史記 / 汲鄭列伝
汲黯字長孺,濮陽人也。其先有寵於古之衛君。至黯七世,世為卿大夫。黯以父任,孝景時為太子洗馬,以莊見憚。孝景帝崩,太子即位,黯為謁者。東越相攻,上使黯往視之。不至,至吳而還,報曰:「越人相攻,固其俗然,不足以辱天子之使。」
新字:汲黯字長孺,濮陽人也。其先有寵於古之衛君。至黯七世,世為卿大夫。黯以父任,孝景時為太子洗馬,以荘見憚。孝景帝崩,太子即位,黯為謁者。東越相攻,上使黯往視之。不至,至呉而還,報曰:「越人相攻,固其俗然,不足以辱天子之使。」
書き下し
汲黯字は長孺、濮陽の人なり。其の先古の衛君に寵有り。黯に至るまで七世、世々卿大夫為り。黯父の任を以て、孝景の時太子洗馬と為り、荘を以て憚らる。孝景帝崩じ、太子位に即く、黯謁者と為る。東越相攻む、上黯をして往きて之を視しむ。至らず、呉に至りて還り、報じて曰く、「越人相攻むるは、固より其の俗然り、以て天子の使ひを辱むるに足らず」と。
現代語訳
汲黯は字を長孺といい、濮陽の人である。その祖先は昔の衛の君主に寵遇されていた。汲黯に至るまで七代、代々卿・大夫であった。汲黯は父の任子(高官の子弟を官に任用する制度)によって、孝景帝の時代に太子洗馬(太子の侍従官)となり、厳格な態度で周りから一目置かれた。孝景帝が崩じて太子が即位すると、汲黯は謁者となった。東越の諸国が互いに攻め合ったとき、主上は汲黯を遣わして視察させた。汲黯は現地まで行かず、呉まで行って引き返し、報告した。「越人が互いに攻め合うのはもともとその風俗であり、天子の使者を煩わせるほどのことではない」。
解説
汲鄭列伝の書き出しで、武帝期随一の硬骨の臣汲黯を紹介する段です。汲黯は七代続く名門の出で、父の縁で景帝の太子(後の武帝)の侍従となり、その謹厳さで恐れられました。武帝が即位して東越の争いの視察を命じると、現地まで行かず呉で引き返し、「越人が攻め合うのはいつものこと、天子の使者が行くほどではない」と報告しています。命令に文字どおり従うより、自分の判断で事の軽重を見極め、それを遠慮なく述べる人物だったことがわかります。見方によっては職務放棄ですが、無用な介入を避けるべきだという意見表明でもありました。上からの指示の目的を考え、必要なければそう言える部下は貴重ですが、その分だけ上司との衝突も多くなります。この性格が彼の生涯を決めていきます。
関連する章句
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史記 汲鄭列伝黯人と為り性倨にして、礼少なく、面折し、人の過ちを容るること能はず。己に合ふ者は善く之を待ち、己に合はざる者は見るに忍ぶこと能はず、士も亦此を以て附かず。然れども学を好み、游侠し、気節に任じ、内行修絜にして、直諫を好み、数々主の顔色を犯し、常に傅柏・袁盎の人と為りを慕ふなり。灌夫・鄭当時及び宗正劉棄に善し。亦数々直諫するを以て、久しく位に居るを得ず。是の時に当たり、太后の弟武安侯蚡丞相為り、中二千石来たりて拝謁するに、蚡礼を為さず。然れども黯蚡に見ゆるに未だ嘗て拝せず、常に之に揖す。天子方に文学儒者を招く、上曰く吾云云せんと欲すと、黯対へて曰く、「陛下内に欲多くして外に仁義を施す、柰何ぞ唐虞の治に效はんと欲するや」と。上黙然として、怒り、色を変じて朝を罷む。公卿皆黯の為に懼る。上退き、左右に謂ひて曰く、「甚しいかな、汲黯の戇なるや」と。群臣或いは黯を数む、黯曰く、「天子公卿輔弼の臣を置くは、寧ろ従諛承意して、主を不義に陥れしめんや。且つ已に其の位に在り、縦ひ身を愛すとも、朝廷を辱むることを柰何せん」と。黯病多く、病且に三月に満たんとし、上常に告を賜ふこと数々なるも、終に愈えず。最後に病む、荘助為に告を請ふ。
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史記 汲鄭列伝上黯の何如なる人なるを問ふ。莊助曰く、「黯をして職に任じ官に居らしむれば、以て人に踰ゆる無し。然れども其の少主を輔け、城を守ること深堅にして、之を招くも来たらず、之を麾くも去らず、賁育と雖も亦た之を奪ふ能はざるに至る」と。上曰く、「然り。古に社稷の臣有り、黯のごときに至りては、之に近し」と。大将軍青侍中す、上厠に踞して之を視る。丞相弘燕見す、上或いは時に冠せず。黯の見ゆるに至りては、上冠せざれば見ざるなり。黯前みて事を奏するに、上冠せず、望みて黯を見て、帳中に避け、人をして其の奏を可とせしむ。其の敬礼せらるること此くのごとし。
