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史記 / 平津侯主父列伝

嚴安上書曰:臣聞周有天下,其治三百餘歲,成康其隆也,刑錯四十餘年而不用。及其衰也,亦三百餘歲,故五伯更起。五伯者,常佐天子興利除害,誅暴禁邪,匡正海內,以尊天子。五伯既沒,賢聖莫續,天子孤弱,號令不行。諸侯恣行,彊陵弱,眾暴寡,田常篡齊,六卿分晉,并為戰國,此民之始苦也。於是彊國務攻,弱國備守,合從連橫,馳車擊轂,介胄生蟣蝨,民無所告愬。及至秦王,蠶食天下,并吞戰國,稱號曰皇帝,主海內之政,壞諸侯之城,銷其兵,鑄以為鐘虡,示不復用。元元黎民得免於戰國,逢明天子,人人自以為更生。向使秦緩其刑罰,薄賦斂,省繇役,貴仁義,賤權利,上篤厚,下智巧,變風易俗,化於海內,則世世必安矣。秦不行是風而修其故俗,為智巧權利者進,篤厚忠信者退;法嚴政峻,諂諛者眾,日聞其美,意廣心軼。欲肆威海外,乃使蒙恬將兵以北攻胡,辟地進境,戍於北河,蜚芻芻粟以隨其后。又使尉佗屠睢將樓船之士南攻百越,使監祿鑿渠運糧,深入越,越人遁逃。曠日持久,糧食絕乏,越人擊之,秦兵大敗。秦乃使尉佗將卒以戍越。當是時,秦禍北構於胡,南掛於越,宿兵無用之地,進而不得退。

新字:厳安上書曰:臣聞周有天下,其治三百余歳,成康其隆也,刑錯四十余年而不用。及其衰也,亦三百余歳,故五伯更起。五伯者,常佐天子興利除害,誅暴禁邪,匡正海内,以尊天子。五伯既没,賢聖莫続,天子孤弱,号令不行。諸侯恣行,彊陵弱,衆暴寡,田常篡斉,六卿分晋,并為戦国,此民之始苦也。於是彊国務攻,弱国備守,合従連横,馳車撃轂,介胄生蟣蝨,民無所告愬。及至秦王,蠶食天下,并呑戦国,称号曰皇帝,主海内之政,壊諸侯之城,銷其兵,鋳以為鐘虡,示不復用。元元黎民得免於戦国,逢明天子,人人自以為更生。向使秦緩其刑罰,薄賦斂,省繇役,貴仁義,賤権利,上篤厚,下智巧,変風易俗,化於海内,則世世必安矣。秦不行是風而修其故俗,為智巧権利者進,篤厚忠信者退;法厳政峻,諂諛者衆,日聞其美,意広心軼。欲肆威海外,乃使蒙恬将兵以北攻胡,辟地進境,戍於北河,蜚芻芻粟以随其后。又使尉佗屠睢将楼船之士南攻百越,使監禄鑿渠運糧,深入越,越人遁逃。曠日持久,糧食絶乏,越人撃之,秦兵大敗。秦乃使尉佗将卒以戍越。当是時,秦禍北構於胡,南掛於越,宿兵無用之地,進而不得退。

書き下し

厳安上書して曰く、臣聞く周天下を有ち、其の治三百余歳、成康其の隆なり、刑錯きて四十余年用ひず。其の衰ふるに及ぶや、亦三百余歳、故に五伯更々起こる。五伯は、常に天子を佐けて利を興し害を除き、暴を誅し邪を禁じ、海内を匡正し、以て天子を尊ぶ。五伯既に没し、賢聖続く莫く、天子孤弱にして、号令行はれず。諸侯恣に行ひ、彊は弱を陵ぎ、衆は寡を暴し、田常斉を簒ひ、六卿晋を分かち、并せて戦国と為る、此れ民の始めて苦しむなり。是に於て彊国は攻むるを務め、弱国は守りを備へ、合従連横し、車を馳せ轂を撃ち、介冑に蟣蝨を生じ、民告愬する所無し。秦王に至るに及び、天下を蚕食し、戦国を并呑し、号を称して皇帝と曰ひ、海内の政を主り、諸侯の城を壊ち、其の兵を銷し、鋳て以て鐘虡と為し、復た用ひざるを示す。元元の黎民戦国を免るるを得、明天子に逢ひ、人人自ら以て更生すと為す。向に秦をして其の刑罰を緩め、賦斂を薄くし、繇役を省き、仁義を貴び、権利を賤しみ、篤厚を上び、智巧を下し、風を変じ俗を易へ、海内を化せしめば、則ち世世必ず安からん。秦是の風を行はずして其の故俗を修め、智巧権利を為す者進み、篤厚忠信なる者退く。法厳しく政峻しく、諂諛する者衆く、日に其の美を聞き、意広く心軼す。威を海外に肆にせんと欲し、乃ち蒙恬をして兵を将ゐて以て北のかた胡を攻めしめ、地を辟き境を進め、北河に戍り、芻を蜚ばし粟を芻ひて以て其の後に随はしむ。又尉佗・屠睢をして楼船の士を将ゐて南のかた百越を攻めしめ、監禄をして渠を鑿ちて糧を運ばしめ、深く越に入る、越人遁逃す。日を曠しくし久しきを持し、糧食絶乏し、越人之を撃ち、秦兵大いに敗る。秦乃ち尉佗をして卒を将ゐて以て越を戍らしむ。是の時に当たり、秦の禍北は胡に構へ、南は越に掛かり、兵を無用の地に宿め、進みて退くを得ず。

