史記 / 淮南衡山列伝
呂后王諸呂,欲以危劉氏,辟陽侯弗爭,罪三也。臣謹為天下誅賊臣辟陽侯,報母之仇,謹伏闕下請罪。」孝文傷其志,為親故,弗治,赦厲王。當是時,薄太后及太子諸大臣皆憚厲王,厲王以此歸國益驕恣,不用漢法,出入稱警蹕,稱制,自為法令,擬於天子。六年,令男子但等七十人與棘蒲侯柴武太子奇謀,以輂車四十乘反谷口,令人使閩越、匈奴。事覺,治之,使使召淮南王。淮南王至長安。「丞相臣張倉、典客臣馮敬、行御史大夫事宗正臣逸、廷尉臣賀、備盜賊中尉臣福昧死言:淮南王長廢先帝法,不聽天子詔,居處無度,為黃屋蓋乘輿,出入擬於天子,擅為法令,不用漢法。及所置吏,以其郎中春為丞相,聚收漢諸侯人及有罪亡者,匿與居,為治家室,賜其財物爵祿田宅,爵或至關內侯,奉以二千石,所不當得,欲以有為。大夫但、士五開章等七十人與棘蒲侯太子奇謀反,欲以危宗廟社稷。使開章陰告長,與謀使閩越及匈奴發其兵。開章之淮南見長,長數與坐語飲食,為家室娶婦,以二千石俸奉之。開章使人告但,已言之王。春使使報但等。吏覺知,使長安尉奇等往捕開章。長匿不予,與故中尉蕑忌謀,殺以閉口。
新字:呂后王諸呂,欲以危劉氏,辟陽侯弗争,罪三也。臣謹為天下誅賊臣辟陽侯,報母之仇,謹伏闕下請罪。」孝文傷其志,為親故,弗治,赦厲王。当是時,薄太后及太子諸大臣皆憚厲王,厲王以此帰国益驕恣,不用漢法,出入称警蹕,称制,自為法令,擬於天子。六年,令男子但等七十人与棘蒲侯柴武太子奇謀,以輂車四十乗反谷口,令人使閩越、匈奴。事覚,治之,使使召淮南王。淮南王至長安。「丞相臣張倉、典客臣馮敬、行御史大夫事宗正臣逸、廷尉臣賀、備盗賊中尉臣福昧死言:淮南王長廃先帝法,不聴天子詔,居処無度,為黄屋蓋乗輿,出入擬於天子,擅為法令,不用漢法。及所置吏,以其郎中春為丞相,聚収漢諸侯人及有罪亡者,匿与居,為治家室,賜其財物爵禄田宅,爵或至関内侯,奉以二千石,所不当得,欲以有為。大夫但、士五開章等七十人与棘蒲侯太子奇謀反,欲以危宗廟社稷。使開章陰告長,与謀使閩越及匈奴発其兵。開章之淮南見長,長数与坐語飲食,為家室娶婦,以二千石俸奉之。開章使人告但,已言之王。春使使報但等。吏覚知,使長安尉奇等往捕開章。長匿不予,与故中尉蕑忌謀,殺以閉口。
書き下し
呂后諸呂を王とし、以て劉氏を危うくせんと欲す、辟陽侯争はず、罪の三なり。臣謹んで天下の為に賊臣辟陽侯を誅し、母の仇に報ゆ、謹んで闕下に伏して罪を請ふ」と。孝文其の志を傷み、親の為の故に、治めず、厲王を赦す。是の時に当たり、薄太后及び太子諸大臣皆厲王を憚る、厲王此を以て国に帰りて益々驕恣にして、漢の法を用ひず、出入に警蹕を称し、制と称し、自ら法令を為り、天子に擬す。六年、男子但等七十人をして棘蒲侯柴武の太子奇と謀り、輂車四十乗を以て谷口に反せしめ、人をして閩越・匈奴に使ひせしむ。事覚り、之を治め、使ひをして淮南王を召さしむ。淮南王長安に至る。「丞相臣張倉・典客臣馮敬・行御史大夫事宗正臣逸・廷尉臣賀・備盗賊中尉臣福昧死して言ふ。淮南王長先帝の法を廃し、天子の詔を聴かず、居処度無く、黄屋蓋の乗輿を為り、出入天子に擬し、擅に法令を為り、漢の法を用ひず。及び置く所の吏、其の郎中春を以て丞相と為し、漢の諸侯の人及び罪有りて亡ぐる者を聚収し、匿して与に居り、為に家室を治め、其の財物爵禄田宅を賜ひ、爵或いは関内侯に至り、奉ずるに二千石を以てす、当に得べからざる所なり、以て為す有らんと欲す。大夫但・士伍開章等七十人棘蒲侯の太子奇と謀反し、以て宗廟社稷を危うくせんと欲す。開章をして陰に長に告げしめ、与に謀りて閩越及び匈奴に使ひして其の兵を発せしめんとす。開章淮南に之きて長に見ゆ、長数々与に坐して語り飲食し、為に家室を為り婦を娶らしめ、二千石の俸を以て之を奉ず。開章人をして但に告げしむ、已に之を王に言ふと。春使ひをして但等に報ぜしむ。吏覚知し、長安の尉奇等をして往きて開章を捕へしむ。長匿して予へず、故の中尉蕑忌と謀り、殺して以て口を閉ざす。