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史記 汲鄭列伝黯の姑姊の子司馬安も亦少くして黯と太子洗馬為り。安は文深く巧みにして善く宦し、官四たび九卿に至り、河南太守を以て卒す。昆弟安の故を以て、同時に二千石に至る者十人。濮陽の段宏始め蓋侯信に事ふ、信宏に任ず、宏も亦再び九卿に至る。然れども衛人の仕ふる者皆厳に汲黯を憚り、其の下に出づ。鄭当時は、字は荘、陳の人なり。其の先鄭君嘗て項籍の将為り。籍死し、已にして漢に属す。高祖諸々の故の項籍の臣をして籍を名いはしむ、鄭君独り詔を奉ぜず。詔して尽く籍を名いふ者を拝して大夫と為し、而して鄭君を逐ふ。鄭君孝文の時に死す。鄭荘任侠を以て自ら喜び、張羽を緦より脱して声梁楚の間に聞こゆ。孝景の時、太子舎人と為る。五日の洗沐毎に、常に駅馬を諸郊に置き、諸々の故人を存し、賓客を請謝し、夜以て日に継ぎ、其の明旦に至るまで、常に遍からざらんことを恐る。荘黄老の言を好み、其の長者を慕ふこと見えざらんことを恐るるが如し。年少く官薄きも、然れども其の游知交は皆其の大父の行、天下の有名の士なり。武帝立ち、荘稍く遷りて魯の中尉・済南太守・江都の相と為り、九卿に至りて右内史と為る。武安侯・魏其の時の議を以て、秩を貶されて詹事と為り、遷りて大農令と為る。荘太史為りしとき、門下を誡む、「客至らば、貴賤と無く門に留むる者無かれ」と。賓主の礼を執り、其の貴きを以て人に下る。荘廉にして、又其の産業を治めず、奉賜を仰ぎて以て諸公に給す。然れども其の人に餽遺するは、算器の食に過ぎず。朝する毎に、上の間を候ひ、説くに未だ嘗て天下の長者を言はずんばあらず。其の士及び官属の丞史を推轂するや、誠に其の言に味有り、常に引きて以て己より賢と為す。未だ嘗て吏を名いはず、官属と言ふに、之を傷つけんことを恐るるが若し。人の善言を聞けば、之を上に進め、唯だ後るるを恐る。山東の士諸公此を以て翕然として鄭荘を称す。
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史記 汲鄭列伝黯令為るを恥ぢ、病みて田里に帰る。上聞き、乃ち召して拝して中大夫と為す。
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史記 汲鄭列伝大将軍青既に益ます尊く、姊皇后為り、然れども黯之と亢礼す。人或いは黯に説きて曰く、「天子群臣をして大将軍に下らしめんと欲す、大将軍尊重益ます貴し、君以て拝せざる可からず」と。黯曰く、「夫れ大将軍を以て揖客有らば、反りて重からざらんや」と。大将軍聞き、愈いよ黯を賢とし、数しば国家朝廷の疑ふ所を請問し、黯を遇すること平生に過ぐ。淮南王謀反するや、黯を憚りて曰く、「直諫を好み、節を守り義に死す、惑はすに非を以てし難し。丞相弘を説くがごときに至りては、蒙を発き落を振ふがごときのみ」と。
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史記 汲鄭列伝鄭荘をして決河を視しむ、自ら行を治むること五日ならんことを請ふ。上曰く、「吾聞く『鄭荘行くに、千里糧を齎さず』と、行を治めんことを請ふ者は何ぞや」と。然れども鄭荘朝に在りては、常に趨りて和し意を承け、敢て甚だしくは当否を引かず。晩節に及び、漢匈奴を征し、四夷を招き、天下の費多く、財用益々匱し。荘人の賓客を任じて大農の僦人と為す、多く逋負す。司馬安淮陽太守と為り、其の事を発く、荘此を以て罪に陥り、贖ひて庶人と為る。頃之して、長史を守す。上以為へらく老いたりと、荘を以て汝南太守と為す。数歳にして、官を以て卒す。鄭荘・汲黯始め列して九卿と為る、廉にして、内行修絜なり。此の両人中ごろ廃せられ、家貧しく、賓客益々落つ。郡に居るに及び、卒して後家に余貲財無し。荘の兄弟子孫荘の故を以て、二千石に至る者六七人なり。
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