史記 / 南越列伝
使者皆東鄉,太后南鄉,王北鄉,相嘉、大臣皆西鄉,侍坐飲。嘉弟為將,將卒居宮外。酒行,太后謂嘉曰:「南越內屬,國之利也,而相君苦不便者,何也?」以激怒使者。使者狐疑相杖,遂莫敢發。嘉見耳目非是,即起而出。太后怒,欲鏦嘉以矛,王止太後。嘉遂出,分其弟兵就舍,稱病,不肯見王及使者。乃陰與大臣作亂。王素無意誅嘉,嘉知之,以故數月不發。太后有淫行,國人不附,欲獨誅嘉等,力又不能。天子聞嘉不聽王,王、王太后弱孤不能制,使者怯無決。又以為王、王太后已附漢,獨呂嘉為亂,不足以興兵,欲使莊參以二千人往使。參曰:「以好往,數人足矣;以武往,二千人無足以為也。」辭不可,天子罷參也。郟壯士故濟北相韓千秋奮曰:「以區區之越,又有王、太后應,獨相呂嘉為害,願得勇士二百人,必斬嘉以報。」於是天子遣千秋與王太后弟樛樂將二千人往,入越境。呂嘉等乃遂反,下令國中曰:「王年少。太後,中國人也,又與使者亂,專欲內屬,盡持先王寶器入獻天子以自媚,多從人,行至長安,虜賣以為僮仆。取自脫一時之利,無顧趙氏社稷,為萬世慮計之意。」乃與其弟將卒攻殺王、太后及漢使者。
新字:使者皆東郷,太后南郷,王北郷,相嘉、大臣皆西郷,侍坐飲。嘉弟為将,将卒居宮外。酒行,太后謂嘉曰:「南越内属,国之利也,而相君苦不便者,何也?」以激怒使者。使者狐疑相杖,遂莫敢発。嘉見耳目非是,即起而出。太后怒,欲鏦嘉以矛,王止太後。嘉遂出,分其弟兵就舎,称病,不肯見王及使者。乃陰与大臣作乱。王素無意誅嘉,嘉知之,以故数月不発。太后有淫行,国人不附,欲独誅嘉等,力又不能。天子聞嘉不聴王,王、王太后弱孤不能制,使者怯無決。又以為王、王太后已附漢,独呂嘉為乱,不足以興兵,欲使荘参以二千人往使。参曰:「以好往,数人足矣;以武往,二千人無足以為也。」辞不可,天子罷参也。郟壮士故済北相韓千秋奮曰:「以区区之越,又有王、太后応,独相呂嘉為害,願得勇士二百人,必斬嘉以報。」於是天子遣千秋与王太后弟樛楽将二千人往,入越境。呂嘉等乃遂反,下令国中曰:「王年少。太後,中国人也,又与使者乱,専欲内属,尽持先王宝器入献天子以自媚,多従人,行至長安,虜売以為僮仆。取自脱一時之利,無顧趙氏社稷,為万世慮計之意。」乃与其弟将卒攻殺王、太后及漢使者。
書き下し
使者皆東郷し、太后南郷し、王北郷し、相嘉・大臣皆西郷し、侍坐して飲む。嘉の弟将為り、卒を将ゐて宮外に居る。酒行はれ、太后嘉に謂ひて曰く、「南越の内属は、国の利なり、而るに相君苦だ便ならずとする者は、何ぞや」と。以て使者を激怒せしめんとす。使者狐疑して相杖り、遂に敢て発する莫し。嘉耳目の是に非ざるを見て、即ち起ちて出づ。太后怒り、嘉を鏦くに矛を以てせんと欲す、王太后を止む。嘉遂に出で、其の弟の兵を分かちて舎に就き、病と称し、王及び使者に見ゆるを肯ぜず。乃ち陰に大臣と乱を作さんとす。王素より嘉を誅するに意無し、嘉之を知る、故を以て数月発せず。太后淫行有り、国人附かず、独り嘉等を誅せんと欲するも、力又能はず。天子嘉の王に聴かず、王・王太后弱孤にして制すること能はず、使者怯えて決無きを聞く。又以為へらく王・王太后已に漢に附く、独り呂嘉乱を為す、以て兵を興すに足らずと、荘参をして二千人を以て往きて使ひせしめんと欲す。参曰く、「好を以て往かば、数人にて足れり。武を以て往かば、二千人以て為す足る無し」と。辞して可かず、天子参を罷む。郟の壮士、故の済北の相韓千秋奮ひて曰く、「区区たる越を以て、又王・太后の応ずる有り、独り相呂嘉害を為す、願はくは勇士二百人を得て、必ず嘉を斬りて以て報ぜん」と。是に於て天子千秋と王太后の弟樛楽とを遣はし二千人を将ゐて往かしめ、越の境に入る。呂嘉等乃ち遂に反し、令を国中に下して曰く、「王年少し。太后は、中国の人なり、又使者と乱し、専ら内属を欲し、尽く先王の宝器を持して入りて天子に献じて以て自ら媚び、多く人を従へ、行きて長安に至り、虜売して以て僮僕と為さんとす。自ら一時の利を脱するを取り、趙氏の社稷を顧み、万世の為に慮計するの意無し」と。乃ち其の弟と卒を将ゐて王・太后及び漢の使者を攻め殺す。
現代語訳
