史記 / 司馬相如列伝
除邊關,關益斥,西至沬、若水,南至牂柯為徼,通零關道,橋孫水以通邛都。還報天子,天子大說。相如使時,蜀長老多言通西南夷不為用,唯大臣亦以為然。相如欲諫,業已建之,不敢,乃著書,籍以蜀父老為辭,而己詰難之,以風天子,且因宣其使指,令百姓知天子之意。其辭曰:其後人有上書言相如使時受金,失官。居歲餘,複召為郎。相如口吃而善著書。常有消渴疾。與卓氏婚,饒於財。其進仕宦,未嘗肯與公卿國家之事,稱病間居,不慕官爵。常從上至長楊獵,是時天子方好自擊熊彘,馳逐野獸,相如上疏諫之。其辭曰:上善之。還過宜春宮,相如奏賦以哀二世行失也。其辭曰:登陂阤之長阪兮,坌入曾宮之嵳峩。臨曲江之隑州兮,望南山之參差。巖巖深山之谾谾兮,通谷兮谽。汩淢噏習以永逝兮,注平臯之廣衍。觀衆樹之塕薆兮,覽竹林之榛榛。東馳土山兮,北揭石瀨。彌節容與兮,曆吊二世。持身不謹兮,亡國失埶。信讒不寤兮,宗廟滅絕。嗚呼哀哉!操行之不得兮,墳墓蕪穢而不脩兮,魂無歸而不食。夐邈絕而不齊兮,彌久遠而愈鬐。精罔閬而飛揚兮,拾九天而永逝。嗚呼哀哉!相如拜為孝文園令。
新字:除辺関,関益斥,西至沬、若水,南至牂柯為徼,通零関道,橋孫水以通邛都。還報天子,天子大説。相如使時,蜀長老多言通西南夷不為用,唯大臣亦以為然。相如欲諫,業已建之,不敢,乃著書,籍以蜀父老為辞,而己詰難之,以風天子,且因宣其使指,令百姓知天子之意。其辞曰:其後人有上書言相如使時受金,失官。居歳余,複召為郎。相如口吃而善著書。常有消渇疾。与卓氏婚,饒於財。其進仕宦,未嘗肯与公卿国家之事,称病間居,不慕官爵。常従上至長楊猟,是時天子方好自撃熊彘,馳逐野獣,相如上疏諫之。其辞曰:上善之。還過宜春宮,相如奏賦以哀二世行失也。其辞曰:登陂阤之長阪兮,坌入曽宮之嵳峩。臨曲江之隑州兮,望南山之参差。巖巖深山之谾谾兮,通谷兮谽。汩淢噏習以永逝兮,注平皋之広衍。観衆樹之塕薆兮,覧竹林之榛榛。東馳土山兮,北掲石瀨。弥節容与兮,暦吊二世。持身不謹兮,亡国失埶。信讒不寤兮,宗廟滅絶。嗚呼哀哉!操行之不得兮,墳墓蕪穢而不脩兮,魂無帰而不食。夐邈絶而不斉兮,弥久遠而愈鬐。精罔閬而飛揚兮,拾九天而永逝。嗚呼哀哉!相如拝為孝文園令。
書き下し
辺関を除き、関益々斥き、西は沬・若水に至り、南は牂柯に至りて徼と為し、零関の道を通じ、孫水に橋して以て邛都に通ず。還りて天子に報ず、天子大いに説ぶ。相如の使ひせし時、蜀の長老多く西南夷を通ずるは用を為さずと言ふ、唯だ大臣も亦以て然りと為す。相如諫めんと欲するも、業已に之を建つ、敢てせず、乃ち書を著し、籍りて蜀の父老を以て辞と為し、而して己之を詰難し、以て天子を風し、且つ因りて其の使ひの指を宣べ、百姓をして天子の意を知らしむ。其の辞に曰く。其の後人上書して相如の使ひせし時金を受くと言ふ有り、官を失ふ。居ること歳余、複た召されて郎と為る。相如口吃にして善く書を著す。常に消渇の疾有り。卓氏と婚し、財に饒かなり。其の進みて仕宦するや、未だ嘗て公卿国家の事に与るを肯ぜず、病と称して間居し、官爵を慕はず。常て上に従ひて長楊に至りて猟す、是の時天子方に自ら熊彘を撃ち、野獣を馳逐するを好む、相如上疏して之を諫む。其の辞に曰く。上之を善しとす。還りて宜春宮を過ぐ、相如賦を奏して以て二世の行ひの失を哀しむ。其の辞に曰く、陂阤の長阪に登り、曾宮の嵳峩たるに坌入す。曲江の隑州に臨み、南山の参差たるを望む。巌巌たる深山の谾谾たる、通谷は谽たり。汩淢噏習して以て永く逝き、平皐の広衍に注ぐ。衆樹の塕薆たるを観、竹林の榛榛たるを覧る。東のかた土山に馳せ、北のかた石瀬を掲ぐ。節を弥めて容与し、二世を歴吊す。身を持すること謹まず、国を亡ぼし埶を失ふ。讒を信じて寤めず、宗廟滅絶す。嗚呼哀しいかな。操行の得ざる、墳墓蕪穢して脩められず、魂帰する無くして食まず。夐邈絶して斉しからず、弥々久遠にして愈々鬐し。精罔閬として飛揚し、九天に拾りて永く逝く。嗚呼哀しいかな。相如拝して孝文園令と為る。
