史記 / 南越列伝
樓船力攻燒敵,反驅而入伏波營中。犁旦,城中皆降伏波。呂嘉、建德已夜與其屬數百人亡入海,以船西去。伏波又因問所得降者貴人,以知呂嘉所之,遣人追之。以其故校尉司馬蘇弘得建德,封為海常侯;越郎都稽得嘉,封為臨蔡侯。蒼梧王趙光者,越王同姓,聞漢兵至,及越揭陽令定自定屬漢;越桂林監居翁諭甌駱屬漢:皆得為侯。戈船、下厲將軍兵及馳義侯所發夜郎兵未下,南越已平矣。遂為九郡。伏波將軍益封。樓船將軍兵以陷堅為將梁侯。自尉佗初王後,五世九十三歲而國亡焉。
新字:楼船力攻焼敵,反駆而入伏波営中。犁旦,城中皆降伏波。呂嘉、建徳已夜与其属数百人亡入海,以船西去。伏波又因問所得降者貴人,以知呂嘉所之,遣人追之。以其故校尉司馬蘇弘得建徳,封為海常侯;越郎都稽得嘉,封為臨蔡侯。蒼梧王趙光者,越王同姓,聞漢兵至,及越掲陽令定自定属漢;越桂林監居翁諭甌駱属漢:皆得為侯。戈船、下厲将軍兵及馳義侯所発夜郎兵未下,南越已平矣。遂為九郡。伏波将軍益封。楼船将軍兵以陥堅為将梁侯。自尉佗初王後,五世九十三歳而国亡焉。
書き下し
楼船力攻して敵を焼き、反りて駆りて伏波の営中に入らしむ。犁旦、城中皆伏波に降る。呂嘉・建徳已に夜其の属数百人と亡げて海に入り、船を以て西に去る。伏波又因りて得る所の降者の貴人に問ひ、以て呂嘉の之く所を知り、人を遣はして之を追はしむ。其の故の校尉司馬蘇弘建徳を得るを以て、封じて海常侯と為す。越の郎都稽嘉を得、封じて臨蔡侯と為す。蒼梧王趙光は、越王と同姓なり、漢兵の至るを聞き、及び越の掲陽の令定自ら定めて漢に属す。越の桂林監居翁甌駱を諭して漢に属せしむ。皆侯と為るを得たり。戈船・下厲将軍の兵及び馳義侯の発する所の夜郎の兵未だ下らざるに、南越已に平らぐ。遂に九郡と為す。伏波将軍封を益す。楼船将軍の兵堅きを陥るるを以て将梁侯と為る。尉佗初めて王たりし後より、五世九十三歳にして国亡ぶ。
現代語訳
楼船将軍が力攻めで敵を焼くと、敵はかえって逃げまどって伏波将軍の陣営に駆け込んだ。夜明けになると、城中の者はみな伏波将軍に降伏した。呂嘉と建徳はすでに夜のうちに配下数百人と海へ逃れ、船で西へ去っていた。伏波将軍はさらに、降伏した者のうち身分の高い者に問いただして呂嘉の行き先を知り、人を遣わして追わせた。もとの校尉で司馬の蘇弘が建徳を捕らえたので、海常侯に封じた。越の郎の都稽が呂嘉を捕らえたので、臨蔡侯に封じた。蒼梧王の趙光は越王と同姓であったが、漢兵が来たと聞くと、越の掲陽県令の定とともに、自ら決断して漢に帰属した。越の桂林監の居翁は甌駱(おうらく)を諭して漢に帰属させた。これらの者はみな侯となった。戈船・下厲将軍の兵や馳義侯が徴発した夜郎の兵がまだ到着しないうちに、南越はすでに平定された。こうしてその地を九つの郡とした。伏波将軍は領地を加増された。楼船将軍の兵は堅城を陥れた功によって将梁侯となった。尉佗が初めて王となってから、五代九十三年で国は滅んだ。
解説
関連する章句