(宴席で)使者たちはみな東を向き、太后は南を向き、王は北を向き、丞相呂嘉と大臣たちはみな西を向いて、座に侍って酒を飲んだ。呂嘉の弟は将軍で、兵を率いて宮殿の外にいた。酒が回ると、太后は呂嘉に言った。「南越が漢に内属するのは国の利益だ。それなのに丞相どのがひどく不都合だとするのは、なぜか」。こうして使者を怒らせ(嘉を討たせ)ようとした。使者たちはためらって互いに顔を見合わせ、頼り合って、ついに誰も手を出さなかった。呂嘉は周囲の様子がただならぬのを見て、すぐに立って出て行った。太后は怒り、矛で呂嘉を突こうとしたが、王が太后を止めた。呂嘉はそのまま出て行き、弟の兵を分けて自邸に入り、病と称して王や使者に会おうとしなかった。そしてひそかに大臣たちと乱を起こそうとした。王はもともと呂嘉を誅する気はなく、呂嘉もそれを知っていたので、数か月は事を起こさなかった。太后には淫らな行いがあって国人は従わず、単独で呂嘉らを誅そうとしたが、その力もなかった。天子は、呂嘉が王の言うことを聞かず、王と王太后は弱く孤立していて抑えられず、使者は臆病で決断できずにいると聞いた。また、王と王太后はすでに漢に従っており、呂嘉一人が乱を起こしているだけだから、兵を起こすほどのことではないと考え、荘参に二千人を率いて使者として行かせようとした。荘参は言った。「友好のために行くなら数人で足りる。武力で行くなら、二千人では何もできない」。そう言って辞退したので、天子は荘参を罷免した。郟(こう)の勇士で、もと済北の相の韓千秋が奮い立って言った。「ちっぽけな越のこと、しかも王と太后が内応している。害をなしているのは丞相の呂嘉ただ一人だ。どうか勇士二百人をいただきたい。必ず呂嘉を斬ってご報告する」。そこで天子は韓千秋と王太后の弟の樛楽に二千人を率いて行かせ、一行は越の国境に入った。呂嘉らはついに反乱を起こし、国中に布告した。「王は年若い。太后は中国の人で、しかも使者と密通し、ひたすら内属を望み、先王の宝器をことごとく持ち出して天子に献上して媚び、多くの人を従えて長安まで行き、彼らを捕虜として売り飛ばし奴僕にしようとしている。自分が一時の利を得て逃れることだけを考え、趙氏の国家を顧み、万世のために計る気持ちがない」。そして弟とともに兵を率いて、王と太后および漢の使者を攻め殺した。
解説
関連する章句
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史記 南越列伝其の相呂嘉年長なり、三王に相たり、宗族の官仕して長吏為る者七十餘人、男は尽く王女を尚り、女は尽く王子兄弟宗室に嫁す。其の国中に居ること甚だ重く、越人之を信じ、多く耳目為る者あり、衆心を得ること王より愈れり。王の上書するや、数しば王を諫止す、王聴かず。畔心有り、数しば病と称して漢の使者に見えず。使者皆嘉に注意するも、勢未だ誅する能はず。王・王太后亦た嘉等の先んじて事発するを恐る。太后淫行有り、国人附かず、独り嘉等を誅せんと欲するも、力又能はず。
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史記 南越列伝人をして蒼梧の秦王及び其の諸郡県に告げしめ、明王の長男越の妻の子術陽侯建徳を立てて王と為す。而して韓千秋の兵入り、数小邑を破る。其の後越直ちに道を開き食を給す、未だ番禺に至らざること四十里、越兵を以て千秋等を撃ち、遂に之を滅ぼす。人をして漢の使者の節を函封して塞上に置かしめ、好んで謾辞を為して罪を謝し、兵を発して要害の処を守る。是に於て天子曰く、「韓千秋成功無しと雖も、亦軍鋒の冠なり」と。其の子延年を封じて成安侯と為す。樛楽は、其の姊王太后為り、首として漢に属せんことを願ふ、其の子広徳を封じて龍亢侯と為す。乃ち赦を下して曰く、「天子微にして、諸侯力政す、臣の賊を討たざるを譏る。今呂嘉・建徳等反し、自立して晏如たり、罪人及び江淮以南の楼船十万の師をして往きて之を討たしめよ」と。元鼎五年秋、衛尉路博徳伏波将軍と為り、桂陽に出で、匯水を下る。主爵都尉楊僕楼船将軍と為り、豫章に出で、横浦を下る。故の帰義越侯二人戈船・下厲将軍と為り、零陵に出で、或いは離水を下り、或いは蒼梧に柢る。馳義侯をして巴蜀の罪人に因り、夜郎の兵を発し、牂柯江を下らしむ。