史記 / 南越列伝
太史公曰:尉佗之王,本由任囂。遭漢初定,列為諸侯。隆慮離溼疫,佗得以益驕。甌駱相攻,南越動搖。漢兵臨境,嬰齊入朝。其後亡國,徵自樛女;呂嘉小忠,令佗無後。樓船從欲,怠傲失惑;伏波困窮,智慮愈殖,因禍為福。成敗之轉,譬若糾墨。
新字:太史公曰:尉佗之王,本由任囂。遭漢初定,列為諸侯。隆慮離湿疫,佗得以益驕。甌駱相攻,南越動揺。漢兵臨境,嬰斉入朝。其後亡国,徴自樛女;呂嘉小忠,令佗無後。楼船従欲,怠傲失惑;伏波困窮,智慮愈殖,因禍為福。成敗之転,譬若糾墨。
書き下し
太史公曰く、尉佗の王たるは、本任囂に由る。漢の初定に遭ひ、列して諸侯と為る。隆慮溼疫に離り、佗得て以て益ます驕る。甌駱相攻め、南越動揺す。漢兵境に臨み、嬰齊入朝す。其の後国を亡ふは、徵は樛女より自る。呂嘉小忠、佗をして後無からしむ。楼船欲を従にし、怠傲失惑す。伏波困窮して、智慮愈いよ殖え、禍に因りて福と為す。成敗の転、譬へば糾墨のごとし」と。
現代語訳
太史公は言う。「尉佗(趙佗)が王となったのは、もとは任囂によるものである。漢が定まったばかりの時期に遭遇し、諸侯に列せられた。隆慮侯の軍が湿気と疫病にやられたため、佗はますます驕った。甌と駱が攻め合い、南越は動揺した。漢の兵が国境に迫ると、嬰齊は入朝した。その後に国を失ったのは、その兆しが樛氏の女(王太后)に始まっている。呂嘉の小さな忠義が、かえって趙佗の家系を絶やした。楼船将軍は欲をほしいままにし、怠慢で判断を誤った。伏波将軍は困窮したが、その中で智恵と思慮はいよいよ増し、禍いを転じて福とした。成功と失敗が入れ替わるさまは、たとえば縒り合わせた縄のようである」。
解説
この章句が説くこと
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史記 南越列伝二世の時に至り、南海尉任囂病みて且に死せんとし、龍川令趙佗を召して語りて曰く、「聞くならく陳勝等乱を作し、秦無道にして、天下之に苦しむと。中国擾乱し、豪傑秦に畔きて相立つ。南海は僻遠なり、吾兵を興して新道を絶ち、自ら備へ、諸侯の変を待たんと欲す、会たま病甚だし。且つ番禺は山険に負ひ、南海を阻て、東西数千里、頗る中国人の相輔くる有り、此れ亦た一州の主なり、以て国を立つ可し。郡中の長吏与に言ふに足る者無し、故に公を召して之を告ぐ」と。即ち佗の書を被り、南海尉の事を行ふ。囂死し、佗即ち橫浦・陽山・湟谿関に移檄し、稍く法を以て秦の置く所の長吏を誅す。秦已に破滅し、佗即ち桂林・象郡を撃并し、自立して南越武王と為る。
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