現代語訳
呂后が呂氏一族を王に立て、劉氏を危うくしようとしたとき、辟陽侯は争わなかった。これが罪の三つ目だ。わたしは謹んで天下のために賊臣辟陽侯を誅し、母の仇を討った。謹んで宮門の下に伏して処罰を請う」。孝文帝はその心情を哀れみ、また肉親であるため罪を問わず、厲王を許した。このころ薄太后や太子、諸大臣はみな厲王を恐れはばかっていた。厲王はそれで国に帰るとますます驕りほしいままに振る舞い、漢の法を用いず、出入りのときには天子と同じく先払いの声をかけさせ、自分の命令を「制」と称し、勝手に法令を作って天子になぞらえた。文帝六年、男子の但ら七十人に命じて、棘蒲侯柴武の太子奇と謀らせ、輂車(荷車)四十台で谷口で反乱を起こさせ、また人を閩越と匈奴に遣わした。事が発覚し、これを取り調べ、使者を送って淮南王を召し出した。淮南王は長安に着いた。(群臣の上奏)「丞相の臣張倉(張蒼)、典客の臣馮敬、行御史大夫事・宗正の臣逸、廷尉の臣賀、備盗賊中尉の臣福が、死を覚悟して申し上げる。淮南王劉長は先帝の法を廃し、天子の詔を聞かず、暮らしぶりに節度がなく、黄色の屋根の天子の車を作り、出入りを天子になぞらえ、勝手に法令を作って漢の法を用いない。また置いた役人について、郎中の春を丞相とし、漢の諸侯の民や罪を犯して逃亡した者を集めてかくまい、一緒に住まわせ、家を整えてやり、財物・爵位・俸禄・田宅を与え、爵位は関内侯に至る者もあり、二千石の俸禄を与えている。これは彼らの得るべきものではなく、何事かを企てようとしているのである。大夫の但、無位の士の開章ら七十人は棘蒲侯の太子奇と謀反し、宗廟と社稷を危うくしようとした。開章をひそかに劉長に知らせにやり、共に謀って閩越と匈奴に使いを送り、その兵を起こさせようとした。開章は淮南に行って劉長に会い、劉長はたびたび彼と座って語り飲食し、家を構えさせ妻を娶らせ、二千石の俸禄を与えた。開章は人をやって但に、すでに王に話したと告げさせた。春も使いをやって但らに知らせた。役人が気づき、長安の尉の奇らを遣わして開章を捕らえに行かせた。劉長はかくまって引き渡さず、もとの中尉の蕑忌と謀り、開章を殺して口を封じた。
解説
関連する章句
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史記 淮南衡山列伝為に棺槨衣衾を為り、之を肥陵邑に葬り、吏を謾きて曰く『安くに在るかを知らず』と。又詳りて土を聚め、表を其の上に樹てて、曰く『開章死し、此の下に埋む』と。及び長身自ら無罪の者一人を賊殺す。吏をして無罪の者六人を論殺せしむ。亡命の棄市の罪の為に詐りて命ずる者を捕へて以て罪を除く。擅に人を罪し、罪人告劾無く、繋ぎて城旦舂以上に治むる者十四人。罪人を赦免す、死罪十八人、城旦舂以下五十八人。人に爵関内侯以下を賜ふこと九十四人。前日長病む、陛下之を憂苦し、使者をして書・棗脯を賜はしむ。