史記 / 南越列伝
遣人告蒼梧秦王及其諸郡縣,立明王長男越妻子術陽侯建德為王。而韓千秋兵入,破數小邑。其後越直開道給食,未至番禺四十里,越以兵擊千秋等,遂滅之。使人函封漢使者節置塞上,好為謾辭謝罪,發兵守要害處。於是天子曰:「韓千秋雖無成功,亦軍鋒之冠。」封其子延年為成安侯。樛樂,其姊為王太后,首願屬漢,封其子廣德為龍亢侯。乃下赦曰:「天子微,諸侯力政,譏臣不討賊。今呂嘉、建德等反,自立晏如,令罪人及江淮以南樓船十萬師往討之。」元鼎五年秋,衛尉路博德為伏波將軍,出桂陽,下匯水;主爵都尉楊仆為樓船將軍,出豫章,下橫浦;故歸義越侯二人為戈船、下厲將軍,出零陵,或下離水,或柢蒼梧;使馳義侯因巴蜀罪人,發夜郎兵,下牂柯江:咸會番禺。元鼎六年冬,樓船將軍將精卒先陷尋陜,破石門,得越船粟,因推而前,挫越鋒,以數萬人待伏波。伏波將軍將罪人,道遠,會期後,與樓船會乃有千餘人,遂俱進。樓船居前,至番禺。建德、嘉皆城守。樓船自擇便處,居東南面;伏波居西北面。會暮,樓船攻敗越人,縱火燒城。越素聞伏波名,日暮,不知其兵多少。伏波乃為營,遣使者招降者,賜印,復縱令相招。
新字:遣人告蒼梧秦王及其諸郡県,立明王長男越妻子術陽侯建徳為王。而韓千秋兵入,破数小邑。其後越直開道給食,未至番禺四十里,越以兵撃千秋等,遂滅之。使人函封漢使者節置塞上,好為謾辞謝罪,発兵守要害処。於是天子曰:「韓千秋雖無成功,亦軍鋒之冠。」封其子延年為成安侯。樛楽,其姊為王太后,首願属漢,封其子広徳為竜亢侯。乃下赦曰:「天子微,諸侯力政,譏臣不討賊。今呂嘉、建徳等反,自立晏如,令罪人及江淮以南楼船十万師往討之。」元鼎五年秋,衛尉路博徳為伏波将軍,出桂陽,下匯水;主爵都尉楊仆為楼船将軍,出予章,下横浦;故帰義越侯二人為戈船、下厲将軍,出零陵,或下離水,或柢蒼梧;使馳義侯因巴蜀罪人,発夜郎兵,下牂柯江:咸会番禺。元鼎六年冬,楼船将軍将精卒先陥尋陜,破石門,得越船粟,因推而前,挫越鋒,以数万人待伏波。伏波将軍将罪人,道遠,会期後,与楼船会乃有千余人,遂倶進。楼船居前,至番禺。建徳、嘉皆城守。楼船自択便処,居東南面;伏波居西北面。会暮,楼船攻敗越人,縦火焼城。越素聞伏波名,日暮,不知其兵多少。伏波乃為営,遣使者招降者,賜印,復縦令相招。
書き下し
人をして蒼梧の秦王及び其の諸郡県に告げしめ、明王の長男越の妻の子術陽侯建徳を立てて王と為す。而して韓千秋の兵入り、数小邑を破る。其の後越直ちに道を開き食を給す、未だ番禺に至らざること四十里、越兵を以て千秋等を撃ち、遂に之を滅ぼす。人をして漢の使者の節を函封して塞上に置かしめ、好んで謾辞を為して罪を謝し、兵を発して要害の処を守る。是に於て天子曰く、「韓千秋成功無しと雖も、亦軍鋒の冠なり」と。其の子延年を封じて成安侯と為す。樛楽は、其の姊王太后為り、首として漢に属せんことを願ふ、其の子広徳を封じて龍亢侯と為す。乃ち赦を下して曰く、「天子微にして、諸侯力政す、臣の賊を討たざるを譏る。今呂嘉・建徳等反し、自立して晏如たり、罪人及び江淮以南の楼船十万の師をして往きて之を討たしめよ」と。元鼎五年秋、衛尉路博徳伏波将軍と為り、桂陽に出で、匯水を下る。主爵都尉楊僕楼船将軍と為り、豫章に出で、横浦を下る。故の帰義越侯二人戈船・下厲将軍と為り、零陵に出で、或いは離水を下り、或いは蒼梧に柢る。馳義侯をして巴蜀の罪人に因り、夜郎の兵を発し、牂柯江を下らしむ。咸番禺に会す。