史記 / 淮南衡山列伝
孝文十六年,徙淮南王喜復故城陽。上憐淮南厲王廢法不軌,自使失國蚤死,乃立其三子:阜陵侯安為淮南王,安陽侯勃為衡山王,陽周侯賜為廬江王,皆復得厲王時地,參分之。東城侯良前薨,無後也。
新字:孝文十六年,徙淮南王喜復故城陽。上憐淮南厲王廃法不軌,自使失国蚤死,乃立其三子:阜陵侯安為淮南王,安陽侯勃為衡山王,陽周侯賜為廬江王,皆復得厲王時地,参分之。東城侯良前薨,無後也。
書き下し
孝文の十六年、淮南王喜を徙して故の城陽に復す。上淮南厲王の法を廃して軌ならず、自ら国を失ひて蚤く死せしむるを憐れみ、乃ち其の三子を立つ。阜陵侯安を淮南王と為し、安陽侯勃を衡山王と為し、陽周侯賜を廬江王と為し、皆厲王の時の地を復た得しめ、之を参分す。東城侯良は前に薨じ、後無きなり。
現代語訳
孝文帝十六年(前164年)、淮南王の劉喜を移して、もとの城陽王に戻した。主上は、淮南厲王が法を捨てて道に外れ、自ら国を失って早死にしたことを哀れみ、その三人の子を王に立てた。阜陵侯の安を淮南王、安陽侯の勃を衡山王、陽周侯の賜を廬江王とし、三人とも厲王の時代の領地を再び得させ、それを三つに分けた。東城侯の良はそれより前に亡くなっており、跡継ぎがいなかった。
解説
厲王の死から約十年後、文帝が厲王の子三人を王に立てた処置を記す短い段です。淮南の地は一時、城陽王の劉喜に治めさせていましたが、文帝はこれを元に戻し、厲王の旧領を三分して、劉安を淮南王、劉勃を衡山王、劉賜を廬江王としました。世間で「一尺の布も縫える、一斗の粟も舂ける、兄弟二人相容れず」と歌われ、弟を死なせたと非難されたことへの償いの意味があったとされます。同時に、旧領を三つに分けることで、一人の王に大きな力が集まらないようにする配慮も読み取れます。情けによる名誉回復と、力の分散という統治上の計算が一つの処置の中に同居しているのです。組織で過去の処分を見直すとき、償いと再発防止を両立させる設計の仕方を考えさせる段です。
関連する章句
-
史記 淮南衡山列伝臣請ふ蜀郡の厳道の邛郵に処き、其の子母を遣はして従ひて居らしめ、県為に家室を築蓋し、皆廩食し薪菜塩豉炊食器席蓐を給せん。臣等昧死して請ふ、請ふ天下に布告せん」と。制して曰く、「長に食を計りて肉日に五斤、酒二斗を給せよ。故の美人才人の幸を得たる者十人をして従ひて居らしめよ。他は可なり」と。尽く与に謀る所の者を誅す。是に於て乃ち淮南王を遣はし、載するに輜車を以てし、県をして次を以て伝へしむ。是の時袁盎上を諫めて曰く、「上素より淮南王を驕らしめ、為に厳しき傅相を置かず、故を以て此に至る。且つ淮南王人と為り剛なり、今暴かに之を摧折す。臣恐らくは卒に霧露に逢ひて病死せん。陛下弟を殺すの名有るを為さば、柰何せん」と。上曰く、「吾特だ之を苦しむるのみ、今之を復さん」と。県の淮南王を伝ふる者皆敢て車の封を発かず。淮南王乃ち侍者に謂ひて曰く、「誰か乃公を勇者と謂ふ。吾安んぞ能く勇ならん。吾驕るを以ての故に吾が過ちを聞かずして此に至る。人生一世の間、安んぞ能く邑邑たること此くの如くならんや」と。乃ち食はずして死す。雍に至る、雍の令封を発き、死を以て聞す。上哭すること甚だ悲しく、袁盎に謂ひて曰く、「吾公の言を聴かず、卒に淮南王を亡へり」と。盎曰く、「柰何ともすべからず、願はくは陛下自ら寛うせよ」と。上曰く、「之を為すこと柰何」と。盎曰く、「独り丞相・御史を斬りて以て天下に謝せば乃ち可なり」と。上即ち丞相・御史をして諸県の淮南王を伝送して封を発きて侍者に餽らざる者を逮考せしめ、皆棄市す。乃ち列侯を以て淮南王を雍に葬り、冢を守ること三十戸。孝文の八年、上淮南王を憐れむ、淮南王に子四人有り、皆七八歳、乃ち子安を封じて阜陵侯と為し、子勃を安陽侯と為し、子賜を陽周侯と為し、子良を東成侯と為す。
-
史記 孝文本紀乃ち有司に詔して曰く、「済北王徳に背き上に反し、吏民を詿誤(くわいご)す、大逆為り。済北の吏民の兵未だ至らざるに先づ自ら定め、及び軍地邑を以て降る者は、皆之を赦し、官爵を復せよ。王興居と去来せしも、亦之を赦せ。」と。八月、済北の軍を破り、其の王を虜にす。済北の諸吏民の王と反せし者を赦す。六年、有司言ふ淮南王長先帝の法を廃し、天子の詔を聴かず、居処度毋く、出入天子に擬し、擅に法令を為り、棘蒲侯の太子奇と謀反し、人を遣はして閩越及び匈奴に使ひせしめ、其の兵を発し、以て宗廟社稷を危ふくせんと欲すと。群臣議す、皆曰く「長は当に棄市すべし」と。帝法を王に致すに忍びず、其の罪を赦し、廃して王とする勿し。群臣王を蜀の厳道・邛都に処らしめんことを請ふ、帝之を許す。長未だ処所に到らず、行くゆく病みて死す、上之を憐れむ。後十六年、淮南王長を追尊して謚して厲王と為し、其の子三人を立てて淮南王・衡山王・廬江王と為す。