咸番禺に会す。元鼎六年冬、楼船将軍精卒を将ゐて先づ尋陝を陥れ、石門を破り、越の船粟を得、因りて推して前み、越の鋒を挫き、数万人を以て伏波を待つ。伏波将軍罪人を将ゐ、道遠く、期に後るるに会ひ、楼船と会するに乃ち千余人有るのみ、遂に倶に進む。楼船前に居り、番禺に至る。建徳・嘉皆城守す。楼船自ら便処を択びて、東南面に居る。伏波は西北面に居る。暮に会ひ、楼船越人を攻め敗り、火を縦ちて城を焼く。越素より伏波の名を聞く、日暮れ、其の兵の多少を知らず。伏波乃ち営を為り、使者を遣はして降る者を招き、印を賜ひ、復た縦ちて相招かしむ。
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史記 南越列伝太后自ら未だ嬰斉の姫為らざりし時、嘗て霸陵の人安国少季と通ず。嬰斉薨ずるの後に及び、元鼎四年、漢安国少季をして往きて王・王太后に諭すに入朝を以てし、内諸侯に比せしむ。弁士諫大夫終軍等をして其の辞を宣べしめ、勇士魏臣等をして其の欠を輔けしめ、衛尉路博徳兵を将ゐて桂陽に屯し、使者を待つ。王年少く、太后は中国の人なり、嘗て安国少季と通ず、其の使ひするや復た私す。国人頗る之を知り、多く太后に附かず。太后乱の起こらんことを恐れ、亦漢の威に倚らんと欲し、数々王及び群臣に内属を求めんことを勧む。即ち使者に因りて上書し、内諸侯に比し、三歳に一たび朝し、辺関を除かんことを請ふ。是に於て天子之を許し、其の丞相呂嘉に銀印、及び内史・中尉・太傅の印を賜ひ、余は自ら置くを得しむ。其の故の黥劓の刑を除き、漢法を用ひ、内諸侯に比す。使者皆留まりて之を填撫す。
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史記 南越列伝高后の時、有司南越の関市の鉄器を禁ぜんことを請ふ。佗曰く、「高帝我を立て、使物を通ず、今高后讒臣を聴き、蛮夷を別異し、器物を隔絶す、此れ必ず長沙王の計なり、中国に倚りて、南越を撃滅して之を并せ王たらんと欲し、自ら功と為すなり」と。是に於て佗乃ち自ら号を南越武帝と尊び、兵を発して長沙の辺邑を攻め、数県を敗りて去る。高后将軍隆慮侯灶を遣りて往きて之を撃たしむ。会たま暑溼にして、士卒大いに疫し、兵嶺を踰ゆる能はず。歳餘、高后崩じ、即ち兵を罷む。佗因此に兵を以て辺に威し、財物を閩越・西甌・駱に賂遺し、役属せしむ。
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史記 南越列伝楼船力攻して敵を焼き、反りて駆りて伏波の営中に入らしむ。犁旦、城中皆伏波に降る。呂嘉・建徳已に夜其の属数百人と亡げて海に入り、船を以て西に去る。伏波又因りて得る所の降者の貴人に問ひ、以て呂嘉の之く所を知り、人を遣はして之を追はしむ。其の故の校尉司馬蘇弘建徳を得るを以て、封じて海常侯と為す。越の郎都稽嘉を得、封じて臨蔡侯と為す。蒼梧王趙光は、越王と同姓なり、漢兵の至るを聞き、及び越の掲陽の令定自ら定めて漢に属す。越の桂林監居翁甌駱を諭して漢に属せしむ。皆侯と為るを得たり。戈船・下厲将軍の兵及び馳義侯の発する所の夜郎の兵未だ下らざるに、南越已に平らぐ。遂に九郡と為す。伏波将軍封を益す。楼船将軍の兵堅きを陥るるを以て将梁侯と為る。尉佗初めて王たりし後より、五世九十三歳にして国亡ぶ。
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史記 南越列伝孝文帝元年、初めて天下を鎮撫す。乃ち佗の親冢の真定に在るが為に、守邑を置き、歳時奉祀す。其の従昆弟を召し、官を尊くし賜を厚くして之を寵す。乃ち陸賈を召して以て太中大夫と為し、往きて使ひせしむ。陸賈南越に至るや、王甚だ恐れ、書を為りて謝す。乃ち頓首謝し、長く藩臣為り、貢職を奉ぜんことを願ふ。是に於て乃ち国中に令を下して曰く、「吾聞く両雄は俱には立たず、両賢は世を并せずと。皇帝は賢天子なり。今より以後、帝制黄屋左纛を去らん」と。陸賈還りて報じ、孝文帝大いに説ぶ。
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