元鼎六年冬、楼船将軍精卒を将ゐて先づ尋陝を陥れ、石門を破り、越の船粟を得、因りて推して前み、越の鋒を挫き、数万人を以て伏波を待つ。伏波将軍罪人を将ゐ、道遠く、期に後るるに会ひ、楼船と会するに乃ち千余人有るのみ、遂に倶に進む。楼船前に居り、番禺に至る。建徳・嘉皆城守す。楼船自ら便処を択びて、東南面に居る。伏波は西北面に居る。暮に会ひ、楼船越人を攻め敗り、火を縦ちて城を焼く。越素より伏波の名を聞く、日暮れ、其の兵の多少を知らず。伏波乃ち営を為り、使者を遣はして降る者を招き、印を賜ひ、復た縦ちて相招かしむ。
現代語訳
(呂嘉は)人を遣わして蒼梧の秦王(趙光)やその諸郡県に告げ、明王(嬰斉)の長男で越人の妻が産んだ子、術陽侯の建徳を王に立てた。一方、韓千秋の兵は越に入り、いくつかの小さな町を破った。その後、越はわざと道を開けて食糧まで与え、番禺(ばんぐ、南越の都)の手前四十里まで来たところで、兵をもって韓千秋らを攻撃し、ついに全滅させた。そして人をやって漢の使者の節(使者の印の旗)を箱に封じて国境の塞に置かせ、ことさらにごまかしの言葉で謝罪し、兵を出して要害の地を守らせた。そこで天子は言った。「韓千秋は成功しなかったが、先鋒としては第一の者であった」。その子の延年を成安侯に封じた。樛楽は、姉が王太后であり、真っ先に漢への帰属を願ったので、その子の広徳を龍亢侯に封じた。そして赦令を下して言った。「天子の力が衰え、諸侯が力で政治を争ったとき、(『春秋』は)臣下が賊を討たないことを非難した。今、呂嘉・建徳らが反逆し、勝手に王を立てて平然としている。罪人と、江淮以南の楼船(大型軍船)の兵十万を動員して討伐せよ」。元鼎五年(前112年)秋、衛尉の路博徳を伏波将軍とし、桂陽から出て匯水を下らせた。主爵都尉の楊僕を楼船将軍とし、豫章から出て横浦を下らせた。もと漢に帰順した越の侯二人を戈船将軍・下厲将軍とし、零陵から出て、一方は離水を下り、一方は蒼梧に至らせた。馳義侯には巴・蜀の罪人を使い、夜郎の兵を徴発して牂柯江(そうかこう)を下らせた。いずれも番禺で合流する手はずであった。元鼎六年冬、楼船将軍は精兵を率いてまず尋陝を攻め落とし、石門を破り、越の船と穀物を奪い、そのまま押し進んで越の鋭鋒をくじき、数万の兵で伏波将軍を待った。伏波将軍は罪人の兵を率いていたが、道が遠く、期日に遅れ、楼船将軍と合流したときにはわずか千余人しかいなかった。そのまま共に進んだ。楼船将軍が前に立って番禺に至った。建徳と呂嘉はともに城に籠もって守った。楼船将軍は自ら有利な場所を選んで東南面に陣取り、伏波将軍は西北面に陣取った。日暮れになると、楼船将軍は越人を攻め破り、火を放って城を焼いた。越はもともと伏波将軍の名声を聞いていたが、日が暮れてその兵の多少がわからなかった。伏波将軍はそこで陣営を築き、使者を送って降伏する者を招き、印綬を与え、さらに彼らを放って仲間を招かせた。
解説
関連する章句
-
史記 南越列伝楼船力攻して敵を焼き、反りて駆りて伏波の営中に入らしむ。犁旦、城中皆伏波に降る。呂嘉・建徳已に夜其の属数百人と亡げて海に入り、船を以て西に去る。伏波又因りて得る所の降者の貴人に問ひ、以て呂嘉の之く所を知り、人を遣はして之を追はしむ。其の故の校尉司馬蘇弘建徳を得るを以て、封じて海常侯と為す。越の郎都稽嘉を得、封じて臨蔡侯と為す。蒼梧王趙光は、越王と同姓なり、漢兵の至るを聞き、及び越の掲陽の令定自ら定めて漢に属す。越の桂林監居翁甌駱を諭して漢に属せしむ。皆侯と為るを得たり。戈船・下厲将軍の兵及び馳義侯の発する所の夜郎の兵未だ下らざるに、南越已に平らぐ。遂に九郡と為す。伏波将軍封を益す。楼船将軍の兵堅きを陥るるを以て将梁侯と為る。尉佗初めて王たりし後より、五世九十三歳にして国亡ぶ。
