史記 / 平津侯主父列伝
其省思慮,存精神,輔以醫藥』。賜告治病,牛酒雜帛。居數月,有瘳,視事。至元狩二年,竟以善終于相位。夫知臣莫若君,此其效也。弘子度嗣爵,后為山陽太守,坐法失侯。夫表德章義,所以率俗厲化,聖王之制,不易之道也。其賜弘後子孫之次當為後者爵關內侯,食邑三百戶,徵詣公車,上名尚書,朕親臨拜焉。」班固稱曰:公孫弘、卜式、兒寬皆以鴻漸之翼困於燕雀,遠跡羊豕之閒,非遇其時,焉能致此位乎?是時漢興六十餘載,海內乂安,府庫充實,而四夷未賓,制度多闕,上方欲用文武,求之如弗及。始以蒲輪迎枚生,見主父而嘆息。群臣慕向,異人并出。卜式試於芻牧,弘羊擢於賈豎,衛青奮於奴仆,日磾出於降虜,斯亦曩時版筑飯牛之朋矣。漢之得人,於茲為盛。儒雅則公孫弘、董仲舒、兒寬,篤行則石建、石慶,質直則汲黯、卜式,推賢則韓安國、鄭當時,定令則趙禹、張湯,文章則司馬遷、相如,滑稽則東方朔、枚皋,應對則嚴助、朱買臣,歷數則唐都、落下閎,協律則李延年,運籌則桑弘羊,奉使則張騫、蘇武,將帥則衛青、霍去病,受遺則霍光、金日磾。其餘不可勝紀。是以興造功業,制度遺文,後世莫及。
新字:其省思慮,存精神,輔以医薬』。賜告治病,牛酒雑帛。居数月,有瘳,視事。至元狩二年,竟以善終于相位。夫知臣莫若君,此其効也。弘子度嗣爵,后為山陽太守,坐法失侯。夫表徳章義,所以率俗厲化,聖王之制,不易之道也。其賜弘後子孫之次当為後者爵関内侯,食邑三百戸,徴詣公車,上名尚書,朕親臨拝焉。」班固称曰:公孫弘、卜式、児寛皆以鴻漸之翼困於燕雀,遠跡羊豕之閒,非遇其時,焉能致此位乎?是時漢興六十余載,海内乂安,府庫充実,而四夷未賓,制度多闕,上方欲用文武,求之如弗及。始以蒲輪迎枚生,見主父而嘆息。群臣慕向,異人并出。卜式試於芻牧,弘羊擢於賈豎,衛青奮於奴仆,日磾出於降虜,斯亦曩時版筑飯牛之朋矣。漢之得人,於茲為盛。儒雅則公孫弘、董仲舒、児寛,篤行則石建、石慶,質直則汲黯、卜式,推賢則韓安国、鄭当時,定令則趙禹、張湯,文章則司馬遷、相如,滑稽則東方朔、枚皋,応対則厳助、朱買臣,歴数則唐都、落下閎,協律則李延年,運籌則桑弘羊,奉使則張騫、蘇武,将帥則衛青、霍去病,受遺則霍光、金日磾。其余不可勝紀。是以興造功業,制度遺文,後世莫及。
書き下し
其れ思慮を省き、精神を存し、輔くるに医薬を以てせよ』と。告を賜ひて病を治めしめ、牛酒雑帛あり。居ること数月、瘳ゆる有り、事を視る。元狩二年に至り、竟に善く相位に終ふ。夫れ臣を知るは君に若くは莫し、此れ其の効なり。弘の子度爵を嗣ぎ、後に山陽太守と為り、法に坐して侯を失ふ。夫れ徳を表し義を章かにするは、俗を率ゐ化を厲ます所以にして、聖王の制、易はらざるの道なり。其れ弘の後の子孫の次に当に後為るべき者に爵関内侯を賜ひ、食邑三百戸、徴して公車に詣らしめ、名を尚書に上れ、朕親ら臨みて拝せん」と。班固称して曰く、公孫弘・卜式・兒寛は皆鴻漸の翼を以て燕雀に困しみ、跡を羊豕の間に遠ざく、其の時に遇ふに非ずんば、焉んぞ能く此の位を致さんや。是の時漢興りて六十余載、海内乂安にして、府庫充実し、而して四夷未だ賓はず、制度多く闕く、上方に文武を用ひんと欲し、之を求むること及ばざるが如し。始め蒲輪を以て枚生を迎へ、主父を見て嘆息す。群臣慕向し、異人并び出づ。卜式は芻牧より試みられ、弘羊は賈豎より擢かれ、衛青は奴僕より奮ひ、日磾は降虜より出づ、斯れ亦曩時の版築飯牛の朋なり。漢の人を得る、茲に於て盛んと為す。儒雅は則ち公孫弘・董仲舒・兒寛、篤行は則ち石建・石慶、質直は則ち汲黯・卜式、推賢は則ち韓安国・鄭当時、定令は則ち趙禹・張湯、文章は則ち司馬遷・相如、滑稽は則ち東方朔・枚皋、応対は則ち厳助・朱買臣、歴数は則ち唐都・落下閎、協律は則ち李延年、運籌は則ち桑弘羊、奉使は則ち張騫・蘇武、将帥は則ち衛青・霍去病、受遺は則ち霍光・金日磾。其の余は勝げて紀すべからず。是を以て功業を興造し、制度遺文、後世及ぶ莫し。