-
史記 淮南衡山列伝孝文十二年、民に歌を作して淮南厲王を歌ふ者有りて曰く、「一尺の布も、尚ほ縫ふ可し、一斗の粟も、尚ほ舂く可し。兄弟二人相容るる能はず」と。上之を聞き、乃ち嘆じて曰く、「堯舜は骨肉を放逐し、周公は管蔡を殺すも、天下聖と称す。何者、私を以て公を害せざればなり。天下豈に我を以て淮南王の地を貪ると為すか」と。乃ち城陽王を徙して淮南の故地に王とし、追ひて淮南王に謚して厲王と為し、園を置くこと諸侯の儀のごとくす。
-
史記 淮南衡山列伝薨ずるに及び、遂に謚を賜ひて貞王と為す。廬江王は越に辺し、数々使ひをして相交はらしむ、故に徙して衡山王と為し、江北に王たらしむ。淮南王は故の如し。
-
史記 淮南衡山列伝以て臣安の罪を章かにし、天下をして明らかに臣子の道を知らしめ、敢て復た邪僻倍畔の意有らしむる毋からん」と。丞相弘・廷尉湯等以て聞す、天子宗正をして符節を以て王を治めしむ。未だ至らざるに、淮南王安自剄して殺す。王后荼・太子遷諸々の与に謀反せし者皆族せらる。天子伍被の雅辞多く漢の美を引くを以て、誅すること勿からんと欲す。廷尉湯曰く、「被は首として王の為に反謀を画す、被の罪赦す無し」と。遂に被を誅す。国除かれて九江郡と為る。衡山王賜、王后乗舒子三人を生む、長男爽を太子と為し、次男孝、次女無采。又姫徐来子男女四人を生み、美人厥姫子二人を生む。衡山王・淮南王の兄弟相礼節を責望し、間に相能くせず。衡山王淮南王の畔逆の反具を作為するを聞き、亦心に賓客に結びて以て之に応ぜんとす、并せらるるを恐るればなり。衡山王入朝す、其の謁者衛慶方術有り、上書して天子に事へんと欲す、王怒り、故に慶を死罪に劾し、彊ひて榜ちて之を服せしむ。衡山の内史以て是に非ずと為し、其の獄を卻く。王人をして上書して内史を告げしむ、内史治めらるるに、王の直からざるを言ふ。王又数々人の田を侵奪し、人の冢を壊ちて以て田と為す。有司衡山王を逮治せんことを請ふ。天子許さず、為に吏二百石以上を置く。衡山王此を以て恚り、奚慈・張広昌と謀り、能く兵法を為し星気を候ふ者を求め、日夜王に従容して密かに反事を謀る。王后乗舒死し、徐来を立てて王后と為す。厥姫倶に幸せらる。両人相妒み、厥姫乃ち王后徐来を太子に悪みて曰く、「徐来婢をして蠱道もて太子の母を殺さしむ」と。太子心に徐来を怨む。徐来の兄衡山に至る、太子与に飲み、刃を以て王后の兄を刺傷す。王后怨怒し、数々太子を王に毀悪す。
-
史記 淮南衡山列伝呂后諸呂を王とし、以て劉氏を危うくせんと欲す、辟陽侯争はず、罪の三なり。臣謹んで天下の為に賊臣辟陽侯を誅し、母の仇に報ゆ、謹んで闕下に伏して罪を請ふ」と。孝文其の志を傷み、親の為の故に、治めず、厲王を赦す。是の時に当たり、薄太后及び太子諸大臣皆厲王を憚る、厲王此を以て国に帰りて益々驕恣にして、漢の法を用ひず、出入に警蹕を称し、制と称し、自ら法令を為り、天子に擬す。六年、男子但等七十人をして棘蒲侯柴武の太子奇と謀り、輂車四十乗を以て谷口に反せしめ、人をして閩越・匈奴に使ひせしむ。事覚り、之を治め、使ひをして淮南王を召さしむ。淮南王長安に至る。「丞相臣張倉・典客臣馮敬・行御史大夫事宗正臣逸・廷尉臣賀・備盗賊中尉臣福昧死して言ふ。淮南王長先帝の法を廃し、天子の詔を聴かず、居処度無く、黄屋蓋の乗輿を為り、出入天子に擬し、擅に法令を為り、漢の法を用ひず。及び置く所の吏、其の郎中春を以て丞相と為し、漢の諸侯の人及び罪有りて亡ぐる者を聚収し、匿して与に居り、為に家室を治め、其の財物爵禄田宅を賜ひ、爵或いは関内侯に至り、奉ずるに二千石を以てす、当に得べからざる所なり、以て為す有らんと欲す。大夫但・士伍開章等七十人棘蒲侯の太子奇と謀反し、以て宗廟社稷を危うくせんと欲す。開章をして陰に長に告げしめ、与に謀りて閩越及び匈奴に使ひして其の兵を発せしめんとす。開章淮南に之きて長に見ゆ、長数々与に坐して語り飲食し、為に家室を為り婦を娶らしめ、二千石の俸を以て之を奉ず。開章人をして但に告げしむ、已に之を王に言ふと。春使ひをして但等に報ぜしむ。吏覚知し、長安の尉奇等をして往きて開章を捕へしむ。長匿して予へず、故の中尉蕑忌と謀り、殺して以て口を閉ざす。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る