史記 / 淮南衡山列伝
王又謂被曰:「山東即有兵,漢必使大將軍將而制山東,公以為大將軍何如人也?」被曰:「被所善者黃義,從大將軍擊匈奴,還,告被曰:『大將軍遇士大夫有禮,於士卒有恩,眾皆樂為之用。騎上下山若蜚,材干絕人。』被以為材能如此,數將習兵,未易當也。及謁者曹梁使長安來,言大將軍號令明,當敵勇敢,常為士卒先。休舍,穿井未通,須士卒盡得水,乃敢飲。軍罷,卒盡已度河,乃度。皇太后所賜金帛,盡以賜軍吏。雖古名將弗過也。」王默然。淮南王見建已徵治,恐國陰事且覺,欲發,被又以為難,乃復問被曰:「公以為吳興兵是邪非也?」被曰:「以為非也。吳王至富貴也,舉事不當,身死丹徒,頭足異處,子孫無遺類。臣聞吳王悔之甚。願王孰慮之,無為吳王之所悔。」王曰:「男子之所死者一言耳。且吳何知反,漢將一日過成皋者四十餘人。今我令樓緩先要成皋之口,周被下潁川兵塞轘轅、伊闕之道,陳定發南陽兵守武關。河南太守獨有雒陽耳,何足憂。然此北尚有臨晉關、河東、上黨與河內、趙國。人言曰『絕成皋之口,天下不通』。據三川之險,招山東之兵,舉事如此,公以為何如?」被曰:「臣見其禍,未見其福也。」
新字:王又謂被曰:「山東即有兵,漢必使大将軍将而制山東,公以為大将軍何如人也?」被曰:「被所善者黄義,従大将軍撃匈奴,還,告被曰:『大将軍遇士大夫有礼,於士卒有恩,衆皆楽為之用。騎上下山若蜚,材干絶人。』被以為材能如此,数将習兵,未易当也。及謁者曹梁使長安来,言大将軍号令明,当敵勇敢,常為士卒先。休舎,穿井未通,須士卒尽得水,乃敢飲。軍罷,卒尽已度河,乃度。皇太后所賜金帛,尽以賜軍吏。雖古名将弗過也。」王黙然。淮南王見建已徴治,恐国陰事且覚,欲発,被又以為難,乃復問被曰:「公以為呉興兵是邪非也?」被曰:「以為非也。呉王至富貴也,舉事不当,身死丹徒,頭足異処,子孫無遺類。臣聞呉王悔之甚。願王孰慮之,無為呉王之所悔。」王曰:「男子之所死者一言耳。且呉何知反,漢将一日過成皋者四十余人。今我令楼緩先要成皋之口,周被下潁川兵塞轘轅、伊闕之道,陳定発南陽兵守武関。河南太守独有雒陽耳,何足憂。然此北尚有臨晋関、河東、上党与河内、趙国。人言曰『絶成皋之口,天下不通』。拠三川之険,招山東之兵,舉事如此,公以為何如?」被曰:「臣見其禍,未見其福也。」
書き下し
王又被に謂ひて曰く、「山東即し兵有らば、漢必ず大将軍をして将として山東を制せしめん、公以為へらく大将軍は何如なる人ぞ」と。被曰く、「被の善くする所の者黄義、大将軍に従ひて匈奴を撃ち、還りて、被に告げて曰く、『大将軍士大夫を遇するに礼有り、士卒に於いて恩有り、衆皆之が用を為すを楽しむ。騎して山を上下すること蜚ぶが若く、材幹人に絶す』と。被以為へらく材能此くの如く、数々将として兵を習ふ、未だ当たり易からざるなりと。謁者曹梁長安に使ひして来たるに及び、言ふ大将軍号令明らかにして、敵に当たりて勇敢、常に士卒の先と為る。休舎するに、井を穿ちて未だ通ぜざれば、士卒の尽く水を得るを須ちて、乃ち敢て飲む。軍罷むるに、卒尽く已に河を度りて、乃ち度る。皇太后の賜ふ所の金帛、尽く以て軍吏に賜ふ。古の名将と雖も過ぎざるなりと」と。王黙然たり。淮南王建の已に徴されて治めらるるを見、国の陰事の且に覚られんとするを恐れ、発せんと欲す、被又以て難しと為す、乃ち復た被に問ひて曰く、「公以為へらく呉の兵を興すは是か非か」と。