長賜を受くるを欲せず、使者に見えて拝するを肯ぜず。南海の民の廬江の界中に処る者反す、淮南の吏卒之を撃つ。陛下淮南の民の貧苦するを以て、使者を遣はして長に帛五千匹を賜ひ、以て吏卒の労苦する者に賜はしむ。長賜を受くるを欲せず、謾きて言ひて曰く『労苦する者無し』と。南海の民王織上書して璧を皇帝に献ず、忌擅に其の書を燔き、以て聞せず。吏忌を召して治めんことを請ふ、長遣はさず、謾きて言ひて曰く『忌病む』と。春又長に請ひ、入りて見えんことを願ふ、長怒りて曰く『女我を離れて自ら漢に附かんと欲す』と。長は当に棄市すべし、臣請ふ論ずること法の如くせん」と。制して曰く、「朕王に法を致すに忍びず、其れ列侯二千石と議せよ」と。「臣倉・臣敬・臣逸・臣福・臣賀昧死して言ふ。臣謹んで列侯吏二千石臣嬰等四十三人と議す、皆曰く『長法度を奉ぜず、天子の詔を聴かず、乃ち陰に徒党及び謀反する者を聚め、厚く亡命を養ひ、以て為す有らんと欲す』と。臣等議して論ずること法の如くせん」と。制して曰く、「朕王に法を致すに忍びず、其れ長の死罪を赦し、廃して王とする勿かれ」と。「臣倉等昧死して言ふ。長大死罪有り、陛下法を致すに忍びず、幸ひに赦し、廃して王とする勿からしむ。
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史記 孝文本紀乃ち有司に詔して曰く、「済北王徳に背き上に反し、吏民を詿誤(くわいご)す、大逆為り。済北の吏民の兵未だ至らざるに先づ自ら定め、及び軍地邑を以て降る者は、皆之を赦し、官爵を復せよ。王興居と去来せしも、亦之を赦せ。」と。八月、済北の軍を破り、其の王を虜にす。済北の諸吏民の王と反せし者を赦す。六年、有司言ふ淮南王長先帝の法を廃し、天子の詔を聴かず、居処度毋く、出入天子に擬し、擅に法令を為り、棘蒲侯の太子奇と謀反し、人を遣はして閩越及び匈奴に使ひせしめ、其の兵を発し、以て宗廟社稷を危ふくせんと欲すと。群臣議す、皆曰く「長は当に棄市すべし」と。帝法を王に致すに忍びず、其の罪を赦し、廃して王とする勿し。群臣王を蜀の厳道・邛都に処らしめんことを請ふ、帝之を許す。長未だ処所に到らず、行くゆく病みて死す、上之を憐れむ。後十六年、淮南王長を追尊して謚して厲王と為し、其の子三人を立てて淮南王・衡山王・廬江王と為す。
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史記 淮南衡山列伝淮南厲王長は、高祖の少子なり、其の母は故の趙王張敖の美人なり。高祖の八年、東垣より趙を過ぐ、趙王之に美人を献ず。厲王の母幸を得、身有り。趙王敖敢て宮に内れず、為に外宮を築きて之を舎く。貫高等の柏人に謀反するの事発覚するに及び、并せて王を逮へて治め、尽く王の母兄弟美人を収捕し、之を河内に繋ぐ。厲王の母も亦繋がる、吏に告げて曰く、「上に幸を得て、身有り」と。吏以て上に聞す、上方に趙王を怒り、未だ厲王の母を理めず。厲王の母の弟趙兼辟陽侯に因りて呂后に言ふ、呂后妒みて、白すを肯ぜず、辟陽侯彊ひて争はず。厲王の母已に厲王を生むに及び、恚りて、即ち自殺す。吏厲王を奉じて上に詣る、上悔い、呂后をして之を母とせしめ、而して厲王の母を真定に葬る。真定は、厲王の母の家焉に在り、父の世県なり。高祖の十一年七月、淮南王黥布反す、子長を立てて淮南王と為し、黥布の故地に王たらしむ、凡そ四郡。上自ら兵を将ゐて布を撃滅し、厲王遂に位に即く。