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史記 南越列伝人をして蒼梧の秦王及び其の諸郡県に告げしめ、明王の長男越の妻の子術陽侯建徳を立てて王と為す。而して韓千秋の兵入り、数小邑を破る。其の後越直ちに道を開き食を給す、未だ番禺に至らざること四十里、越兵を以て千秋等を撃ち、遂に之を滅ぼす。人をして漢の使者の節を函封して塞上に置かしめ、好んで謾辞を為して罪を謝し、兵を発して要害の処を守る。是に於て天子曰く、「韓千秋成功無しと雖も、亦軍鋒の冠なり」と。其の子延年を封じて成安侯と為す。樛楽は、其の姊王太后為り、首として漢に属せんことを願ふ、其の子広徳を封じて龍亢侯と為す。乃ち赦を下して曰く、「天子微にして、諸侯力政す、臣の賊を討たざるを譏る。今呂嘉・建徳等反し、自立して晏如たり、罪人及び江淮以南の楼船十万の師をして往きて之を討たしめよ」と。元鼎五年秋、衛尉路博徳伏波将軍と為り、桂陽に出で、匯水を下る。主爵都尉楊僕楼船将軍と為り、豫章に出で、横浦を下る。故の帰義越侯二人戈船・下厲将軍と為り、零陵に出で、或いは離水を下り、或いは蒼梧に柢る。馳義侯をして巴蜀の罪人に因り、夜郎の兵を発し、牂柯江を下らしむ。咸番禺に会す。元鼎六年冬、楼船将軍精卒を将ゐて先づ尋陝を陥れ、石門を破り、越の船粟を得、因りて推して前み、越の鋒を挫き、数万人を以て伏波を待つ。伏波将軍罪人を将ゐ、道遠く、期に後るるに会ひ、楼船と会するに乃ち千余人有るのみ、遂に倶に進む。楼船前に居り、番禺に至る。建徳・嘉皆城守す。楼船自ら便処を択びて、東南面に居る。伏波は西北面に居る。暮に会ひ、楼船越人を攻め敗り、火を縦ちて城を焼く。越素より伏波の名を聞く、日暮れ、其の兵の多少を知らず。伏波乃ち営を為り、使者を遣はして降る者を招き、印を賜ひ、復た縦ちて相招かしむ。
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史記 南越列伝太史公曰く、尉佗の王たるは、本任囂に由る。漢の初定に遭ひ、列して諸侯と為る。隆慮溼疫に離り、佗得て以て益ます驕る。甌駱相攻め、南越動揺す。漢兵境に臨み、嬰齊入朝す。其の後国を亡ふは、徵は樛女より自る。呂嘉小忠、佗をして後無からしむ。楼船欲を従にし、怠傲失惑す。伏波困窮して、智慮愈いよ殖え、禍に因りて福と為す。成敗の転、譬へば糾墨のごとし」と。
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『長短経』覇図尉佗、南越に王として反す。高祖、陸賈をして尉佗に印綬を賜い、南越王と為し、臣と称して漢の約を奉ぜしむ。〈陸生、南越に至る。尉佗、魋髻箕踞して陸生に見ゆ。陸生因りて説を進めて曰く「足下は中国の人なり。親戚・昆弟・墳墓、真定に在り。今、足下、天性に反し、冠帯を棄て、区区たる越を以て天子と抗衡して敵国たらんと欲す。禍い且に身に及ばんとす。且つ夫れ秦、其の政を失い、諸侯豪傑並び起こる。唯だ漢王のみ先ず関に入り、咸陽に拠る。項王、約に背き、自立して西楚の覇王と為り、諸侯皆な属す。至強と謂う可し。然れども漢王、巴蜀に起こり、天下を鞭笞し、諸侯を制し、遂に項羽を誅して之を滅ぼす。五年の間に、海内平定す。此れ人力に非ず、天の建つる所なり。天子、君王の南越に王たるを聞くも、天下を助けて暴逆を誅せず。将に兵を移して王を誅せんと欲す。天子、百姓の新たに労苦せるを憐れみ、且く之を休ましめ、臣を遣わして君王に印綬を授け、符を剖きて使いを通ず。君王、宜しく郊迎して、北面して臣と称すべし。乃ち新たに造りて未だ集まらざるの越を以て、此に屈強せんと欲す。漢、誠に之を聞かば、王の先人の塚を掘り、王の宗族を夷滅し、一偏将をして十万の衆を将いて以て越に臨ましめば、則ち越は王を殺して降ること、手を反覆するが如きのみ」と。是に於て尉佗、蹶然として起ち、陸生に謝す。卒に尉佗を拝して還る。
