史記 / 平津侯主父列伝
今郡守之權,非特六卿之重也;地幾千里,非特閭巷之資也;甲兵器械,非特棘矜之用也:以遭萬世之變,則不可稱諱也。書奏天子,天子召見三人,謂曰:「公等皆安在?何相見之晚也!」於是上乃拜主父偃、徐樂、嚴安為郎中。偃數見,上疏言事,詔拜偃為謁者,遷為中大夫。一歲中四遷偃。偃說上曰:「古者諸侯不過百里,彊弱之形易制。今諸侯或連城數十,地方千里,緩則驕奢易為淫亂,急則阻其彊而合從以逆京師。今以法割削之,則逆節萌起,前日晁錯是也。今諸侯子弟或十數,而適嗣代立,餘雖骨肉,無尺寸地封,則仁孝之道不宣。願陛下令諸侯得推恩分子弟,以地侯之。彼人人喜得所願,上以德施,實分其國,不削而稍弱矣。」於是上從其計。又說上曰:「茂陵初立,天下豪桀并兼之家,亂眾之民,皆可徙茂陵,內實京師,外銷姦猾,此所謂不誅而害除。」上又從其計。尊立衛皇后,及發燕王定國陰事,蓋偃有功焉。
新字:今郡守之権,非特六卿之重也;地幾千里,非特閭巷之資也;甲兵器械,非特棘矜之用也:以遭万世之変,則不可称諱也。書奏天子,天子召見三人,謂曰:「公等皆安在?何相見之晩也!」於是上乃拝主父偃、徐楽、厳安為郎中。偃数見,上疏言事,詔拝偃為謁者,遷為中大夫。一歳中四遷偃。偃説上曰:「古者諸侯不過百里,彊弱之形易制。今諸侯或連城数十,地方千里,緩則驕奢易為淫乱,急則阻其彊而合従以逆京師。今以法割削之,則逆節萌起,前日晁錯是也。今諸侯子弟或十数,而適嗣代立,余雖骨肉,無尺寸地封,則仁孝之道不宣。願陛下令諸侯得推恩分子弟,以地侯之。彼人人喜得所願,上以徳施,実分其国,不削而稍弱矣。」於是上従其計。又説上曰:「茂陵初立,天下豪桀并兼之家,乱衆之民,皆可徙茂陵,内実京師,外銷姦猾,此所謂不誅而害除。」上又従其計。尊立衛皇后,及発燕王定国陰事,蓋偃有功焉。
書き下し
今郡守の権は、特に六卿の重きのみに非ざるなり。地幾千里、特に閭巷の資のみに非ざるなり。甲兵器械、特に棘矜の用のみに非ざるなり。以て万世の変に遭はば、則ち称諱すべからざるなり。書天子に奏せられ、天子三人を召見し、謂ひて曰く、「公等皆安くにか在りし。何ぞ相見ることの晩きや」と。是に於て上乃ち主父偃・徐楽・厳安を拝して郎中と為す。偃数々見え、疏を上りて事を言ふ、詔して偃を拝して謁者と為し、遷して中大夫と為す。一歳中に偃を四遷す。偃上に説きて曰く、「古者諸侯は百里に過ぎず、彊弱の形制し易し。今諸侯或いは城を連ぬること数十、地方千里、緩なれば則ち驕奢にして淫乱を為し易く、急なれば則ち其の彊きを阻みて合従して以て京師に逆ふ。今法を以て之を割削せば、則ち逆節萌起す、前日の晁錯是れなり。今諸侯の子弟或いは十数、而して適嗣代はりて立ち、余は骨肉と雖も、尺寸の地の封無し、則ち仁孝の道宣べず。願はくは陛下諸侯をして恩を推して子弟に分かち、地を以て之を侯とするを得しめよ。彼人人願ふ所を得るを喜び、上は徳を以て施し、実は其の国を分かち、削らずして稍々弱からん」と。是に於て上其の計に従ふ。又上に説きて曰く、「茂陵初めて立つ、天下の豪桀并兼の家、衆を乱すの民、皆茂陵に徙すべし、内は京師を実たし、外は姦猾を銷す、此れ所謂誅せずして害除くなり」と。上又其の計に従ふ。衛皇后を尊立し、及び燕王定国の陰事を発するは、蓋し偃功有り。
現代語訳
今、郡守の権力は、かつての六卿の重さどころではない。土地は数千里に及び、村里の元手どころではない。鎧や武器は、茨の柄の矛どころではない。これで万世に一度の変事に遭えば、口にするのもはばかられる事態になろう。上書が天子に奏上されると、天子は三人を召して会い、「あなたがたは今までどこにいたのか。会うのが何と遅かったことか」と言った。そこで主上は主父偃・徐楽・厳安を郎中に任じた。偃はたびたび謁見し、上奏文を奉って政事を論じたので、詔によって謁者に任じ、さらに中大夫に昇進させた。一年のうちに偃を四度も昇進させた。偃は主上に説いた。「昔は諸侯の領地は百里を超えず、強弱の形勢は制御しやすかった。今の諸侯には数十の城を連ね、千里四方の地を持つ者もいる。締めつけを緩めれば驕り贅沢して淫乱に走りやすく、締めつければその強さを頼んで合従して都に逆らう。