史記 / 平津侯主父列伝
太史公曰:公孫弘行義雖修,然亦遇時。漢興八十餘年矣,上方鄉文學,招俊乂,以廣儒墨,弘為舉首。主父偃當路,諸公皆譽之,及名敗身誅,士爭言其惡。悲夫!太皇太后詔大司徒大司空:「蓋聞治國之道,富民為始;富民之要,在於節儉。《孝經》曰『安上治民,莫善於禮』。『禮,與奢也寧儉』。昔者管仲相齊桓,霸諸侯,有九合一匡之功,而仲尼謂之不知禮,以其奢泰侈擬於君故也。夏禹卑宮室,惡衣服,后聖不循。由此言之,治之盛也,德優矣,莫高於儉。儉化俗民,則尊卑之序得,而骨肉之恩親,爭訟之原息。斯乃家給人足,刑錯之本也歟?可不務哉!夫三公者,百寮之率,萬民之表也。未有樹直表而得曲影者也。孔子不云乎,『子率而正,孰敢不正』。『舉善而教不能則勸』。維漢興以來,股肱宰臣身行儉約,輕財重義,較然著明,未有若故丞相平津侯公孫弘者也。位在丞相而為布被,脫粟之飯,不過一肉。故人所善賓客皆分奉祿以給之,無有所餘。誠內自克約而外從制。汲黯詰之,乃聞于朝,此可謂減於制度而可施行者也。德優則行,否則止,與內奢泰而外為詭服以釣虛譽者殊科。以病乞骸骨,孝武皇帝即制曰『賞有功,褒有德,善善惡惡,君宜知之。
新字:太史公曰:公孫弘行義雖修,然亦遇時。漢興八十余年矣,上方郷文学,招俊乂,以広儒墨,弘為舉首。主父偃当路,諸公皆誉之,及名敗身誅,士争言其悪。悲夫!太皇太后詔大司徒大司空:「蓋聞治国之道,富民為始;富民之要,在於節倹。《孝経》曰『安上治民,莫善於礼』。『礼,与奢也寧倹』。昔者管仲相斉桓,覇諸侯,有九合一匡之功,而仲尼謂之不知礼,以其奢泰侈擬於君故也。夏禹卑宮室,悪衣服,后聖不循。由此言之,治之盛也,徳優矣,莫高於倹。倹化俗民,則尊卑之序得,而骨肉之恩親,争訟之原息。斯乃家給人足,刑錯之本也歟?可不務哉!夫三公者,百寮之率,万民之表也。未有樹直表而得曲影者也。孔子不云乎,『子率而正,孰敢不正』。『舉善而教不能則勧』。維漢興以来,股肱宰臣身行倹約,軽財重義,較然著明,未有若故丞相平津侯公孫弘者也。位在丞相而為布被,脱粟之飯,不過一肉。故人所善賓客皆分奉禄以給之,無有所余。誠内自克約而外従制。汲黯詰之,乃聞于朝,此可謂減於制度而可施行者也。徳優則行,否則止,与内奢泰而外為詭服以釣虚誉者殊科。以病乞骸骨,孝武皇帝即制曰『賞有功,褒有徳,善善悪悪,君宜知之。
書き下し
太史公曰く、公孫弘は行義修まると雖も、然れども亦時に遇ふ。漢興りて八十余年、上方に文学に郷ひ、俊乂を招き、以て儒墨を広む、弘挙首為り。主父偃路に当たるや、諸公皆之を誉む、名敗れ身誅せらるるに及び、士争ひて其の悪を言ふ。悲しいかな。太皇太后大司徒・大司空に詔す、「蓋し聞く国を治むるの道は、民を富ますを始めと為す。民を富ますの要は、節倹に在りと。孝経に曰く『上を安んじ民を治むるは、礼より善きは莫し』と。『礼は、其の奢らんよりは寧ろ倹なれ』と。昔者管仲斉の桓に相として、諸侯に霸たり、九合一匡の功有り、而れども仲尼之を礼を知らずと謂ふ、其の奢泰侈にして君に擬するを以ての故なり。夏禹は宮室を卑くし、衣服を悪しくす、後聖循はず。此に由りて之を言へば、治の盛んなるや、徳優れり、倹より高きは莫し。倹以て俗民を化せば、則ち尊卑の序得て、骨肉の恩親しく、争訟の原息む。斯れ乃ち家給し人足り、刑錯くの本なるか。務めざるべけんや。夫れ三公は、百寮の率、万民の表なり。未だ直き表を樹てて曲れる影を得る者有らざるなり。