招くことにしました。この後、八十歳を超えた申公は丁重に迎えられますが、「政治は多言にあらず、力行を顧みるのみ」と答えて武帝を失望させ、さらに黄老を好む竇太后の怒りに触れて趙綰と王臧は失脚します。新しい政権で改革の旗を振る若い世代が、年長の師の権威を借りて事を進めようとする構図は、今の組織でもよく見られます。改革を急ぐときほど、反対勢力の力と足元の準備を見極める必要があると気づかせる段です。
関連する章句
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史記 儒林列伝然れども已に招致す、則ち以て太中大夫と為し、魯の邸に舎らしめ、明堂の事を議せしむ。太皇竇太后老子の言を好み、儒術を説ばず、趙綰・王臧の過ちを得て以て上を譲む、上因りて明堂の事を廃し、尽く趙綰・王臧を吏に下す、後に皆自殺す。申公も亦疾みて免ぜられ以て帰り、数年にして卒す。弟子の博士と為る者十余人。孔安国は臨淮太守に至り、周霸は膠西内史に至り、夏寛は城陽内史に至り、碭の魯賜は東海太守に至り、蘭陵の繆生は長沙内史に至り、徐偃は膠西中尉と為り、鄒人闕門慶忌は膠東内史と為る。其の官民を治むるに皆廉節有り、其の学を好むを称せらる。学官の弟子行ひ備はらずと雖も、而して大夫・郎中・掌故に至る者百を以て数ふ。詩を言ふこと殊なると雖も、多く申公に本づく。清河王の太傅轅固生は、斉の人なり。詩を治むるを以て、孝景の時博士と為る。黄生と景帝の前に争論す。黄生曰く、「湯武は命を受くるに非ず、乃ち弑するなり」と。轅固生曰く、「然らず。夫れ桀紂虐乱にして、天下の心皆湯武に帰す、湯武天下の心に与して桀紂を誅す、桀紂の民之が使ひと為らずして湯武に帰す、湯武已むを得ずして立つ、命を受くるに非ずして何為れぞ」と。黄生曰く、「冠は敝ると雖も、必ず首に加ふ。履は新たなりと雖も、必ず足に関す。何となれば、上下の分なればなり。今桀紂は道を失ふと雖も、然れども君上なり。湯武は聖なりと雖も、臣下なり。夫れ主に失行有らば、臣下正言して過ちを匡して以て天子を尊ぶこと能はず、反りて過ちに因りて之を誅し、代はり立ちて南面を践む、弑に非ずして何ぞや」と。轅固生曰く、「必ず云ふ所の若くならば、是れ高帝秦に代はりて天子の位に即くは、非なるか」と。是に於て景帝曰く、「肉を食ひて馬肝を食はざるも、味を知らずと為さず。学を言ふ者湯武の受命を言ふ無きも、愚と為さず」と。遂に罷む。是の後学者敢て受命放殺を明らかにする者莫し。
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