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史記 / 平津侯主父列伝

偃盛言朔方地肥饒,外阻河,蒙恬城之以逐匈奴,內省轉輸戍漕,廣中國,滅胡之本也。上覽其說,下公卿議,皆言不便。公孫弘曰:「秦時常發三十萬眾筑北河,終不可就,已而棄之。」主父偃盛言其便,上竟用主父計,立朔方郡。元朔二年,主父言齊王內淫佚行僻,上拜主父為齊相。至齊,遍召昆弟賓客,散五百金予之,數之曰:「始吾貧時,昆弟不我衣食,賓客不我內門;今吾相齊,諸君迎我或千里。吾與諸君絕矣,毋復入偃之門!」乃使人以王與姊姦事動王,王以為終不得脫罪,恐效燕王論死,乃自殺。有司以聞。主父始為布衣時,嘗游燕、趙,及其貴,發燕事。趙王恐其為國患,欲上書言其陰事,為偃居中,不敢發。及為齊相,出關,即使人上書,告言主父偃受諸侯金,以故諸侯子弟多以得封者。及齊王自殺,上聞大怒,以為主父劫其王令自殺,乃徵下吏治。主父服受諸侯金,實不劫王令自殺。上欲勿誅,是時公孫弘為御史大夫,乃言曰:「齊王自殺無後,國除為郡,入漢,主父偃本首惡,陛下不誅主父偃,無以謝天下。」乃遂族主父偃。主父方貴幸時,賓客以千數,及其族死,無一人收者,唯獨洨孔車收葬之。天子后聞之,以為孔車長者也。

新字:偃盛言朔方地肥饒,外阻河,蒙恬城之以逐匈奴,内省転輸戍漕,広中国,滅胡之本也。上覧其説,下公卿議,皆言不便。公孫弘曰:「秦時常発三十万衆筑北河,終不可就,已而棄之。」主父偃盛言其便,上竟用主父計,立朔方郡。元朔二年,主父言斉王内淫佚行僻,上拝主父為斉相。至斉,遍召昆弟賓客,散五百金予之,数之曰:「始吾貧時,昆弟不我衣食,賓客不我内門;今吾相斉,諸君迎我或千里。吾与諸君絶矣,毋復入偃之門!」乃使人以王与姊姦事動王,王以為終不得脱罪,恐効燕王論死,乃自殺。有司以聞。主父始為布衣時,嘗游燕、趙,及其貴,発燕事。趙王恐其為国患,欲上書言其陰事,為偃居中,不敢発。及為斉相,出関,即使人上書,告言主父偃受諸侯金,以故諸侯子弟多以得封者。及斉王自殺,上聞大怒,以為主父劫其王令自殺,乃徴下吏治。主父服受諸侯金,実不劫王令自殺。上欲勿誅,是時公孫弘為御史大夫,乃言曰:「斉王自殺無後,国除為郡,入漢,主父偃本首悪,陛下不誅主父偃,無以謝天下。」乃遂族主父偃。主父方貴幸時,賓客以千数,及其族死,無一人収者,唯独洨孔車収葬之。天子后聞之,以為孔車長者也。

書き下し

偃盛んに言ふ、朔方の地は肥饒にして、外は河に阻まれ、蒙恬之に城きて以て匈奴を逐ふ、内は転輸戍漕を省き、中国を広む、胡を滅ぼすの本なりと。上其の説を覧て、公卿に下して議せしむ、皆便ならずと言ふ。公孫弘曰く、「秦の時常に三十万の衆を発して北河に築くも、終に就すべからず、已にして之を棄つ」と。主父偃盛んに其の便を言ひ、上竟に主父の計を用ひ、朔方郡を立つ。元朔二年、主父言ふ、斉王内に淫佚にして行ひ僻なりと、上主父を拝して斉の相と為す。斉に至り、遍く昆弟賓客を召し、五百金を散じて之に予へ、之を数めて曰く、「始め吾貧しき時、昆弟我に衣食せしめず、賓客我を門に内れず。今吾斉に相たり、諸君我を迎ふること或いは千里。吾諸君と絶てり、復た偃の門に入ること毋かれ」と。乃ち人をして王と姊との姦事を以て王を動かさしむ、王以為へらく終に罪を脱るるを得ずと、燕王に效ひて死を論ぜられんことを恐れ、乃ち自殺す。有司以て聞す。主父始め布衣為りし時、嘗て燕・趙に游び、其の貴きに及び、燕の事を発す。趙王其の国の患ひと為らんことを恐れ、上書して其の陰事を言はんと欲するも、偃中に居るが為に、敢て発せず。斉の相と為りて、関を出づるに及び、即ち人をして上書せしめ、主父偃諸侯の金を受け、故を以て諸侯の子弟多く以て封を得る者ありと告言す。斉王自殺するに及び、上聞きて大いに怒り、以為へらく主父其の王を劫して自殺せしむと、乃ち徴して吏に下して治む。主父諸侯の金を受くるに服するも、実は王を劫して自殺せしめず。上誅すること勿からんと欲す、是の時公孫弘御史大夫為り、乃ち言ひて曰く、「斉王自殺して後無く、国除かれて郡と為り、漢に入る、主父偃は本首悪なり、陛下主父偃を誅せずんば、以て天下に謝する無し」と。乃ち遂に主父偃を族す。主父方に貴幸なりし時、賓客千を以て数ふ、其の族死するに及び、一人の収むる者無し、唯だ独り洨の孔車之を収めて葬る。天子後に之を聞き、以為へらく孔車は長者なりと。