-
史記 南越列伝使者皆東郷し、太后南郷し、王北郷し、相嘉・大臣皆西郷し、侍坐して飲む。嘉の弟将為り、卒を将ゐて宮外に居る。酒行はれ、太后嘉に謂ひて曰く、「南越の内属は、国の利なり、而るに相君苦だ便ならずとする者は、何ぞや」と。以て使者を激怒せしめんとす。使者狐疑して相杖り、遂に敢て発する莫し。嘉耳目の是に非ざるを見て、即ち起ちて出づ。太后怒り、嘉を鏦くに矛を以てせんと欲す、王太后を止む。嘉遂に出で、其の弟の兵を分かちて舎に就き、病と称し、王及び使者に見ゆるを肯ぜず。乃ち陰に大臣と乱を作さんとす。王素より嘉を誅するに意無し、嘉之を知る、故を以て数月発せず。太后淫行有り、国人附かず、独り嘉等を誅せんと欲するも、力又能はず。天子嘉の王に聴かず、王・王太后弱孤にして制すること能はず、使者怯えて決無きを聞く。又以為へらく王・王太后已に漢に附く、独り呂嘉乱を為す、以て兵を興すに足らずと、荘参をして二千人を以て往きて使ひせしめんと欲す。参曰く、「好を以て往かば、数人にて足れり。武を以て往かば、二千人以て為す足る無し」と。辞して可かず、天子参を罷む。郟の壮士、故の済北の相韓千秋奮ひて曰く、「区区たる越を以て、又王・太后の応ずる有り、独り相呂嘉害を為す、願はくは勇士二百人を得て、必ず嘉を斬りて以て報ぜん」と。是に於て天子千秋と王太后の弟樛楽とを遣はし二千人を将ゐて往かしめ、越の境に入る。呂嘉等乃ち遂に反し、令を国中に下して曰く、「王年少し。太后は、中国の人なり、又使者と乱し、専ら内属を欲し、尽く先王の宝器を持して入りて天子に献じて以て自ら媚び、多く人を従へ、行きて長安に至り、虜売して以て僮僕と為さんとす。自ら一時の利を脱するを取り、趙氏の社稷を顧み、万世の為に慮計するの意無し」と。乃ち其の弟と卒を将ゐて王・太后及び漢の使者を攻め殺す。
-
『長短経』覇図尉佗、南越に王として反す。高祖、陸賈をして尉佗に印綬を賜い、南越王と為し、臣と称して漢の約を奉ぜしむ。〈陸生、南越に至る。尉佗、魋髻箕踞して陸生に見ゆ。陸生因りて説を進めて曰く「足下は中国の人なり。親戚・昆弟・墳墓、真定に在り。今、足下、天性に反し、冠帯を棄て、区区たる越を以て天子と抗衡して敵国たらんと欲す。禍い且に身に及ばんとす。且つ夫れ秦、其の政を失い、諸侯豪傑並び起こる。唯だ漢王のみ先ず関に入り、咸陽に拠る。項王、約に背き、自立して西楚の覇王と為り、諸侯皆な属す。至強と謂う可し。然れども漢王、巴蜀に起こり、天下を鞭笞し、諸侯を制し、遂に項羽を誅して之を滅ぼす。五年の間に、海内平定す。此れ人力に非ず、天の建つる所なり。天子、君王の南越に王たるを聞くも、天下を助けて暴逆を誅せず。将に兵を移して王を誅せんと欲す。天子、百姓の新たに労苦せるを憐れみ、且く之を休ましめ、臣を遣わして君王に印綬を授け、符を剖きて使いを通ず。君王、宜しく郊迎して、北面して臣と称すべし。乃ち新たに造りて未だ集まらざるの越を以て、此に屈強せんと欲す。漢、誠に之を聞かば、王の先人の塚を掘り、王の宗族を夷滅し、一偏将をして十万の衆を将いて以て越に臨ましめば、則ち越は王を殺して降ること、手を反覆するが如きのみ」と。是に於て尉佗、蹶然として起ち、陸生に謝す。卒に尉佗を拝して還る。
