史記 / 孫子呉起列伝
起之為將、與士卒最下者同衣食。臥不設席、行不騎乘、親裹贏糧、與士卒分勞苦。卒有病疽者、起為吮之。卒母聞而哭之。人曰、子卒也、而將軍自吮其疽、何哭為。母曰、非然也。往年吳公吮其父、其父戰不旋踵、遂死於敵。吳公今又吮其子、妾不知其死所矣。是以哭之。
新字:起之為将、与士卒最下者同衣食。臥不設席、行不騎乗、親裹贏糧、与士卒分労苦。卒有病疽者、起為吮之。卒母聞而哭之。人曰、子卒也、而将軍自吮其疽、何哭為。母曰、非然也。往年呉公吮其父、其父戦不旋踵、遂死於敵。呉公今又吮其子、妾不知其死所矣。是以哭之。
書き下し
起の将為るや、士卒の最下の者と衣食を同じくす。臥するに席を設けず、行くに騎乗せず、親ら贏糧を裹ひ、士卒と労苦を分かつ。卒に疽を病む者有り、起、為に之を吮ふ。卒の母、聞きて之に哭す。人曰く、「子は卒なり、而るに将軍自ら其の疽を吮ふ、何ぞ哭するを為す」と。母曰く、「然るに非ざるなり。往年、呉公、其の父を吮ひ、其の父、戦ひて踵を旋さず、遂に敵に死す。呉公今又其の子を吮ふ。妾、其の死所を知らず。是を以て之を哭す」と。
現代語訳
呉起は将軍でありながら、最も身分の低い兵士と同じ衣服・食事で過ごした。寝るのに敷物を敷かず、行軍に馬に乗らず、自ら食糧を背負って運び、兵と労苦を分かち合った。ある兵が悪性のはれものを患うと、呉起は自らその膿を口で吸い出してやった。その兵の母がこれを聞いて泣いた。人が「あなたの息子はただの兵卒なのに、将軍が自らその膿を吸ってくださった。なぜ泣くのか」と尋ねると、母は答えた。「そうではないのです。昔、呉将軍は夫の膿を吸ってくださり、夫は戦いで一歩も退かず、ついに敵に討たれて死にました。今また呉将軍が息子の膿を吸ってくださった。もう息子がどこで死ぬことになるか、私にはわかりません。だから泣いているのです」。
解説
この章句が説くこと
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三略・上略夫れ主将の法は、務めて英雄の心を攬り、功有る者に賞禄し、志を衆に通ずるにあり。故に衆と好を同じくすれば、成らざるは靡く、衆と悪を同じくすれば、傾かざるは靡し。国を治め家を安んずるは、人を得ればなり。国を亡ぼし家を破るは、人を失えばなり。含気の類、咸な其の志を得んことを願う。
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史記 黥布列伝楚、項声・竜且をして淮南を攻めしめ、項王留まりて下邑を攻む。数月、竜且淮南を撃ち、布の軍を破る。布兵を引きて漢に走らんと欲するも、楚王の之を殺さんことを恐る。故に間行して何と倶に漢に帰す。淮南王至る。上方に床に踞して洗ひ、布を召して入り見えしむ。布大いに怒り、来たりしを悔い、自殺せんと欲す。出でて舎に就く。帳御飲食従官漢王の居の如し。布又大いに喜び望みに過ぐ。是に於て乃ち人をして九江に入らしむ。楚已に項伯をして九江の兵を収めしめ、尽く布の妻子を殺す。布の使者頗る故人幸臣を得、衆数千人を将ゐて漢に帰す。漢益々布に兵を分かちて与に倶に北し、兵を収めて成皋に至る。四年七月、布を立てて淮南王と為し、与に項籍を撃つ。漢の五年、布人をして九江に入らしめ、数県を得。六年、布劉賈と九江に入り、大司馬周殷を誘ふ。周殷楚に反き、遂に九江の兵を挙げて漢と楚を撃ち、之を垓下に破る。項籍死し、天下定まる。上置酒す。上隨何の功を折き、何を謂ひて腐儒と為し、天下を為むるに安んぞ腐儒を用ひんと。隨何跪きて曰く、「夫れ陛下兵を引きて彭城を攻むるに、楚王未だ斉を去らず。陛下歩卒五万人、騎五千を発して、能く以て淮南を取らんか」と。上曰く、「能はず」と。隨何曰く、「陛下何と二十人とをして淮南に使ひせしめ、至りて陛下の意の如くならしむ。是れ何の功は歩卒五万人騎五千より賢れるなり。然り而して陛下何を謂ひて腐儒と為し、天下を為むるに安んぞ腐儒を用ひんとするは、何ぞや」と。上曰く、「吾方に子の功を図らんとす」と。乃ち隨何を以て護軍中尉と為す。布遂に符を剖きて淮南王と為り、六に都す。九江・廬江・衡山・豫章の郡皆布に属す。七年、陳に朝す。八年、雒陽に朝す。九年、長安に朝す。