厲王蚤く母を失ひ、常に呂后に附く、孝恵・呂后の時故を以て幸を得て患害無し、而して常に心に辟陽侯を怨むも、敢て発せず。孝文帝初めて位に即くに及び、淮南王自ら以為へらく最も親しと、驕蹇にして、数々法を奉ぜず。上親の故を以て、常に寛く之を赦す。三年、入朝す。甚だ横なり。上に従ひて苑囿に入りて猟し、上と車を同じくし、常に上を「大兄」と謂ふ。厲王材力有り、力は能く鼎を扛ぐ、乃ち往きて辟陽侯に請ふ。辟陽侯出でて之に見ゆ、即ち自ら袖にせる鉄椎もて辟陽侯を椎ち、従者魏敬をして之を剄らしむ。厲王乃ち馳せて闕下に走り、肉袒して謝して曰く、「臣の母は当に趙の事に坐すべからず、其の時辟陽侯の力能く之を呂后に得るも、争はず、罪の一なり。趙王如意の子母罪無し、呂后之を殺す、辟陽侯争はず、罪の二なり。
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史記 淮南衡山列伝是の時上公卿の請ひを許さず、而して漢の中尉宏を遣はして即に王を訊験せしむ。王漢の使ひの来たるを聞き、即ち太子の謀計の如くす。漢の中尉至る、王其の顔色の和らかなるを視る、王を訊ふに雷被を斥くるの事を以てするのみ、王自ら度るに何も無しと、発せず。中尉還り、以て聞す。公卿の治むる者曰く、「淮南王安匈奴を奮撃せんとする者雷被等を擁閼し、明詔を廃格す、当に棄市すべし」と。詔して許さず。公卿廃して王とする勿からんことを請ふ、詔して許さず。公卿五県を削らんことを請ふ、詔して二県を削る。中尉宏をして淮南王の罪を赦し、罰するに削地を以てせしむ。中尉淮南の界に入り、宣言して王を赦す。王初め漢の公卿之を誅せんことを請ふと聞き、未だ地を削らるるを得るを知らず、漢の使ひの来たるを聞き、其の之を捕へんことを恐れ、乃ち太子と謀りて之を刺さんとすること前計の如し。中尉至るに及び、即ち王を賀す、王故を以て発せず。其の後自ら傷みて曰く、「吾仁義を行ひて削らる、甚だ之を恥づ」と。然れども淮南王地を削られし後、其の反謀を為すこと益々甚し。諸々の使ひ道より長安より来たり、妄りに妖言を為し、上に男無く、漢治まらずと言へば、即ち喜ぶ。即し漢廷治まり、男有りと言へば、王怒り、以為へらく妄言なり、非なりと。王日夜伍被・左呉等と輿地図を案じ、兵の従りて入る所を部署す。王曰く、「上に太子無し、宮車即し晏駕せば、廷臣必ず膠東王を徴し、即かずんば常山王、諸侯并び争はん、吾以て備へ無かるべけんや。且つ吾は高祖の孫、親ら仁義を行ふ、陛下我を遇すること厚し、吾能く之を忍ぶ。万世の後、吾寧んぞ能く北面して豎子に臣事せんや」と。
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史記 淮南衡山列伝淮南王に女陵有り、慧にして、口弁有り。王陵を愛し、常に多く金銭を予へ、為に長安に中詗し、上の左右に約結せしむ。上淮南王に几杖を賜ひ、朝せざらしむ。淮南王の王后荼、王之を愛幸す。王后太子遷を生む、遷王皇太后の外孫修成君の女を取りて妃と為す。王謀りて反具を為る、太子妃の知りて内より事を泄らさんことを畏れ、乃ち太子と謀り、詐りて愛せず、三月席を同じくせざらしむ。王乃ち詳りて太子を怒ると為し、太子を閉ぢて妃と内を同じくせしむること三月、太子終に妃に近づかず。妃去らんことを求む、王乃ち上書して謝して帰して之を去らしむ。王后荼・太子遷及び女陵王に愛幸せらるるを得て、国権を擅にし、民の田宅を侵奪し、妄りに人を繋ぐを致す。