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史記 南越列伝南越王尉佗は、真定の人なり、姓は趙氏。秦の時已に天下を并せ、楊越を略定し、桂林・南海・象郡を置き、謫を以て民を徙し、越と雑処すること十三歳。佗は、秦の時用ひられて南海の龍川の令と為る。
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史記 南越列伝孝文帝元年、初めて天下を鎮撫す。乃ち佗の親冢の真定に在るが為に、守邑を置き、歳時奉祀す。其の従昆弟を召し、官を尊くし賜を厚くして之を寵す。乃ち陸賈を召して以て太中大夫と為し、往きて使ひせしむ。陸賈南越に至るや、王甚だ恐れ、書を為りて謝す。乃ち頓首謝し、長く藩臣為り、貢職を奉ぜんことを願ふ。是に於て乃ち国中に令を下して曰く、「吾聞く両雄は俱には立たず、両賢は世を并せずと。皇帝は賢天子なり。今より以後、帝制黄屋左纛を去らん」と。陸賈還りて報じ、孝文帝大いに説ぶ。
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史記 南越列伝使者皆東郷し、太后南郷し、王北郷し、相嘉・大臣皆西郷し、侍坐して飲む。嘉の弟将為り、卒を将ゐて宮外に居る。酒行はれ、太后嘉に謂ひて曰く、「南越の内属は、国の利なり、而るに相君苦だ便ならずとする者は、何ぞや」と。以て使者を激怒せしめんとす。使者狐疑して相杖り、遂に敢て発する莫し。嘉耳目の是に非ざるを見て、即ち起ちて出づ。太后怒り、嘉を鏦くに矛を以てせんと欲す、王太后を止む。嘉遂に出で、其の弟の兵を分かちて舎に就き、病と称し、王及び使者に見ゆるを肯ぜず。乃ち陰に大臣と乱を作さんとす。王素より嘉を誅するに意無し、嘉之を知る、故を以て数月発せず。太后淫行有り、国人附かず、独り嘉等を誅せんと欲するも、力又能はず。天子嘉の王に聴かず、王・王太后弱孤にして制すること能はず、使者怯えて決無きを聞く。又以為へらく王・王太后已に漢に附く、独り呂嘉乱を為す、以て兵を興すに足らずと、荘参をして二千人を以て往きて使ひせしめんと欲す。参曰く、「好を以て往かば、数人にて足れり。武を以て往かば、二千人以て為す足る無し」と。辞して可かず、天子参を罷む。郟の壮士、故の済北の相韓千秋奮ひて曰く、「区区たる越を以て、又王・太后の応ずる有り、独り相呂嘉害を為す、願はくは勇士二百人を得て、必ず嘉を斬りて以て報ぜん」と。是に於て天子千秋と王太后の弟樛楽とを遣はし二千人を将ゐて往かしめ、越の境に入る。呂嘉等乃ち遂に反し、令を国中に下して曰く、「王年少し。太后は、中国の人なり、又使者と乱し、専ら内属を欲し、尽く先王の宝器を持して入りて天子に献じて以て自ら媚び、多く人を従へ、行きて長安に至り、虜売して以て僮僕と為さんとす。自ら一時の利を脱するを取り、趙氏の社稷を顧み、万世の為に慮計するの意無し」と。乃ち其の弟と卒を将ゐて王・太后及び漢の使者を攻め殺す。
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