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史記 / 南越列伝

遂至孝景時,稱臣,使人朝請。然南越其居國竊如故號名,其使天子,稱王朝命如諸侯。至建元四年卒。佗孫胡為南越王。此時閩越王郢興兵擊南越邊邑,胡使人上書曰:「兩越俱為藩臣,毋得擅興兵相攻擊。今閩越興兵侵臣,臣不敢興兵,唯天子詔之。」於是天子多南越義,守職約,為興師,遣兩將軍往討閩越。兵未踰嶺,閩越王弟餘善殺郢以降,於是罷兵。天子使莊助往諭意南越王,胡頓首曰:「天子乃為臣興兵討閩越,死無以報德!」遣太子嬰齊入宿衛。謂助曰:「國新被寇,使者行矣。胡方日夜裝入見天子。」助去後,其大臣諫胡曰:「漢興兵誅郢,亦行以驚動南越。且先王昔言,事天子期無失禮,要之不可以說好語入見。入見則不得復歸,亡國之勢也。」於是胡稱病,竟不入見。後十餘歲,胡實病甚,太子嬰齊請歸。胡薨,謚為文王。嬰齊代立,即藏其先武帝璽。嬰齊其入宿衛在長安時,取邯鄲樛氏女,生子興。及即位,上書請立樛氏女為后,興為嗣。漢數使使者風諭嬰齊,嬰齊尚樂擅殺生自恣,懼入見要用漢法,比內諸侯,固稱病,遂不入見。遣子次公入宿衛。嬰齊薨,謚為明王。太子興代立,其母為太后。

新字:遂至孝景時,称臣,使人朝請。然南越其居国窃如故号名,其使天子,称王朝命如諸侯。至建元四年卒。佗孫胡為南越王。此時閩越王郢興兵撃南越辺邑,胡使人上書曰:「両越倶為藩臣,毋得擅興兵相攻撃。今閩越興兵侵臣,臣不敢興兵,唯天子詔之。」於是天子多南越義,守職約,為興師,遣両将軍往討閩越。兵未踰嶺,閩越王弟余善殺郢以降,於是罷兵。天子使荘助往諭意南越王,胡頓首曰:「天子乃為臣興兵討閩越,死無以報徳!」遣太子嬰斉入宿衛。謂助曰:「国新被寇,使者行矣。胡方日夜装入見天子。」助去後,其大臣諫胡曰:「漢興兵誅郢,亦行以驚動南越。且先王昔言,事天子期無失礼,要之不可以説好語入見。入見則不得復帰,亡国之勢也。」於是胡称病,竟不入見。後十余歳,胡実病甚,太子嬰斉請帰。胡薨,謚為文王。嬰斉代立,即蔵其先武帝璽。嬰斉其入宿衛在長安時,取邯鄲樛氏女,生子興。及即位,上書請立樛氏女為后,興為嗣。漢数使使者風諭嬰斉,嬰斉尚楽擅殺生自恣,懼入見要用漢法,比内諸侯,固称病,遂不入見。遣子次公入宿衛。嬰斉薨,謚為明王。太子興代立,其母為太后。

書き下し

遂に孝景の時に至り、臣と称し、人をして朝請せしむ。然れども南越其の国に居りては窃かに故の号名の如くし、其の天子に使ひするや、王と称して命を朝すること諸侯の如し。建元四年に至りて卒す。佗の孫胡南越王と為る。此の時閩越王郢兵を興して南越の辺邑を撃つ、胡人をして上書せしめて曰く、「両越倶に藩臣為り、擅に兵を興して相攻撃するを得ること毋かれ。今閩越兵を興して臣を侵す、臣敢て兵を興さず、唯だ天子之に詔せよ」と。是に於て天子南越の義、職約を守るを多とし、為に師を興し、両将軍を遣はして往きて閩越を討たしむ。兵未だ嶺を踰えざるに、閩越王の弟余善郢を殺して以て降る、是に於て兵を罷む。天子荘助をして往きて意を南越王に諭さしむ、胡頓首して曰く、「天子乃ち臣が為に兵を興して閩越を討つ、死すとも以て徳に報ゆる無し」と。太子嬰斉を遣はして入りて宿衛せしむ。助に謂ひて曰く、「国新たに寇せらる、使者行け。胡方に日夜装して入りて天子に見えん」と。助去りし後、其の大臣胡を諫めて曰く、「漢兵を興して郢を誅するは、亦行くゆく以て南越を驚動せしむるなり。且つ先王昔言へり、天子に事へて礼を失ふ無きを期せよ、之を要するに好語を説くを以て入りて見ゆべからずと。入りて見ゆれば則ち復た帰るを得ず、亡国の勢ひなり」と。是に於て胡病と称し、竟に入りて見えず。後十余歳、胡実に病甚し、太子嬰斉帰らんことを請ふ。胡薨じ、謚して文王と為す。嬰斉代はりて立ち、即ち其の先の武帝の璽を蔵す。嬰斉其の入りて宿衛して長安に在りし時、邯鄲の樛氏の女を取り、子興を生む。位に即くに及び、上書して樛氏の女を立てて后と為し、興を嗣と為さんことを請ふ。漢数々使者をして嬰斉を風諭せしむるも、嬰斉尚ほ殺生を擅にして自ら恣にするを楽しみ、入りて見ゆれば漢法を用ひ、内諸侯に比せしめられんことを要むるを懼れ、固く病と称し、遂に入りて見えず。子次公を遣はして入りて宿衛せしむ。嬰斉薨じ、謚して明王と為す。太子興代はりて立ち、其の母太后と為る。