孔子云はずや、『子率ゐて正しければ、孰か敢て正しからざらん』と。『善を挙げて不能を教ふれば則ち勧む』と。維れ漢興りて以来、股肱の宰臣の身に倹約を行ひ、財を軽んじ義を重んずること、較然として著明なる、未だ故丞相平津侯公孫弘の若き者有らざるなり。位丞相に在りて布被を為し、脱粟の飯、一肉に過ぎず。故人の善くする所の賓客に皆奉禄を分かちて以て之に給し、余す所有る無し。誠に内に自ら克約して外に制に従ふ。汲黯之を詰り、乃ち朝に聞こゆ、此れ制度より減じて施行すべき者と謂ふべきなり。徳優るれば則ち行ひ、否ざれば則ち止む、内に奢泰にして外に詭服を為して以て虚誉を釣る者とは科を殊にす。病を以て骸骨を乞ふや、孝武皇帝即ち制して曰く『功有るを賞し、徳有るを褒め、善を善とし悪を悪とす、君宜しく之を知るべし。
現代語訳
太史公(司馬遷)はいう。公孫弘は行いと義は修まっていたが、やはり時運にも恵まれた。漢が興って八十余年、主上がちょうど学問に心を向け、優れた人材を招いて儒家・墨家の学を広めようとしていたときで、弘はその筆頭に挙げられたのである。主父偃が要職にあったときは、諸公がみな彼を褒めたが、名声が地に落ち身が誅されると、士人たちは争ってその悪を言い立てた。悲しいことだ。太皇太后が大司徒・大司空に詔した。「聞くところでは、国を治める道は民を豊かにすることから始まり、民を豊かにする要は節約にあるという。『孝経』に『上を安んじ民を治めるには、礼より善いものはない』といい、(『論語』に)『礼は、贅沢であるよりはむしろ質素であれ』という。昔、管仲は斉の桓公の宰相として諸侯の覇者とし、諸侯を九たび会合させ天下を一たび正す功を立てたが、孔子は彼を礼を知らないと評した。その贅沢ぶりが主君に並ぶほどだったからである。夏の禹王は宮殿を低くし、衣服を粗末にしたが、後の聖王はそれに倣わなかった。ここから言えば、政治の盛んなとき、徳の優れたことで、倹約にまさるものはない。倹約によって民の風俗を感化すれば、尊卑の秩序が保たれ、肉親の恩愛は親密になり、争いや訴えの源はやむ。これこそ家々が満ち足り人々が不足なく、刑罰を置いたまま用いずに済む根本ではないか。努めずにいられようか。そもそも三公は百官の統率者であり、万民の手本である。まっすぐな柱を立てて曲がった影を得た者はいまだかつてない。孔子も言っているではないか、『あなたが率先して正しければ、誰があえて正しくないことをしようか』『善い者を挙げ用い、できない者を教えれば、人々は励む』と。漢が興ってこのかた、君主の手足となる宰相で、自ら倹約を行い、財を軽んじ義を重んじたことがはっきりと明らかな者として、故丞相平津侯公孫弘に及ぶ者はいない。位は丞相でありながら布の夜具を用い、玄米の飯に肉は一品にすぎなかった。旧友や親しい賓客にはみな俸禄を分けて与え、余すところがなかった。まことに内には自らを抑え、外には制度に従った。汲黯がこれを詰問したことで朝廷に知られたが、これは制度より切り詰めても施行できるものと言うべきである。徳が優れていれば行い、そうでなければやめる。内では贅沢をしながら外では偽りの質素な身なりをして虚名を釣る者とは、まったく類が違う。病によって辞職を願い出たとき、孝武皇帝はすぐに詔して言われた。『功ある者を賞し、徳ある者を褒め、善を善とし悪を悪とする。君はそれを知っているはずだ。
解説
関連する章句