被曰く、「以て非と為すなり。呉王は富貴を至むるなり、事を挙げて当たらず、身は丹徒に死し、頭足処を異にし、子孫遺類無し。臣聞く呉王之を悔ゆること甚しと。願はくは王孰く之を慮り、呉王の悔ゆる所を為す無かれ」と。王曰く、「男子の死する所の者は一言のみ。且つ呉何ぞ反を知らん、漢の将一日に成皋を過ぐる者四十余人。今我楼緩をして先づ成皋の口を要せしめ、周被をして潁川の兵を下して轘轅・伊闕の道を塞がしめ、陳定をして南陽の兵を発して武関を守らしめん。河南の太守独り雒陽有るのみ、何ぞ憂ふるに足らん。然れども此の北に尚ほ臨晋関・河東・上党と河内・趙国と有り。人言ひて曰く『成皋の口を絶たば、天下通ぜず』と。三川の険に拠り、山東の兵を招き、事を挙ぐること此くの如し、公以為へらく何如」と。被曰く、「臣其の禍を見るも、未だ其の福を見ざるなり」と。
現代語訳
王はまた伍被に言った。「山東でもし兵が起これば、漢は必ず大将軍に兵を率いさせて山東を制圧させるだろう。あなたは大将軍(衛青)をどのような人物だと思うか」。伍被は言った。「わたしの親しい黄義は、大将軍に従って匈奴を撃ち、帰ってきてわたしにこう告げた。『大将軍は士大夫に対して礼があり、士卒に対して恩があるので、皆が喜んでその命令に従って働く。馬に乗って山を上り下りするさまは飛ぶようで、才能は人並み外れている』。わたしは、これほどの才能があり、たびたび将として兵を操ってきたのだから、容易には立ち向かえないと思う。また謁者の曹梁が長安への使いから帰ってきて言うには、大将軍は号令が明確で、敵に当たっては勇敢で、つねに士卒の先頭に立つ。宿営するとき、井戸を掘ってまだ水が出なければ、士卒が皆水を得るのを待ってから、ようやく自分も飲む。軍を引き揚げるときは、兵がすべて川を渡り終えてから、ようやく自分も渡る。皇太后から賜った金や絹は、すべて軍吏に与えてしまう。いにしえの名将でもこれ以上ではない、とのことだ」。王は黙ってしまった。淮南王は、建がすでに召し出されて取り調べを受けているのを見て、国の隠し事が今にも発覚するのではと恐れ、兵を起こそうとしたが、伍被はまた難しいと考えていた。そこで王は再び伍被に尋ねた。「あなたは呉が兵を起こしたのを正しいと思うか、間違っていると思うか」。伍被は言った。「間違っていたと思う。呉王は富貴を極めていたのに、事を挙げて道理に当たらず、身は丹徒で死に、首と足は別々になり、子孫は一人も残らなかった。呉王はひどく後悔したと聞いている。どうか王はよくお考えになり、呉王が後悔したようなことをなさらないでほしい」。王は言った。「男子が死ぬのは、一言の約束のためだけだ。それに呉は反乱のやり方を知らなかった。(あのとき)漢の将軍で一日に成皋を通り過ぎた者は四十余人もいた。今わたしは、楼緩にまず成皋の入り口を押さえさせ、周被に潁川の兵を下らせて轘轅(かんえん)と伊闕の道をふさがせ、陳定に南陽の兵を出して武関を守らせる。河南の太守には雒陽があるだけで、何も心配するには及ばない。ただこの北にはまだ臨晋関・河東・上党と河内・趙国がある。人は『成皋の入り口を断てば、天下は通じなくなる』と言っている。三川の要害に拠り、山東の兵を招いて、このように事を挙げる。あなたはどう思うか」。伍被は言った。「わたしにはその禍いが見えるが、その福は見えない」。