現代語訳
思い煩いを減らし、精神を保ち、医薬で養生せよ』と。休暇を与えて病を治療させ、牛と酒とさまざまな絹を賜った。数か月して病は癒え、再び政務をとった。元狩二年に至って、ついに丞相の位のまま天寿を全うした。臣下を知ることは君主に及ぶ者はないというが、これがその証である。弘の子の度が爵位を継ぎ、後に山陽太守となったが、法に触れて侯位を失った。そもそも徳を表彰し義を明らかにするのは、風俗を導き教化を励ますためであり、聖王の制度であって変わらぬ道である。弘の子孫のうち順序として跡継ぎとなるべき者に関内侯の爵位を賜い、食邑三百戸を与え、召し出して公車(上書や召見を扱う役所)に出頭させ、名を尚書に届けよ。朕が自ら臨んで任命しよう」。班固は称えて言った。公孫弘・卜式・兒寛(げいかん)はみな、大鳥のような翼を持ちながら燕や雀の間で苦しみ、羊や豚を飼う暮らしに身を隠していた。時運に恵まれなければ、どうしてこの位に至れただろうか。このころ漢が興って六十余年、天下は治まって安らかで、国庫は満ちていたが、四方の異民族はまだ服従せず、制度にも欠けたところが多かった。主上はちょうど文武の人材を用いようとし、追いつけないかのように熱心に求めた。はじめ蒲の葉で車輪を包んだ車で枚生(枚乗)を迎え、主父偃に会っては嘆息した。群臣は慕い寄り、非凡な人物が次々と現れた。卜式は牧畜の中から試用され、桑弘羊は商人の子から抜擢され、衛青は奴僕の身から奮い立ち、金日磾(きんじつてい)は降伏した捕虜の中から出た。これもまた、昔の版築の土木工(傅説)や牛飼い(甯戚)の仲間である。漢が人材を得たのは、この時代が最も盛んであった。儒学の雅やかさでは公孫弘・董仲舒・兒寛、行いの篤さでは石建・石慶、素朴な剛直さでは汲黯・卜式、賢者の推薦では韓安国・鄭当時、法令の制定では趙禹・張湯、文章では司馬遷・司馬相如、滑稽では東方朔・枚皋、応対の弁では厳助・朱買臣、暦数では唐都・落下閎、音律の調整では李延年、財政の計略では桑弘羊、使節では張騫・蘇武、将帥では衛青・霍去病、遺詔を受けて幼帝を補佐した者では霍光・金日磾。その他は数えきれない。こうして功業を興し、制度や残された文章は、後世の及ぶところではなかった。
解説
関連する章句
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史記 平津侯主父列伝太史公曰く、公孫弘は行義修まると雖も、然れども亦時に遇ふ。漢興りて八十余年、上方に文学に郷ひ、俊乂を招き、以て儒墨を広む、弘挙首為り。主父偃路に当たるや、諸公皆之を誉む、名敗れ身誅せらるるに及び、士争ひて其の悪を言ふ。悲しいかな。太皇太后大司徒・大司空に詔す、「蓋し聞く国を治むるの道は、民を富ますを始めと為す。民を富ますの要は、節倹に在りと。孝経に曰く『上を安んじ民を治むるは、礼より善きは莫し』と。『礼は、其の奢らんよりは寧ろ倹なれ』と。昔者管仲斉の桓に相として、諸侯に霸たり、九合一匡の功有り、而れども仲尼之を礼を知らずと謂ふ、其の奢泰侈にして君に擬するを以ての故なり。夏禹は宮室を卑くし、衣服を悪しくす、後聖循はず。