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史記 平津侯主父列伝弘の為人恢奇にして多聞、常に称して以為らく人主は広大ならざるを病とし、人臣は倹節ならざるを病とす、と。弘布被を為り、食に肉を重ねず。毎に朝会議するに、其の端を開陳し、人主をして自ら択ばしめ、面折庭争するを肯んぜず。是に於て天子其の行の敦厚にして、辯論余り有り、文法吏事に習ひ、而も又緣飾するに儒術を以てするを察し、上大いに之を説ぶ。
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史記 平津侯主父列伝卒に弘を以て丞相と為し、平津侯に封ず。弘人と為り意忌、外は寛にして内は深し。諸々の嘗て弘と卻有る者は、詳りて与に善しと雖も、陰に其の禍を報ず。主父偃を殺し、董仲舒を膠西に徙すは、皆弘の力なり。一肉脱粟の飯を食ふ。故人の善くする所の賓客、衣食を仰ぐ、弘の奉禄皆以て之に給し、家に余す所無し。士も亦此を以て之を賢とす。淮南・衡山謀反し、党与を治むること方に急なり。弘病甚し、自ら以為へらく功無くして封ぜられ、位丞相に至る、宜しく明主を佐けて国家を填撫し、人をして臣子の道に由らしむべし。今諸侯畔逆の計有り、此れ皆宰相職を奉じて称はざるなり、恐らくは窃かに病死し、以て責を塞ぐ無からんと。乃ち上書して曰く、「臣聞く天下の通道は五、之を行ふ所以の者は三。曰く君臣、父子、兄弟、夫婦、長幼の序、此の五者は天下の通道なり。智、仁、勇、此の三者は天下の通徳、之を行ふ所以の者なり。故に曰く『力行は仁に近く、好問は智に近く、知恥は勇に近し』と。此の三者を知れば、則ち自ら治むる所以を知る。自ら治むる所以を知りて、然る後に人を治むる所以を知る。天下未だ自ら治むること能はずして能く人を治むる者有らざるなり、此れ百世易はらざるの道なり。今陛下躬ら大孝を行ひ、三王に鑑み、周道を建て、文武を兼ね、賢を厲まし禄を予へ、能を量りて官を授く。今臣弘罷駑の質、汗馬の労無し、陛下過意して臣弘を卒伍の中より擢き、封じて列侯と為し、位を三公に致す。臣弘行能以て称ふに足らず、素より負薪の病有り、恐らくは狗馬に先んじて溝壑を填め、終に以て徳に報い責を塞ぐ無からん。願はくは侯印を帰し、骸骨を乞ひ、賢者の路を避けん」と。天子報じて曰く、「古者功有るを賞し、徳を襃め、成を守るには文を尚び、遭遇には武を右ぶ、未だ此を易ふる者有らざるなり。
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史記 平津侯主父列伝其れ思慮を省き、精神を存し、輔くるに医薬を以てせよ』と。告を賜ひて病を治めしめ、牛酒雑帛あり。居ること数月、瘳ゆる有り、事を視る。元狩二年に至り、竟に善く相位に終ふ。夫れ臣を知るは君に若くは莫し、此れ其の効なり。弘の子度爵を嗣ぎ、後に山陽太守と為り、法に坐して侯を失ふ。夫れ徳を表し義を章かにするは、俗を率ゐ化を厲ます所以にして、聖王の制、易はらざるの道なり。其れ弘の後の子孫の次に当に後為るべき者に爵関内侯を賜ひ、食邑三百戸、徴して公車に詣らしめ、名を尚書に上れ、朕親ら臨みて拝せん」と。班固称して曰く、公孫弘・卜式・兒寛は皆鴻漸の翼を以て燕雀に困しみ、跡を羊豕の間に遠ざく、其の時に遇ふに非ずんば、焉んぞ能く此の位を致さんや。