現代語訳

こうして孝景帝の時代になると、(趙佗は)臣と称し、人を遣わして定期の朝見をさせた。しかし南越の国内ではひそかに以前の(皇帝の)称号を用い、天子に使者を送るときには、王と称して諸侯と同じように朝廷の命を受けた。建元四年(前137年)に至って亡くなった。佗の孫の胡が南越王となった。このとき閩越王の郢が兵を起こして南越の辺境の町を攻撃した。胡は人を遣わして上書させた。「両越(南越と閩越)はともに漢の藩臣であり、勝手に兵を起こして攻め合ってはならないはずだ。今、閩越が兵を起こして臣を侵しているが、臣はあえて兵を起こさない。ただ天子のご命令を仰ぎたい」。そこで天子は南越が義を守り、藩臣としての職分と約束を守ったことを高く評価し、そのために軍を起こし、二人の将軍を遣わして閩越を討たせた。兵がまだ五嶺を越えないうちに、閩越王の弟の余善が郢を殺して降伏したので、兵を引き揚げた。天子は荘助(厳助)を遣わして南越王に意向を伝えさせた。胡は頭を地につけて言った。「天子は臣のために兵を起こして閩越を討ってくださった。死んでもこのご恩に報いることはできない」。そして太子の嬰斉を都へ送って宿衛(宮中の警護)にあたらせた。胡は荘助に言った。「国は侵略を受けたばかりだ。使者どのは先にお帰りいただきたい。胡も日夜支度をして、都に上り天子にお目にかかるつもりだ」。荘助が去った後、南越の大臣が胡を諫めた。「漢が兵を起こして郢を誅したのも、いずれ南越を驚かし揺さぶるためである。それに先王(趙佗)はかつて、天子に仕えるには礼を失わないように心がけよ、要するに、うまい言葉にのせられて都に上ってはならない、と言われた。上ればもう帰ってこられず、国を亡ぼす形勢になる」。そこで胡は病と称し、ついに都に上らなかった。十余年後、胡は本当に重い病にかかり、太子嬰斉は帰国を願い出た。胡が薨じると、文王と諡した。嬰斉が代わって立つと、すぐに先代の(趙佗の)武帝の璽(印章)をしまい込んだ。嬰斉は宿衛として長安にいたころ、邯鄲の樛(きゅう)氏の娘を娶り、子の興を生んでいた。即位すると、上書して樛氏の娘を后に、興を跡継ぎに立てたいと願い出た。漢はたびたび使者を送って嬰斉に入朝をほのめかし諭したが、嬰斉はなお生殺与奪を思いのままにする気ままさを楽しみ、都に上れば漢の法を用いて国内の諸侯並みにするよう求められることを恐れ、頑なに病と称して、ついに入朝しなかった。子の次公を宿衛として送った。嬰斉が薨じると、明王と諡した。太子の興が代わって立ち、その母が太后となった。

解説

趙佗の後、孫の胡、その子嬰斉と三代にわたる南越と漢の駆け引きを描く段です。趙佗は漢に臣下の礼をとりながら国内では皇帝号を使い続け、孫の胡は閩越に攻められても自ら応戦せず漢に裁きを委ねて信頼を得ます。武帝が兵を出して助けると、胡は感謝して太子を人質同然に都へ送り、自分も入朝すると約束しますが、大臣に「都に上れば帰れなくなる」と諫められて病を理由に行きませんでした。嬰斉も同じく入朝を拒み、漢の法で縛られることを恐れます。表向きの恭順と実際の自立を両立させる小国の知恵がよく表れています。一方で、嬰斉が長安で中原出身の妻を迎えたことが、次の段の悲劇の種になります。取引先との関係でも、形の上の従属と実質の独立をどう保つかは難しい課題です。

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