現代語訳

厳安は上書して言った。臣が聞くところでは、周は天下を保つこと三百余年、成王・康王の時がその盛りで、刑罰を置いたまま四十余年用いなかった。その衰えの時期もまた三百余年続き、そのため五覇が次々と興った。五覇はつねに天子を助けて利を興し害を除き、暴虐を討ち邪悪を禁じ、天下を正して天子を尊んだ。五覇が没すると、賢者・聖人が続かず、天子は孤立して弱まり、号令は行われなくなった。諸侯は勝手に振る舞い、強者は弱者をしのぎ、多数は少数を虐げ、田常は斉を簒奪し、六卿は晋を分割し、あわせて戦国の世となった。これが民の苦しみの始まりである。そこで強国は攻めることに努め、弱国は守りを固め、合従・連衡を結び、戦車を走らせて轂(こしき)をぶつけ合い、鎧兜にはシラミがわき、民は訴える先もなかった。秦王(始皇帝)の代になると、天下を蚕が桑を食うように侵し、戦国の諸国を併呑して皇帝と称し、天下の政治を掌握し、諸侯の城を壊し、その武器を溶かして鐘と鐘掛けを鋳造し、二度と用いないことを示した。善良な民は戦国の苦しみから免れ、聡明な天子に出会えたと、人々はみな生き返った思いがした。もしあのとき秦が刑罰を緩め、税を軽くし、労役を減らし、仁義を尊び、権勢と利益を卑しみ、誠実さを重んじ、小賢しさを退け、風俗を改めて天下を感化していたなら、代々必ず安泰であったろう。ところが秦はこうした気風を行わず、旧来のやり方を続けたので、小賢しく権勢と利益を追う者が昇進し、誠実で忠義ある者は退けられた。法は厳しく政治は苛酷で、へつらう者が多く、毎日ほめ言葉ばかりを聞いて、気が大きくなり心がおごった。威勢を海外にまで振るおうとして、蒙恬に兵を率いさせて北の胡(匈奴)を攻め、土地を切り開いて国境を進め、北河を守らせ、飼い葉や穀物を急送してその後に続かせた。また尉佗と屠睢(とすい)に楼船(大型軍船)の兵を率いさせて南の百越を攻めさせ、監禄に運河を掘らせて食糧を運び、越の奥深くまで攻め入ると、越人は逃げ隠れた。長い月日を費やし、食糧は尽き、越人が反撃して、秦軍は大敗した。秦はそこで尉佗に兵を率いさせて越を守らせた。このとき、秦の禍いは北では胡と、南では越と結びつき、兵を無用の地に駐屯させたまま、進むことも退くこともできなくなった。

解説

三人目の上書者、厳安の文章の前半です。周の治世が盛りでは刑罰を四十余年用いなかったこと、五覇が天子を支え、それが絶えて戦国の苦しみが始まったことを述べ、秦が天下を統一して武器を溶かしたとき民は生き返った思いがしたのに、仁義を重んじる方向へ転じなかったと指摘します。へつらう者が栄え誠実な者が退き、主君は褒め言葉だけを聞いて心がおごり、北の匈奴と南の百越へ兵を出して、進むも退くもできなくなった。統一という大きな成功の直後こそ方針を切り替えるべきだった、という主張です。事業でも、競争に勝ち抜いた直後に拡大の勢いのまま走り続け、守りと人心の安定へ切り替えられずに行き詰まる例は少なくありません。

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