是の時漢興りて六十余載、海内乂安にして、府庫充実し、而して四夷未だ賓はず、制度多く闕く、上方に文武を用ひんと欲し、之を求むること及ばざるが如し。始め蒲輪を以て枚生を迎へ、主父を見て嘆息す。群臣慕向し、異人并び出づ。卜式は芻牧より試みられ、弘羊は賈豎より擢かれ、衛青は奴僕より奮ひ、日磾は降虜より出づ、斯れ亦曩時の版築飯牛の朋なり。漢の人を得る、茲に於て盛んと為す。儒雅は則ち公孫弘・董仲舒・兒寛、篤行は則ち石建・石慶、質直は則ち汲黯・卜式、推賢は則ち韓安国・鄭当時、定令は則ち趙禹・張湯、文章は則ち司馬遷・相如、滑稽は則ち東方朔・枚皋、応対は則ち厳助・朱買臣、歴数は則ち唐都・落下閎、協律は則ち李延年、運籌は則ち桑弘羊、奉使は則ち張騫・蘇武、将帥は則ち衛青・霍去病、受遺は則ち霍光・金日磾。其の余は勝げて紀すべからず。是を以て功業を興造し、制度遺文、後世及ぶ莫し。
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史記 平津侯主父列伝朕宿昔庶幾はくは尊位を承くるを獲たり、寧んずること能はざるを懼る、惟だ与に共に治を為す所の者、君宜しく之を知るべし。蓋し君子は善を善とし悪を悪とす、君若し謹みて行はば、常に朕の躬に在り。君不幸にして霜露の病に罹る、何の恙か已まざらん、乃ち上書して侯を帰し、骸骨を乞ふ、是れ朕の不徳を章かにするなり。今事少しく閒なり、君其れ思慮を省き、精神を一にし、輔くるに医薬を以てせよ」と。因りて告を賜ひ牛酒雑帛あり。居ること数月、病瘳ゆる有り、事を視る。元狩二年、弘病み、竟に丞相を以て終ふ。子度嗣ぎて平津侯と為る。度山陽太守と為ること十余歳、法に坐して侯を失ふ。主父偃は、斉の臨菑の人なり。長短縦横の術を学び、晩に乃ち易・春秋・百家の言を学ぶ。斉の諸生の間に游ぶも、能く厚く遇する莫きなり。斉の諸儒生相与に排擯し、斉に容れられず。家貧しく、仮貸するも得る所無し、乃ち北のかた燕・趙・中山に游ぶも、皆能く厚く遇する莫く、客と為りて甚だ困しむ。孝武の元光元年中、以為へらく諸侯游ぶに足る者莫しと、乃ち西して関に入り衛将軍に見ゆ。衛将軍数々上に言ふも、上召さず。資用乏しく、留まること久しく、諸公の賓客多く之を厭ふ、乃ち闕下に上書す。朝に奏し、暮に召されて入り見ゆ。言ふ所九事、其の八事は律令為り、一事は匈奴を伐つを諫む。其の辞に曰く、臣聞く明主は切諫を悪まずして以て博く観、忠臣は敢て重誅を避けずして以て直諫す、是の故に事に遺策無くして功万世に流る。今臣敢て忠を隠し死を避けずして以て愚計を效す、願はくは陛下幸ひに赦して少しく之を察せよ。
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史記 平津侯主父列伝汲黯曰く、「弘位三公に在り、奉祿甚だ多し。然れども布被を為る、此れ詐なり」と。上弘に問ふ。弘謝して曰く、「之れ有り。夫れ九卿の臣と善き者は黯に過ぐる無し、然れども今日弘を庭詰す、誠に弘の病に中たる。夫れ三公を以て布被を為るは、誠に詐を飾りて以て名を釣らんと欲す。今臣弘位御史大夫為り、而して布被を為る、九卿より以下小吏に至るまで、差無し、誠に汲黯の言のごとし。且つ汲黯の忠無くんば、陛下安くんぞ此の言を聞くを得ん」と。天子以為らく謙譲なりと、愈いよ益ます之を厚くす。
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