現代語訳

偃は盛んに主張した。「朔方の地は肥沃で、外は黄河に守られている。蒙恬がここに城を築いて匈奴を追い払った。内には物資の転送や守備・水運の手間を省き、中国の版図を広げる。胡を滅ぼす根本である」。主上はその説を読み、公卿に下して議論させたが、皆が不都合だと言った。公孫弘は言った。「秦の時代には常に三十万の兵を動員して北河に城を築いたが、ついに完成せず、やがて放棄した」。主父偃は盛んにその利点を説き、主上は結局主父偃の計を用いて朔方郡を立てた。元朔二年(前127年)、主父偃が斉王は奥向きで淫らな暮らしをし、行いが道に外れていると言ったので、主上は主父偃を斉の相に任じた。斉に着くと、兄弟や旧知の賓客をことごとく呼び集め、五百金をばらまいて与え、責めて言った。「はじめわたしが貧しかったとき、兄弟はわたしに衣食を与えず、賓客はわたしを門に入れなかった。今わたしが斉の相になると、諸君は千里の遠くまで迎えに来る者さえいる。わたしは諸君と縁を切った。二度と偃の門に入るな」。そして人を使い、王が姉と通じている件で王を揺さぶらせた。王はついに罪を免れられないと考え、燕王のように死罪を論じられることを恐れて自殺した。役人がこれを上聞した。主父偃は無位無官だったころ燕・趙に遊説したことがあり、貴い身になると燕王の事件を暴いた。趙王は偃が自国の災いになることを恐れ、上書して偃の隠し事を訴えようとしたが、偃が朝廷の中枢にいたので、あえて告発しなかった。偃が斉の相となって関所を出ると、すぐに人をやって上書させ、主父偃は諸侯から金を受け取り、そのために諸侯の子弟の多くが封地を得たのだ、と告発した。斉王が自殺すると、主上はそれを聞いて大いに怒り、主父偃が王を脅して自殺させたと考え、召し出して獄吏に下して取り調べさせた。主父偃は諸侯から金を受け取ったことは認めたが、実際には王を脅して自殺させてはいなかった。主上は誅殺しないでおこうと思った。このとき公孫弘は御史大夫であったが、こう言った。「斉王は自殺して跡継ぎがなく、国は廃されて郡となり漢に編入された。主父偃はもともとの首謀者である。陛下が主父偃を誅さなければ、天下に申し開きができない」。こうしてついに主父偃を一族もろとも誅殺した。主父偃が権勢を誇り寵愛されていたときは、賓客は千人を数えたが、一族が死ぬと、遺骸を引き取る者は一人もいなかった。ただ洨(こう)の孔車だけが引き取って葬った。天子は後にこれを聞き、孔車は徳のある人物だと考えた。

解説

主父偃の絶頂と破滅を一気に描く段です。朔方郡の設置では公孫弘の反対を押し切って自説を通し、斉の相になると、貧しいとき冷たかった親族や賓客に金をばらまいて絶縁を言い渡すという、恨みを晴らす振る舞いに出ます。さらに斉王の醜聞を突いて自殺に追い込んだため、かつて暴かれた燕の件で偃を恐れていた趙王が、偃が都を離れた隙に収賄を告発しました。武帝は許そうとしたのに、公孫弘の一言で一族皆殺しとなります。前の段で弘が主父偃を殺したと書かれていたのはこのことです。賓客千人が一人も遺骸を引き取らず、孔車だけが葬ったという結末に、司馬遷は権勢に群がる人間関係のはかなさを込めています。力を得たときの振る舞いが、そのまま失ったときの孤立につながることを教える話です。

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