解説
関連する章句
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史記 淮南衡山列伝又偽りて左右都司空・上林・中都官の詔獄の書を為り、諸侯の太子幸臣を逮へしむ。此くの如くなれば則ち民怨み、諸侯懼る、即ち弁武をして随ひて之に説かしめば、儻いは徼幸して什に一を得べきか」と。王曰く、「此れ可なり。然りと雖も、吾以為へらく此くの若きに至らずと」と。是に於て王乃ち官奴をして宮に入りて、皇帝の璽、丞相・御史・大将軍・軍吏・中二千石・都官の令・丞の印、及び旁近の郡の太守・都尉の印、漢の使節・法冠を作らしめ、伍被の計の如くせんと欲す。人をして偽りて罪を得て西せしめ、大将軍・丞相に事へしめ、一日兵を発せば、人をして即ち大将軍青を刺殺せしめ、而して丞相に説きて之を下すこと、蒙を発くが如くならんのみ。王国中の兵を発せんと欲するも、其の相・二千石の聴かざらんことを恐る。王乃ち伍被と謀り、先づ相・二千石を殺さんとす。偽りて宮中に失火し、相・二千石火を救はば、至るに即ち之を殺さんと。計未だ決せず、又人をして求盗の衣を衣て、羽檄を持し、東方より来たりて、呼びて「南越の兵界に入る」と曰はしめ、因りて以て兵を発せんと欲す。乃ち人をして廬江・会稽に至りて求盗と為さしむるも、未だ発せず。王伍被に問ひて曰く、「吾兵を挙げて西郷せば、諸侯必ず我に応ずる者有らん。即し応ずる無くんば、柰何」と。被曰く、「南は衡山を収めて以て廬江を撃ち、尋陽の船を有ち、下雉の城を守り、九江の浦を結び、豫章の口を絶ち、彊弩もて江に臨みて守り、以て南郡の下るを禁じ、東は江都・会稽を収め、南は勁越に通じ、江淮の間に屈彊せば、猶ほ歳月の寿を延ばすを得べし」と。王曰く、「善し、以て此に易ふる無し。急なれば則ち越に走らんのみ」と。是に於て廷尉王孫建の辞淮南王の太子遷に連なるを以て聞す。上廷尉監を遣はし因りて淮南の中尉を拝し、太子を逮捕せしむ。淮南に至る、淮南王聞き、太子と謀りて相・二千石を召し、殺して兵を発せんと欲す。相を召す、相至る。内史は出づるを以て解と為す。
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『長短経』懼戒王曰く「苟も公の言の如くんば、徼倖すべからざるか」と。被曰く「被に愚計有り」と。王曰く「奈何」と。被曰く「今、朔方の郡は田地広く、水草美しく、民の徙る者以て其の地を実たすに足らず。偽りて丞相・御史の請書を為り、郡国の豪傑任侠及び耐罪以上有る者を徙し〔軽罪は髠に至らず、其の耐鬢を完うす、故に耐と曰う。又た律と曰う。耐して司寇と為し、耐して鬼薪・白粲と為す。耐は猶お任のごときなり〕、赦令もて除き、家産五十万以上の者は、皆其の家属を朔方の郡に徙し、益々甲卒を発して、其の会日を急にす。又た偽りて左右都司空・上林・中都官の詔獄を為り、諸侯の太子・幸臣を逮う〔宗正に左右都司空有り、上林に水司空有り、皆囚徒を主る官なり〕。此くの如くんば則ち民怨み、諸侯懼る。即ち辨武をして随いて之に説かしめば〔人の名〕、倘くは徼倖して十に一を得べきか」と。王曰く「此れ可なり」と。伍被の計の如くせんと欲す。人をして偽りて罪を得て西し、大将軍・丞相に事えしめ、一日兵を発すれば〔淮南の兵を発す〕、人をして即ち大将軍青を刺殺せしめ、而して丞相以下に説くこと蒙を発くが如くせんとす。又た衣を求盗の衣にし、羽檄を持ちて東方より来たらしめ、呼びて曰く『南越の兵入る』と。因りて以て兵を発せんと欲す。未だ発するを得ざるに、会々事泄れ、誅せらる。
