史記 / 衛将軍驃騎列伝
後五歲,以騎將軍從大將軍有功,封為南窌侯。後一歲,以左將軍再從大將軍出定襄,無功。後四歲,以坐酎金失侯。後八歲,以浮沮將軍出五原二千餘里,無功。後八歲,以太僕為丞相,封葛繹侯。賀七為將軍,出擊匈奴無大功,而再侯,為丞相。坐子敬聲與陽石公主姦,為巫蠱,族滅,無後。將軍李息,郁郅人。事景帝。至武帝立八歲,為材官將軍,軍馬邑;後六歲,為將軍,出代;後三歲,為將軍,從大將軍出朔方:皆無功。凡三為將軍,其後常為大行。將軍公孫敖,義渠人。以郎事武帝。武帝立十二歲,為騎將軍,出代,亡卒七千人,當斬,贖為庶人。後五歲,以校尉從大將軍有功,封為合騎侯。後一歲,以中將軍從大將軍,再出定襄,無功。後二歲,以將軍出北地,後驃騎期,當斬,贖為庶人。後二歲,以校尉從大將軍,無功。後十四歲,以因杅將軍筑受降城。七歲,復以因杅將軍再出擊匈奴,至余吾,亡士卒多,下吏,當斬,詐死,亡居民閒五六歲。後發覺,復系。坐妻為巫蠱,族。凡四為將軍,出擊匈奴,一侯。將軍李沮,雲中人。事景帝。武帝立十七歲,以左內史為彊弩將軍。後一歲,復為彊弩將軍。將軍李蔡,成紀人也。事孝文帝、景帝、武帝。
新字:後五歳,以騎将軍従大将軍有功,封為南窌侯。後一歳,以左将軍再従大将軍出定襄,無功。後四歳,以坐酎金失侯。後八歳,以浮沮将軍出五原二千余里,無功。後八歳,以太僕為丞相,封葛繹侯。賀七為将軍,出撃匈奴無大功,而再侯,為丞相。坐子敬声与陽石公主姦,為巫蠱,族滅,無後。将軍李息,郁郅人。事景帝。至武帝立八歳,為材官将軍,軍馬邑;後六歳,為将軍,出代;後三歳,為将軍,従大将軍出朔方:皆無功。凡三為将軍,其後常為大行。将軍公孫敖,義渠人。以郎事武帝。武帝立十二歳,為騎将軍,出代,亡卒七千人,当斬,贖為庶人。後五歳,以校尉従大将軍有功,封為合騎侯。後一歳,以中将軍従大将軍,再出定襄,無功。後二歳,以将軍出北地,後驃騎期,当斬,贖為庶人。後二歳,以校尉従大将軍,無功。後十四歳,以因杅将軍筑受降城。七歳,復以因杅将軍再出撃匈奴,至余吾,亡士卒多,下吏,当斬,詐死,亡居民閒五六歳。後発覚,復系。坐妻為巫蠱,族。凡四為将軍,出撃匈奴,一侯。将軍李沮,雲中人。事景帝。武帝立十七歳,以左内史為彊弩将軍。後一歳,復為彊弩将軍。将軍李蔡,成紀人也。事孝文帝、景帝、武帝。
書き下し
後五歳、騎将軍を以て大将軍に従ひて功有り、封じて南窌侯と為す。後一歳、左将軍を以て再び大将軍に従ひて定襄より出で、功無し。後四歳、酎金に坐するを以て侯を失ふ。後八歳、浮沮将軍を以て五原より出づること二千余里、功無し。後八歳、太僕を以て丞相と為り、葛繹侯に封ぜらる。賀七たび将軍と為り、出でて匈奴を撃つも大功無し。而るに再び侯たり、丞相と為る。子敬声の陽石公主と姦し、巫蠱を為すに坐して、族滅せられ、後無し。将軍李息は、郁郅の人なり。景帝に事ふ。武帝立ちて八歳に至り、材官将軍と為り、馬邑に軍す。後六歳、将軍と為り、代より出づ。後三歳、将軍と為り、大将軍に従ひて朔方より出づ。皆功無し。凡そ三たび将軍と為る。其の後常に大行と為る。将軍公孫敖は、義渠の人なり。郎を以て武帝に事ふ。武帝立ちて十二歳、騎将軍と為り、代より出で、卒七千人を亡ひ、斬に当たり、贖ひて庶人と為る。後五歳、校尉を以て大将軍に従ひて功有り、封ぜられて合騎侯と為る。後一歳、中将軍を以て大将軍に従ひ、再び定襄より出で、功無し。後二歳、将軍を以て北地より出で、驃騎に期に後れ、斬に当たり、贖ひて庶人と為る。