現代語訳
(相如は)辺境の関所を撤廃し、関所をさらに外へ押し広げて、西は沬水・若水まで、南は牂柯までを国境とし、零関の道を開通させ、孫水に橋を架けて邛都に通じた。帰って天子に報告すると、天子は大いに喜んだ。相如が使者となったころ、蜀の長老たちの多くは、西南夷に道を通じても役に立たないと言い、大臣たちもそう考えていた。相如は諫めたいと思ったが、この事業は自分が提案したものだったので、あえて諫めず、そこで文章を著し、蜀の長老の言葉を借りて論を立て、自分がそれを論駁するという形で天子をそれとなく諫め、あわせて使命の趣旨を述べて、民に天子の意図を知らせた。その辞は次のとおりである。その後、相如が使者であったときに賄賂を受け取ったと上書する者があり、相如は官を失った。一年余りして、また召されて郎となった。相如は吃音であったが、文章を著すのが巧みであった。いつも消渇(糖尿病のような病)を患っていた。卓氏と縁組みしたので財産は豊かであった。仕官してからも、公卿や国家の政務に関わろうとはせず、病と称して閑居し、官位や爵位を求めなかった。かつて主上に従って長楊宮に行き狩猟をしたとき、天子はちょうど自ら熊や猪を撃ち、野獣を馬で追い回すことを好んでいたので、相如は上奏してこれを諫めた。その辞は次のとおりである。主上はこれをよしとした。帰りに宜春宮に立ち寄ると、相如は賦を奉って、秦の二世皇帝の行いの過ちを悲しんだ。その辞にいう。傾いた長い坂を登り、幾重にも高くそびえる宮殿に入る。曲江の曲がりくねった岸辺に臨み、高く低く連なる南山を望む。険しく深い山は奥深く、谷は大きく口を開けて通じている。水は勢いよく流れて集まり、とこしえに去っては、平らな沢の広がりに注ぐ。木々の茂り合うさまを見、竹林の生い茂るさまを眺める。東の土の山へ馬を馳せ、北の石の早瀬を裾をからげて渡る。車の歩みを緩めてゆったりと進み、二世皇帝の跡を弔う。身を慎まず、国を亡ぼし権勢を失った。讒言を信じて目覚めず、宗廟は滅び絶えた。ああ悲しいかな。行いがよくなかったため、墓は荒れて草に埋もれ手入れもされず、魂は帰るところなく供え物も受けない。はるかに遠く絶えて並ぶものもなく、時がたつほどいよいよ暗くかすんでゆく。魂はさまよって飛び上がり、九天を渡ってとこしえに去ってしまった。ああ悲しいかな。相如は孝文園令(文帝の陵墓の長官)に任じられた。
解説
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史記 司馬相如列伝之を天子に奏す、天子大いに説ぶ。其の辞に曰く。賦奏せられ、天子以て郎と為す。無是公天子の上林の広大、山谷水泉万物を言ひ、及び子虚楚の雲夢の有する所甚だ衆きを言ふ、侈靡其の実に過ぎ、且つ義理の尚ぶ所に非ず、故に其の要を刪り取り、正道に帰して之を論ず。相如郎為ること数歳、会々唐蒙使ひして夜郎・西僰中を略通し、巴蜀の吏卒千人を発し、郡又多く為に転漕万余人を発し、興法を用ひて其の渠帥を誅す、巴蜀の民大いに驚恐す。