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史記 留侯世家上曰く、「雍歯は我と故あり、数々嘗て我を窘辱す。我之を殺さんと欲するも、其の功多きが為に、故に忍びず」と。留侯曰く、「今急ぎ先づ雍歯を封じて以て羣臣に示せ、羣臣雍歯の封ぜらるるを見ば、則ち人人自ら堅からん」と。是に於て上乃ち酒を置き、雍歯を封じて什方侯と為し、而して急ぎ丞相・御史を趣して功を定め封を行はしむ。羣臣酒を罷め、皆喜びて曰く、「雍歯すら尚ほ侯と為る、我が属患ひ無し」と。劉敬高帝に説きて曰く、「関中に都せよ」と。上之を疑ふ。左右の大臣皆山東の人にして、多く上に雒陽に都せんことを勧む、「雒陽は東に成皋有り、西に殽黽有り、河を倍にし、伊雒に向かふ、其の固めも亦た恃むに足る」と。留侯曰く、「雒陽は此の固め有りと雖も、其の中小にして、数百里に過ぎず、田地薄く、四面より敵を受く、此れ武を用ふるの国に非ざるなり。夫れ関中は殽函を左にし、隴蜀を右にし、沃野千里、南に巴蜀の饒有り、北に胡苑の利有り、三面を阻みて守り、独り一面を以て東のかた諸侯を制す。諸侯安定すれば、河渭漕輓して天下より、西のかた京師に給す。諸侯変有らば、流れに順ひて下り、以て委輸するに足る。此れ所謂金城千里、天府の国なり、劉敬の説是なり」と。是に於て高帝即日駕し、西のかた関中に都す。留侯従ひて関に入る。留侯性多病にして、即ち道引して穀を食はず、門を杜ぢて出でざること歳余。上太子を廃し、戚夫人の子趙王如意を立てんと欲す。大臣多く諫争するも、未だ堅決を得る者あらざるなり。呂后恐れ、為す所を知らず。人或ひと呂后に謂ひて曰く、「留侯は善く計筴を画し、上之を信用す」と。呂后乃ち建成侯呂沢をして留侯を劫かしめて、曰く、「君常に上の謀臣為り、今上太子を易へんと欲す、君安んぞ枕を高くして臥するを得んや」と。留侯曰く、「始め上数々困急の中に在り、幸ひにして臣の筴を用ふ。今天下安定し、愛欲を以て太子を易へんとす、骨肉の間は、臣等百余人と雖も何ぞ益せん」と。
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『長短経』将体危うき者は之を安んじ、懼るる者は之を懽ばせ、叛く者は之を還し〔将に合わずして去る者有らば、慰誘して之を還す。蕭何の韓信を追うが若し〕、冤なる者は之を原し、訴うる者は之を察し、卑しき者は之を貴び〔士卒の卑賤なる者の若きは、之を貴ぶ。昔、呉起の下りて士卒と衣食を同じくせしは是れなり〕、強き者は之を抑え、敵する者は之を残い〔卑中に賤有りて、貴に敵する者は、上下の礼を乱す。之を残殺す〕、貪る者は之を豊かにし〔賞を懸けて以て其の心を豊かにす。貪を使う所以なり〕、欲する者は之を使い〔敵に臨みて将に戦わんとするに、功名を立てんと欲する有り、敵人を利せんと欲する有り。皆許して之を使う。所謂勇を使い貪を使うなり〕、畏るる者は之を隠し〔士卒に畏懼する所有る者は、後に隠蔽し、軍鋒と為さしむること勿かれ。軍の敗るるは鋒の怯なるに由る〕、謀る者は之に近づき、讒する者は之を覆し〔讒闘する者有らば、之を覆亡す〕、毀るる者は之を復し〔官職に毀廃する者有らば、則ち修めて之を復す〕、反する者は之を廃し、横なる者は之を挫き、服する者は之を活かし〔首めて罪に服する者は、之を活かす〕、降る者は之を説ばす〔説は、含〕。
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