後二歳、校尉を以て大将軍に従ひ、功無し。後十四歳、因杅将軍を以て受降城を築く。七歳にして、復た因杅将軍を以て再び出でて匈奴を撃ち、余吾に至り、士卒を亡ふこと多く、吏に下され、斬に当たる。死を詐り、亡げて民間に居ること五六歳。後に発覚し、復た系がる。妻の巫蠱を為すに坐して、族せらる。凡そ四たび将軍と為り、出でて匈奴を撃ち、一たび侯たり。将軍李沮は、雲中の人なり。景帝に事ふ。武帝立ちて十七歳、左内史を以て彊弩将軍と為る。後一歳、復た彊弩将軍と為る。将軍李蔡は、成紀の人なり。孝文帝・景帝・武帝に事ふ。
現代語訳
その五年後、騎将軍として大将軍に従って功があり、南窌侯に封じられた。その一年後、左将軍として再び大将軍に従って定襄から出撃したが、功はなかった。その四年後、酎金の罪で侯位を失った。その八年後、浮沮将軍として五原から二千里余り出撃したが、功はなかった。その八年後、太僕から丞相となり、葛繹侯に封じられた。公孫賀は七回将軍となって匈奴を攻撃したが大きな功はなかった。それでも二度侯となり、丞相にまでなった。子の公孫敬声が陽石公主と密通し、巫蠱(呪詛)を行った罪に連座して一族皆殺しとなり、跡継ぎはいない。将軍李息は郁郅の人で、景帝に仕えた。武帝が即位して八年目に材官将軍となり、馬邑に布陣した。その六年後、将軍となって代から出撃した。その三年後、将軍となって大将軍に従い朔方から出撃した。いずれも功はなかった。合わせて三回将軍となった。その後はずっと大行であった。将軍公孫敖は義渠の人で、郎として武帝に仕えた。武帝が即位して十二年目に騎将軍となり、代から出撃して兵七千人を失い、斬罪に当たるとされたが、金で贖って庶民となった。その五年後、校尉として大将軍に従って功があり、合騎侯に封じられた。その一年後、中将軍として大将軍に従い、二度定襄から出撃したが功はなかった。その二年後、将軍として北地から出撃したが、驃騎将軍との期日に遅れ、斬罪に当たるとされたが、金で贖って庶民となった。その二年後、校尉として大将軍に従ったが功はなかった。その十四年後、因杅将軍として受降城を築いた。七年後、再び因杅将軍として匈奴を攻撃し、余吾水に至ったが、多くの兵を失い、獄吏に引き渡されて斬罪に当たるとされた。死んだと偽って逃げ、民間に五、六年隠れ住んだ。後に発覚して再び捕らえられた。妻が巫蠱を行った罪に連座して一族皆殺しとなった。合わせて四回将軍となって匈奴を攻撃し、一度侯となった。将軍李沮は雲中の人で、景帝に仕えた。武帝が即位して十七年目、左内史から彊弩将軍となった。その一年後、再び彊弩将軍となった。将軍李蔡は成紀の人で、孝文帝・景帝・武帝に仕えた。
解説
関連する章句
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史記 衛将軍驃騎列伝而して卒す。天子之を悼み、属国の玄甲軍を発し、陳ぬること長安より茂陵に至り、冢を為りて祁連山に象る。之を諡し、武と広地とを并せて景桓侯と曰ふ。子嬗侯に代はる。嬗少く、字は子侯、上之を愛し、其の壮なるを幸ひて之を将たらしめんとす。居ること六歳、元封元年、嬗卒し、諡して哀侯と曰ふ。子無く、絶え、国除かる。驃騎将軍の死せしより後、大将軍の長子宜春侯伉法に坐して侯を失ふ。後五歳、伉の弟二人、陰安侯不疑及び発干侯登皆酎金に坐して侯を失ふ。侯を失ひて後二歳、冠軍侯の国除かる。