いま法によって領地を削れば、反逆の芽が生じる。先の晁錯(削藩策で呉楚七国の乱を招いた)がそれである。今、諸侯の子弟は十数人いることもあるのに、嫡子だけが跡を継ぎ、残りは骨肉であっても一寸の土地も封じられない。これでは仁と孝の道が行き渡らない。どうか陛下、諸侯が恩を推し広めて子弟に土地を分け与え、彼らを侯にすることを許してください。人々は願いがかなって喜び、陛下は徳をもって恩恵を施したことになり、実際にはその国を分割するので、削らずして次第に弱まるでしょう」。主上はその計に従った。偃はまた主上に説いた。「茂陵(武帝の陵墓の町)が造られたばかりだ。天下の豪傑や土地を兼併する家、民衆を乱す者たちを、みな茂陵に移住させるべきだ。内には都を充実させ、外には悪賢い者たちを消し去る。これがいわゆる、誅さずして害を除くということです」。主上はまたその計に従った。衛皇后を立てたことや、燕王定国の隠し事を暴いたことにも、偃の功があったとされる。
解説
関連する章句
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『長短経』七雄略武帝、主父の策、推恩の令を施す。〔主父偃、上に説きて曰く「古は諸侯百里に過ぎず、強弱の形、制し易し。今、諸侯或いは城を連ぬること数十、地は方千里。緩なれば則ち驕奢にして、淫乱を為し易く、急なれば則ち其の強きを阻みて合縦し、以て京師に逆らう。今、法を以て割削すれば、則ち逆節萌起す。前日の晁錯是れなり。今、諸侯の子弟或いは十数にして、嫡嗣代わりて立ち、余は骨肉なりと雖も、尺地の封無し。則ち仁孝の道宣べず。願わくは陛下、諸侯をして恩を推し、子弟に地を分かちて之を侯とすることを得しめよ。彼、人々願う所を得るを喜ばん。上は徳を以て施し、実に其の国を分かたば、必ず稍く自ら弱からん」と。上、其の計に従うなり。〕
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『新序』善謀第十孝武皇帝の時、中大夫主父偃策を爲して曰く、古の諸侯は百里に過ぎず。强弱の形制し易きなり。今諸侯或いは城を連ぬること數十、地方千里なり。緩やかなれば則ち驕り、淫亂を爲し易し。急なれば則ち其の强きに阻りて合從し、謀りて以て京師に逆らう。今法を以て之を割かば、即ち逆節萌起せん。前日の晁錯是れなり。今諸侯の子弟或いは十數なり。而して適嗣代わりて立つ。餘は骨肉なりと雖も尺地の封無し。則ち仁孝の道宣べられず。願わくは陛下諸侯をして推恩を得しめ、子弟に分かつに地を以てして之を侯とせよ。彼れ人人願う所を得たるを喜ばん。上は德を以て施し、實は其の國を封ず。而して稍ミ自ら消弱せん、と。是に於いて上其の計に從い、因りて馬及び弩を關して出づるを得ざらしめ、遊說の路を絶ち、諸侯に附益するの法を重くし、其の君を詿誤するの罪を急にす。諸侯王遂に以て弱く、而して合從の事絶えたり。主父偃の謀なり。
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史記 平津侯主父列伝朕宿昔庶幾はくは尊位を承くるを獲たり、寧んずること能はざるを懼る、惟だ与に共に治を為す所の者、君宜しく之を知るべし。蓋し君子は善を善とし悪を悪とす、君若し謹みて行はば、常に朕の躬に在り。君不幸にして霜露の病に罹る、何の恙か已まざらん、乃ち上書して侯を帰し、骸骨を乞ふ、是れ朕の不徳を章かにするなり。今事少しく閒なり、君其れ思慮を省き、精神を一にし、輔くるに医薬を以てせよ」と。因りて告を賜ひ牛酒雑帛あり。居ること数月、病瘳ゆる有り、事を視る。元狩二年、弘病み、竟に丞相を以て終ふ。子度嗣ぎて平津侯と為る。度山陽太守と為ること十余歳、法に坐して侯を失ふ。主父偃は、斉の臨菑の人なり。長短縦横の術を学び、晩に乃ち易・春秋・百家の言を学ぶ。斉の諸生の間に游ぶも、能く厚く遇する莫きなり。斉の諸儒生相与に排擯し、斉に容れられず。家貧しく、仮貸するも得る所無し、乃ち北のかた燕・趙・中山に游ぶも、皆能く厚く遇する莫く、客と為りて甚だ困しむ。孝武の元光元年中、以為へらく諸侯游ぶに足る者莫しと、乃ち西して関に入り衛将軍に見ゆ。衛将軍数々上に言ふも、上召さず。資用乏しく、留まること久しく、諸公の賓客多く之を厭ふ、乃ち闕下に上書す。朝に奏し、暮に召されて入り見ゆ。言ふ所九事、其の八事は律令為り、一事は匈奴を伐つを諫む。其の辞に曰く、臣聞く明主は切諫を悪まずして以て博く観、忠臣は敢て重誅を避けずして以て直諫す、是の故に事に遺策無くして功万世に流る。今臣敢て忠を隠し死を避けずして以て愚計を效す、願はくは陛下幸ひに赦して少しく之を察せよ。