-
史記 平準書是に於て天子、山東の贍らざるが為に、天下の囚を赦し、南方の楼船の卒二十余万人に因りて南越を撃ち、数万人は三河以西の騎を発して西羌を撃ち、又数万人は河を度りて令居を築く。初めて張掖・酒泉郡を置き、而して上郡・朔方・西河・河西に田官を開き、斥塞の卒六十万人をして戍りて之に田せしむ。中国は道を繕ひ糧を餽ること、遠き者は三千、近き者は千余里、皆大農に仰ぎ給す。辺兵足らず、乃ち武庫・工官の兵器を発して以て之を贍す。車騎の馬乏絶し、県官銭少なく、馬を買ふも得難し。乃ち令を著し、封君以下三百石以上の吏に至るまで、差を以て牝馬を天下の亭に出さしむ。亭に畜牸馬有り、歳ごとに息を課す。斉の相卜式上書して曰く、「臣聞く、主憂ふれば臣辱めらると。南越反す。臣願はくは父子、斉の船に習ふ者と往きて之に死せん」と。天子詔を下して曰く、「卜式は躬ら耕牧すと雖も、以て利と為さず、余り有れば輒ち県官の用を助く。今天下不幸にして急有り、而して式奮ひて父子之に死せんことを願ふ。未だ戦はずと雖も、義内に形はると謂ふ可し。爵関内侯、金六十斤、田十頃を賜へ」と。天下に布告するも、天下応ずる莫し。列侯百を以て数ふるも、皆軍に従ひて羌・越を撃たんことを求むる莫し。酎に至りて、少府金を省し、而して列侯の酎金に坐して侯を失ふ者百余人。乃ち式を拝して御史大夫と為す。式既に位に在り、郡国の多く県官の塩鉄を作るを便とせず、鉄器苦悪にして、賈貴く、或いは彊ひて民をして之を売買せしむるを見る。而して船に算有り、商ふ者少なく、物貴し。乃ち孔僅に因りて船算の事を言ふ。上是に由りて卜式を悦ばず。漢、兵を連ぬること三歳、羌を誅し、南越を滅す。番禺以西、蜀の南に至るまで、初郡十七を置き、且つ其の故俗を以て治め、賦税する毋し。南陽・漢中以往の郡は、各々地の比するを以て初郡の吏卒の奉食・幣物、伝車馬の被具を給す。
-
史記 南越列伝孝文帝元年、初めて天下を鎮撫す。乃ち佗の親冢の真定に在るが為に、守邑を置き、歳時奉祀す。其の従昆弟を召し、官を尊くし賜を厚くして之を寵す。乃ち陸賈を召して以て太中大夫と為し、往きて使ひせしむ。陸賈南越に至るや、王甚だ恐れ、書を為りて謝す。乃ち頓首謝し、長く藩臣為り、貢職を奉ぜんことを願ふ。是に於て乃ち国中に令を下して曰く、「吾聞く両雄は俱には立たず、両賢は世を并せずと。皇帝は賢天子なり。今より以後、帝制黄屋左纛を去らん」と。陸賈還りて報じ、孝文帝大いに説ぶ。
-
史記 東越列伝余善「武帝」の璽を刻して自立し、其の民を詐り、妄言を為す。天子横海将軍韓説を遣はし句章に出で、海に浮かびて東方より往かしむ。楼船将軍楊僕は武林に出で、中尉王温舒は梅嶺に出で、越侯は戈船・下瀬将軍と為り、若邪・白沙に出づ。元封元年冬、咸東越に入る。東越素より兵を発して険を距ぎ、徇北将軍をして武林を守らしめ、楼船軍の数校尉を敗り、長吏を殺す。楼船将軍の率ゐる銭唐の轅終古徇北将軍を斬り、御児侯と為る。自ら兵未だ往かず。故の越衍侯呉陽前に漢に在り、漢帰りて余善を諭さしむるも、余善聴かず。横海将軍先づ至るに及び、越衍侯呉陽其の邑の七百人を以て反し、越軍を漢陽に攻む。建成侯敖に従ひ、其の率と与に、繇王居股に従ひて謀りて曰く、「余善は首悪なり、吾が属を劫守す。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る