其の後四年、大将軍青卒し、諡して烈侯と為す。子伉代はりて長平侯と為る。大将軍の単于を囲みしより後、十四年にして卒す。竟に復た匈奴を撃たざる者は、漢の馬少なく、而して方に南のかた両越を誅し、東のかた朝鮮を伐ち、羌・西南夷を撃つを以て、故を以て久しく胡を伐たず。大将軍其の平陽長公主を尚るを得たるの故を以て、長平侯伉侯に代はる。六歳にして、法に坐して侯を失ふ。左方は両大将軍及び諸裨将の名なり。最れ大将軍青、凡そ七たび出でて匈奴を撃ち、首虜を斬捕すること五万余級。一たび単于と戦ひ、河南の地を収め、遂に朔方郡を置く。再び益封せられ、凡そ万一千八百戸。三子を封じて侯と為し、侯は千三百戸。之を并せて、万五千七百戸。其の校尉裨将の大将軍に従ひて侯たる者九人。其の裨将及び校尉の已に将と為る者十四人。裨将為る者を李広と曰ふ。自ら伝有り。伝無き者を曰ふ、将軍公孫賀。賀は、義渠の人にして、其の先は胡種なり。賀の父渾邪、景帝の時平曲侯と為り、法に坐して侯を失ふ。賀は、武帝の太子為りし時の舎人なり。武帝立ちて八歳、太僕を以て軽車将軍と為り、馬邑に軍す。後四歳、軽車将軍を以て雲中より出づ。
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史記 衛将軍驃騎列伝軽車将軍を以て大将軍に従ひて功有り、封ぜられて楽安侯と為る。已に丞相と為り、法に坐して死す。将軍張次公は、河東の人なり。校尉を以て衛将軍青に従ひて功有り、封ぜられて岸頭侯と為る。其の後太后崩じ、将軍と為り、北軍に軍す。後一歳、将軍と為り、大将軍に従ふ。再び将軍と為り、法に坐して侯を失ふ。次公の父隆は、軽車の武射なり。射を善くするを以て、景帝之を幸近するなり。将軍蘇建は、杜陵の人なり。校尉を以て衛将軍青に従ひ、功有りて、平陵侯と為り、将軍を以て朔方を築く。後四歳、游撃将軍と為り、大将軍に従ひて朔方より出づ。後一歳、右将軍を以て再び大将軍に従ひて定襄より出で、翕侯を亡ひ、軍を失ひ、斬に当たり、贖ひて庶人と為る。其の後代郡の太守と為り、卒す。冢は大猶郷に在り。将軍趙信は、匈奴の相国を以て降り、翕侯と為る。武帝立ちて十七歳、前将軍と為り、単于と戦ひ、敗れて、匈奴に降る。将軍張騫は、使を以て大夏に通じ、還りて、校尉と為る。大将軍に従ひて功有り、封ぜられて博望侯と為る。後三歳、将軍と為り、右北平より出で、期を失ひ、斬に当たり、贖ひて庶人と為る。其の後使して烏孫に通じ、大行と為りて卒す。冢は漢中に在り。将軍趙食其は、祋祤の人なり。武帝立ちて二十二歳、主爵を以て右将軍と為り、大将軍に従ひて定襄より出で、迷ひて道を失ひ、斬に当たり、贖ひて庶人と為る。将軍曹襄は、平陽侯を以て後将軍と為り、大将軍に従ひて定襄より出づ。襄は、曹参の孫なり。将軍韓説は、弓高侯の庶孫なり。校尉を以て大将軍に従ひて功有り、龍頟侯と為る。酎金に坐して侯を失ふ。元鼎六年、待詔を以て横海将軍と為り、東越を撃ちて功有り、按道侯と為る。太初三年を以て游撃将軍と為り、五原の外の列城に屯す。