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史記 淮南衡山列伝王伍被を召して与に謀りて曰く、「将軍上れ」と。被悵然として曰く、「上寛かに大王を赦す、王復た安くんぞ此の亡国の語を得んや。臣聞く、子胥呉王を諫むるも、呉王用ゐず、乃ち曰く、『臣今麋鹿の姑蘇の台に游ぶを見ん』と。今臣も亦た宮中に荊棘を生じ、露衣を霑すを見ん」と。王怒り、伍被の父母を系ぐ。復た召して曰く、「将軍寡人に許すか」と。被曰く、「不、直だ来たりて大王の為に画くのみ。臣聞く、聡者は無声に聴き、明者は未形に見る、故に聖人万挙万全なりと。夫れ百年の秦、近世の呉楚も、亦た以て国家の存亡を喩すに足る。臣敢て子胥の誅を避けず、願はくは大王呉王の聴を為す毋かれ」と。
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史記 淮南衡山列伝王曰く、「左呉・趙賢・朱驕如は皆以て福有り、什事にして九成ると為す、公独り以て禍有りて福無しと為すは、何ぞや」と。被曰く、「大王の群臣近幸の素より能く衆を使ふ者は、皆前に詔獄に繋がる、余は用ふべき者無し」と。王曰く、「陳勝・呉広は立錐の地無く、千人の聚まり、大沢に起こり、臂を奮ひて大呼して天下響応し、西して戯に至りて兵百二十万。今吾が国小なりと雖も、然れども勝兵の者十余万を得べし、直だに適戍の衆、釠鑿棘矜のみに非ざるなり、公何を以て禍有りて福無しと言ふや」と。被曰く、「往者秦無道を為し、天下を残賊す。万乗の駕を興し、阿房の宮を作り、太半の賦を収め、閭左の戍を発し、父は子を寧んぜず、兄は弟を便ぜず、政苛く刑峻しく、天下熬然として焦がるるが若く、民皆領を引きて望み、耳を傾けて聴き、悲号して天を仰ぎ、心を叩きて上を怨む、故に陳勝大呼して、天下響応す。当今陛下天下に臨制し、海内を一斉にし、汎く蒸庶を愛し、徳を布き恵みを施す。口未だ言はずと雖も、声は雷霆より疾く、令未だ出でずと雖も、化の馳すること神の如く、心に懐く所有らば、威万里を動かし、下の上に応ずること、猶ほ影響のごときなり。而して大将軍の材能は特に章邯・楊熊のみにあらざるなり。大王陳勝・呉広を以て之を諭す、被以て過てりと為す」と。王曰く、「茍も公の言の如くならば、徼幸すべからざるか」と。被曰く、「被に愚計有り」と。王曰く、「柰何」と。被曰く、「当今諸侯異心無く、百姓怨気無し。朔方の郡は田地広く、水草美し、民の徙る者以て其の地を実たすに足らず。臣の愚計、偽りて丞相御史の請書を為り、郡国の豪桀任侠及び耐罪以上有るものを徙し、赦令して其の罪を除き、産五十万以上の者は、皆其の家属を朔方の郡に徙し、益々甲卒を発し、其の会日を急にすべし。
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