此に由りて之を言へば、治の盛んなるや、徳優れり、倹より高きは莫し。倹以て俗民を化せば、則ち尊卑の序得て、骨肉の恩親しく、争訟の原息む。斯れ乃ち家給し人足り、刑錯くの本なるか。務めざるべけんや。夫れ三公は、百寮の率、万民の表なり。未だ直き表を樹てて曲れる影を得る者有らざるなり。孔子云はずや、『子率ゐて正しければ、孰か敢て正しからざらん』と。『善を挙げて不能を教ふれば則ち勧む』と。維れ漢興りて以来、股肱の宰臣の身に倹約を行ひ、財を軽んじ義を重んずること、較然として著明なる、未だ故丞相平津侯公孫弘の若き者有らざるなり。位丞相に在りて布被を為し、脱粟の飯、一肉に過ぎず。故人の善くする所の賓客に皆奉禄を分かちて以て之に給し、余す所有る無し。誠に内に自ら克約して外に制に従ふ。汲黯之を詰り、乃ち朝に聞こゆ、此れ制度より減じて施行すべき者と謂ふべきなり。徳優るれば則ち行ひ、否ざれば則ち止む、内に奢泰にして外に詭服を為して以て虚誉を釣る者とは科を殊にす。病を以て骸骨を乞ふや、孝武皇帝即ち制して曰く『功有るを賞し、徳有るを褒め、善を善とし悪を悪とす、君宜しく之を知るべし。
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史記 平津侯主父列伝朕宿昔庶幾はくは尊位を承くるを獲たり、寧んずること能はざるを懼る、惟だ与に共に治を為す所の者、君宜しく之を知るべし。蓋し君子は善を善とし悪を悪とす、君若し謹みて行はば、常に朕の躬に在り。君不幸にして霜露の病に罹る、何の恙か已まざらん、乃ち上書して侯を帰し、骸骨を乞ふ、是れ朕の不徳を章かにするなり。今事少しく閒なり、君其れ思慮を省き、精神を一にし、輔くるに医薬を以てせよ」と。因りて告を賜ひ牛酒雑帛あり。居ること数月、病瘳ゆる有り、事を視る。元狩二年、弘病み、竟に丞相を以て終ふ。子度嗣ぎて平津侯と為る。度山陽太守と為ること十余歳、法に坐して侯を失ふ。主父偃は、斉の臨菑の人なり。長短縦横の術を学び、晩に乃ち易・春秋・百家の言を学ぶ。斉の諸生の間に游ぶも、能く厚く遇する莫きなり。斉の諸儒生相与に排擯し、斉に容れられず。家貧しく、仮貸するも得る所無し、乃ち北のかた燕・趙・中山に游ぶも、皆能く厚く遇する莫く、客と為りて甚だ困しむ。孝武の元光元年中、以為へらく諸侯游ぶに足る者莫しと、乃ち西して関に入り衛将軍に見ゆ。衛将軍数々上に言ふも、上召さず。資用乏しく、留まること久しく、諸公の賓客多く之を厭ふ、乃ち闕下に上書す。朝に奏し、暮に召されて入り見ゆ。言ふ所九事、其の八事は律令為り、一事は匈奴を伐つを諫む。其の辞に曰く、臣聞く明主は切諫を悪まずして以て博く観、忠臣は敢て重誅を避けずして以て直諫す、是の故に事に遺策無くして功万世に流る。今臣敢て忠を隠し死を避けずして以て愚計を效す、願はくは陛下幸ひに赦して少しく之を察せよ。
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史記 平津侯主父列伝孝宣統を承け、洪業を纂修し、亦六芸を講論し、茂異を招選す、而して蕭望之・梁丘賀・夏侯勝・韋玄成・厳彭祖・尹更始儒術を以て進み、劉向・王褒文章を以て顕はる。将相は則ち張安世・趙充国・魏相・邴吉・于定国・杜延年、民を治むるは則ち黄霸・王成・龔遂・鄭弘・邵信臣・韓延寿・尹翁帰・趙広漢の属、皆功跡有りて後に述べらる。其の名臣を累ぬれば、亦其の次なり。
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