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史記 衛将軍驃騎列伝光禄勲と為り、蠱を太子の宮に掘る。衛太子之を殺す。将軍郭昌は、雲中の人なり。校尉を以て大将軍に従ふ。元封四年、太中大夫を以て抜胡将軍と為り、朔方に屯す。還りて昆明を撃ち、功毋く、印を奪はる。将軍荀彘は、太原の広武の人なり。御を以て見え、侍中たり、校尉と為り、数々大将軍に従ふ。元封三年を以て左将軍と為り朝鮮を撃ち、功毋し。楼船将軍を捕ふるを以て法に坐して死す。最れ驃騎将軍去病、凡そ六たび出でて匈奴を撃ち、其の四たびは将軍を以て出で、首虜を斬捕すること十一万余級。渾邪王の衆を以て降ること数万なるに及び、遂に河西酒泉の地を開き、西方益々胡寇少なし。四たび益封せられ、凡そ万五千一百戸。其の校吏の功有りて侯と為る者凡そ六人、而して後に将軍と為る者二人。将軍路博徳は、平州の人なり。右北平の太守を以て驃騎将軍に従ひて功有り、符離侯と為る。驃騎死して後、博徳衛尉を以て伏波将軍と為り、南越を伐ち破りて、益封せらる。其の後法に坐して侯を失ふ。彊弩都尉と為り、居延に屯して、卒す。将軍趙破奴は、故の九原の人なり。嘗て亡げて匈奴に入り、已にして漢に帰り、驃騎将軍の司馬と為る。北地より出づる時功有り、封ぜられて従驃侯と為る。酎金に坐して侯を失ふ。後一歳、匈河将軍と為り、胡を攻めて匈河水に至り、功無し。後二歳、楼蘭王を撃ち虜にし、復た封ぜられて浞野侯と為る。後六歳、浚稽将軍と為り、二万騎を将ゐて匈奴の左賢王を撃つ。左賢王与に戦ひ、兵八万騎破奴を囲む。破奴生きて虜の得る所と為り、遂に其の軍を没す。匈奴の中に居ること十歳、復た其の太子安国と亡げて漢に入る。後に巫蠱に坐して、族せらる。衛氏の興りしより、大将軍青首めて封ぜられ、其の後枝属五侯と為る。凡そ二十四歳にして五侯尽く奪はれ、衛氏に侯為る者無し。
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史記 衛将軍驃騎列伝青壮にして、侯家の騎と為り、平陽主に従ふ。建元二年春、青の姊子夫入宮して上に幸せらるるを得たり。皇后は、堂邑の大長公主の女なり。子無くして、妒む。大長公主衛子夫の幸せられて、身有るを聞き、之を妒み、乃ち人をして青を捕へしむ。青時に建章に給事し、未だ名を知られず。大長公主青を執囚し、之を殺さんと欲す。其の友騎郎公孫敖壮士と往きて之を篡取す。故を以て死せざるを得たり。上聞き、乃ち青を召して建章監・侍中と為し、及び同母の昆弟貴く、賞賜すること数日の間に千金を累ぬ。孺は太僕公孫賀の妻と為る。少児は故より陳掌と通ず。上召して掌を貴くす。公孫敖此に由りて益々貴し。子夫夫人と為る。青大中大夫と為る。青車騎将軍と為り、匈奴を撃ちて、上谷より出づ。太僕公孫賀軽車将軍と為り、雲中より出づ。大中大夫公孫敖騎将軍と為り、代郡より出づ。衛尉李広驍騎将軍と為り、雁門より出づ。軍各々万騎。青蘢城に至り、首虜を斬ること数百。騎将軍敖は七千騎を亡ふ。衛尉李広は虜の得る所と為り、脱して帰るを得たり。皆斬に当たり、贖ひて庶人と為る。賀も亦功無し。春、衛夫人男有り、立ちて皇后と為る。其の秋、青車騎将軍と為り、雁門より出で、三万騎もて匈奴を撃ち、首虜を斬ること数千人。明年、匈奴入りて遼西の太守を殺し、漁陽の二千余人を虜略し、韓将軍の軍を敗る。漢将軍李息をして之を撃たしめ、代より出でしめ、車騎将軍青をして雲中より以西高闕に至るまで出でしむ。遂に河南の地を略し、隴西に至り、首虜数千、畜数十万を捕へ、白羊・楼煩王を走らす。遂に河南の地を以て朔方郡と為す。三千八百戸を以て青を封じて長平侯と為す。青の校尉蘇建功有り、千一百戸を以て建を封じて平陵侯と為す。建をして朔方の城を築かしむ。