太子剣を用ふるを学び、自ら以為へらく人及ぶ莫しと、郎中雷被巧みなりと聞き、乃ち召して与に戯る。被一再辞譲するも、誤りて太子に中つ。太子怒り、被恐る。此の時軍に従はんと欲する者有らば輒ち京師に詣る、被即ち匈奴を奮撃せんことを願ふ。太子遷数々被を王に悪む、王郎中令をして斥け免ぜしめ、以て後を禁ぜんと欲す、被遂に亡げて長安に至り、上書して自ら明らかにす。詔して其の事を廷尉・河南に下す。河南治め、淮南の太子を逮へんとす、王・王后計りて太子を遣はす無からんと欲し、遂に兵を発して反せんとするも、計猶予し、十余日定まらず。会々詔有り、即に太子を訊ふ。是の時に当たり、淮南の相寿春の丞の太子の逮を留めて遣はさざるを怒り、不敬を劾す。王以て相に請ふ、相聴かず。王人をして上書して相を告げしむ、事廷尉に下して治む。蹤跡王に連なる、王人をして漢の公卿を候伺せしむ、公卿淮南王を逮捕して治めんことを請ふ。王事の発せんことを恐る、太子遷謀りて曰く、「漢の使ひ即し王を逮へば、王人をして衛士の衣を衣て、戟を持して庭中に居らしめ、王の旁に是に非ざる有らば、則ち之を刺殺せよ、臣も亦人をして淮南の中尉を刺殺せしめ、乃ち兵を挙ぐるも、未だ晩からず」と。
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史記 淮南衡山列伝中尉曰く、「臣詔を受けて使ひす、王に見ゆるを得ず」と。王念ふに独り相を殺して内史・中尉来たらずんば、益無しと、即ち相を罷む。王猶予し、計未だ決せず。太子念ふに坐する所の者は漢の中尉を刺さんと謀るなり、与に謀る所の者已に死す、以て口絶えたりと為し、乃ち王に謂ひて曰く、「群臣の用ふべき者は皆前に繋がる、今与に事を挙ぐるに足る者無し。王時に非ざるを以て発せば、恐らくは功無からん、臣願はくは逮に会はん」と。王も亦偸かに休まんと欲し、即ち太子に許す。太子即ち自剄するも、殊せず。伍被自ら吏に詣り、因りて淮南王と謀反するを告ぐ、反の蹤跡具に此くの如し。吏因りて太子・王后を捕へ、王宮を囲み、尽く王の与に謀反せし賓客の国中に在る者を求め捕へ、反具を索め得て以て聞す。上公卿に下して治めしむ、連引する所の淮南王と謀反せし列侯二千石豪傑数千人、皆罪の軽重を以て誅を受く。衡山王賜は、淮南王の弟なり、当に坐して収めらるべし、有司衡山王を逮捕せんことを請ふ。天子曰く、「諸侯は各々其の国を以て本と為す、当に相坐すべからず。諸侯王・列侯と会して丞相・諸侯に肄して議せしめよ」と。趙王彭祖・列侯臣譲等四十三人議して、皆曰く、「淮南王安甚だ大逆無道、謀反明白なり、当に誅に伏すべし」と。膠西王臣端議して曰く、「淮南王安法を廃し邪を行ひ、詐偽の心を懐き、以て天下を乱し、百姓を熒惑し、宗廟に倍畔し、妄りに妖言を作す。春秋に曰く『臣は将する無し、将すれば誅す』と。安の罪は将より重く、謀反の形已に定まる。臣端の見る所の其の書・節・印・図及び他の逆無道の事の験明白なり、甚だ大逆無道なり、当に其の法に伏すべし。而して国の吏二百石以上及び比する者、宗室近幸の臣の法中に在らざる者を論ずるに、相教ふること能はず、当に皆官を免じ爵を削りて士伍と為し、宦して吏と為るを得る毋かるべし。其の吏に非ざるものは、他は死を贖ふに金二斤八両とせん。
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