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史記 孝景本紀主父偃の之を言ふに及び、而して諸侯以て弱まり、卒に以て安し。安危の機、豈に謀を以てせざらんや。
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史記 漢興以来諸侯王年表天子、上古を観て、然る後に恵みを加へ、諸侯をして恩を推して子弟に国邑を分かつことを得しむ。故に斉は分かれて七と為り、趙は分かれて六と為り、梁は分かれて五と為り、淮南は三に分かれ、天子の支庶子の王と為り、王子の支庶の侯と為る者に及ぶまで、百有余なり。呉楚の時、前後の諸侯或いは適を以て地を削らる、是を以て燕・代に北辺の郡無く、呉・淮南・長沙に南辺の郡無く、斉・趙・梁・楚の支郡名山陂海は咸漢に納めらる。諸侯稍く微にして、大国は十余城に過ぎず、小侯は数十里に過ぎず、上は以て貢職を奉ずるに足り、下は以て祭祀を供養するに足り、以て京師に蕃輔たり。而して漢の郡は八九十、形は諸侯の間に錯はり、犬牙相臨み、其の阨塞の地の利を秉り、本幹を彊くし、枝葉を弱くするの勢ひ、尊卑明らかにして万事各々其の所を得たり。臣遷謹んで高祖以来太初に至るまでの諸侯を記し、其の下の益損の時を譜し、時世をして覧るを得しむ。形勢彊しと雖も、之を要するに仁義を以て本と為す。
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史記 平津侯主父列伝偃盛んに言ふ、朔方の地は肥饒にして、外は河に阻まれ、蒙恬之に城きて以て匈奴を逐ふ、内は転輸戍漕を省き、中国を広む、胡を滅ぼすの本なりと。上其の説を覧て、公卿に下して議せしむ、皆便ならずと言ふ。公孫弘曰く、「秦の時常に三十万の衆を発して北河に築くも、終に就すべからず、已にして之を棄つ」と。主父偃盛んに其の便を言ひ、上竟に主父の計を用ひ、朔方郡を立つ。元朔二年、主父言ふ、斉王内に淫佚にして行ひ僻なりと、上主父を拝して斉の相と為す。斉に至り、遍く昆弟賓客を召し、五百金を散じて之に予へ、之を数めて曰く、「始め吾貧しき時、昆弟我に衣食せしめず、賓客我を門に内れず。今吾斉に相たり、諸君我を迎ふること或いは千里。吾諸君と絶てり、復た偃の門に入ること毋かれ」と。乃ち人をして王と姊との姦事を以て王を動かさしむ、王以為へらく終に罪を脱るるを得ずと、燕王に效ひて死を論ぜられんことを恐れ、乃ち自殺す。有司以て聞す。主父始め布衣為りし時、嘗て燕・趙に游び、其の貴きに及び、燕の事を発す。趙王其の国の患ひと為らんことを恐れ、上書して其の陰事を言はんと欲するも、偃中に居るが為に、敢て発せず。斉の相と為りて、関を出づるに及び、即ち人をして上書せしめ、主父偃諸侯の金を受け、故を以て諸侯の子弟多く以て封を得る者ありと告言す。斉王自殺するに及び、上聞きて大いに怒り、以為へらく主父其の王を劫して自殺せしむと、乃ち徴して吏に下して治む。主父諸侯の金を受くるに服するも、実は王を劫して自殺せしめず。上誅すること勿からんと欲す、是の時公孫弘御史大夫為り、乃ち言ひて曰く、「斉王自殺して後無く、国除かれて郡と為り、漢に入る、主父偃は本首悪なり、陛下主父偃を誅せずんば、以て天下に謝する無し」と。乃ち遂に主父偃を族す。主父方に貴幸なりし時、賓客千を以て数ふ、其の族死するに及び、一人の収むる者無し、唯だ独り洨の孔車之を収めて葬る。天子後に之を聞き、以為へらく孔車は長者なりと。
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