上之を聞き、乃ち相如をして唐蒙を責めしめ、因りて巴蜀の民に喩告するに上の意に非ざるを以てす。檄に曰く。相如還りて報ず。唐蒙已に夜郎を略通し、因りて西南夷の道を通ぜんとし、巴・蜀・広漢の卒を発し、作る者数万人。道を治むること二歳、道成らず、士卒多く物故し、費は巨万を以て計ふ。蜀の民及び漢の事を用ふる者多く其の便ならざるを言ふ。是の時邛筰の君長南夷の漢と通じ、賞賜を得ること多きを聞き、多く内臣妾と為り、吏を請ひ、南夷に比せんことを願はんと欲す。天子相如に問ふ、相如曰く、「邛・筰・厓・駹は蜀に近く、道も亦通じ易し、秦の時嘗て通じて郡県と為し、漢興るに至りて罷む。今誠に複た通じ、為に郡県を置かば、南夷に愈らん」と。天子以て然りと為し、乃ち相如を拝して中郎将と為し、節を建てて往きて使ひせしむ。副使王然于・壺充国・呂越人四乗の伝を馳せ、巴蜀の吏の幣物に因りて以て西夷に賂ふ。蜀に至る、蜀の太守以下郊迎し、県令弩矢を負ひて先駆す、蜀人以て寵と為す。是に於て卓王孫・臨邛の諸公皆門下に因りて牛酒を献じて以て驩を交ふ。卓王孫喟然として歎じ、自ら以へらく女をして司馬長卿に尚せしむるを得ること晩しと、而して厚く其の女に財を分与し、男と等同にす。司馬長卿便ち西夷を略定し、邛・筰・厓・駹・斯楡の君皆内臣と為らんことを請ふ。
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史記 司馬相如列伝既に罷みて、相如乃ち人をして重く文君の侍者に賜ひて殷勤を通ぜしむ。文君夜亡げて相如に奔る、相如乃ち与に馳せて成都に帰る。家居徒だ四壁立つのみ。卓王孫大いに怒りて曰く、「女至って不材なり、我殺すに忍びざるも、一銭をも分かたざるなり」と。人或いは王孫に謂ふも、王孫終に聴かず。文君之を久しくして楽しまず、曰く、「長卿第だ倶に臨邛に如き、昆弟より仮貸すれば猶ほ以て生を為すに足る、何ぞ自ら苦しむこと此くの如きに至らん」と。相如与に倶に臨邛に之き、尽く其の車騎を売り、一酒舎を買ひて酒を酤り、而して文君をして鑪に当たらしむ。相如身自ら犢鼻褌を著け、保庸と雑作し、器を市中に滌ふ。卓王孫聞きて之を恥ぢ、為に門を杜ぢて出でず。昆弟諸公更々王孫に謂ひて曰く、「一男両女有り、足らざる所の者は財に非ざるなり。今文君已に身を司馬長卿に失ふ、長卿故より遊に倦む、貧しと雖も、其の人材依るに足る、且つ又令の客なり、独り奈何ぞ相辱むること此くの如き」と。卓王孫已むを得ず、文君に僮百人、銭百万、及び其の嫁する時の衣被財物を分かち予ふ。文君乃ち相如と成都に帰り、田宅を買ひ、富人と為る。居ること之を久しくして、蜀人楊得意狗監と為り、上に侍す。上子虚の賦を読みて之を善しとし、曰く、「朕独り此の人と時を同じくするを得ざるかな」と。得意曰く、「臣の邑人司馬相如自ら此の賦を為ると言ふ」と。上驚き、乃ち召して相如に問ふ。相如曰く、「是れ有り。然れども此れ乃ち諸侯の事なり、未だ観るに足らざるなり。請ふ天子の游猟の賦を為らん、賦成らば之を奏せん」と。上許し、尚書をして筆札を給せしむ。相如「子虚」は、虚言なりとして、楚の称と為し、「烏有先生」は、烏くんぞ此の事有らんやとして、斉の難と為し、「無是公」は、是の人無きなりとして、天子の義を明らかにす。故に空しく此の三人を藉りて辞を為し、以て天子諸侯の苑囿を推す。其の卒章は之を節倹に帰し、因りて以て風諫す。
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