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史記 衛将軍驃騎列伝塞に至る。天子使者をして大将軍の印を持たしめ、即ち軍中に車騎将軍青を拝して大将軍と為す。諸将皆兵を以て大将軍に属す。大将軍号を立てて帰る。天子曰く、「大将軍青躬ら戎士を率ゐ、師大いに捷ち、匈奴の王十有余人を獲たり。青に六千戸を益封す」と。而して青の子伉を封じて宜春侯と為し、青の子不疑を陰安侯と為し、青の子登を発干侯と為す。青固く謝して曰く、「臣幸ひに罪を行間に待つを得、陛下の神霊に頼りて、軍大いに捷つ。皆諸校尉力戦の功なり。陛下幸ひに已に臣青を益封す。臣青の子は繦緥の中に在り、未だ勤労有らず。上幸ひに地を列して封じて三侯と為すは、臣の罪を行間に待ちて士を勧めて力戦せしむる所以の意に非ざるなり。伉等三人何ぞ敢へて封を受けん」と。天子曰く、「我諸校尉の功を忘るるに非ざるなり。今固より且に之を図らんとす」と。乃ち御史に詔して曰く、「護軍都尉公孫敖三たび大将軍に従ひて匈奴を撃ち、常に軍を護り、校に傅きて王を獲たり。千五百戸を以て敖を封じて合騎侯と為す。都尉韓説大将軍に従ひて窳渾より出で、匈奴の右賢王の庭に至り、麾下の為に搏戦して王を獲たり。千三百戸を以て説を封じて龍頟侯と為す。騎将軍公孫賀大将軍に従ひて王を獲たり。千三百戸を以て賀を封じて南窌侯と為す。軽車将軍李蔡再び大将軍に従ひて王を獲たり。千六百戸を以て蔡を封じて楽安侯と為す。校尉李朔、校尉趙不虞、校尉公孫戎奴、各々三たび大将軍に従ひて王を獲たり。千三百戸を以て朔を封じて渉軹侯と為し、千三百戸を以て不虞を封じて随成侯と為し、千三百戸を以て戎奴を封じて従平侯と為す。将軍李沮・李息及び校尉豆如意功有り、爵関内侯を賜ひ、食邑各々三百戸」と。
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史記 外戚世家衛皇后の謂ふ所の姊衛少児に及び、少児子霍去病を生む、軍功を以て冠軍侯に封ぜられ、驃騎将軍と号す。青は大将軍と号す。衛皇后の子据を立てて太子と為す。衛氏の枝属軍功を以て家を起こし、五人侯と為る。衛后色衰ふるに及び、趙の王夫人幸せられ、子有り、斉王と為る。王夫人蚤く卒す。而して中山の李夫人寵有り、男一人有り、昌邑王と為る。李夫人蚤く卒す、其の兄李延年音を以て幸せられ、協律と号す。協律は、故の倡なり。兄弟皆姦に坐し、族せらる。是の時其の長兄広利は弐師将軍為り、大宛を伐ち、誅に及ばず、還る、而して上既に李氏を夷らげ、後に其の家を憐れみ、乃ち封じて海西侯と為す。他の姫の子二人燕王・広陵王と為る。其の母寵無く、憂ひを以て死す。李夫人卒するに及び、則ち尹婕妤の属有り、更々寵有り。然れども皆倡を以て見ゆ、王侯有土の士女に非ず、以て人主に配すべからざるなり。褚先生曰く、臣郎為りし時、漢家の故事に習ふ者鐘離生に問ふ。曰く、王太后民間に在りし時生む所の[一]女は、父は金王孫為り。王孫已に死し、景帝崩じて後、武帝已に立ち、王太后独り在り。而して韓王孫名は嫣素より武帝に幸せらる、間を承けて太后に女有りて長陵に在りと白言す。武帝曰く、「何ぞ蚤く言はざる」と。乃ち使をして往きて先づ之を視しむ、其の家に在り。武帝乃ち自ら往きて之を迎へ取る。蹕道し、先駆の旄騎横城門を出で、乗輿馳せて長陵に至る。小市の西に当たりて里に入る、里門閉づ、暴かに門を開き、乗輿直ちに此の里に入り、通じて金氏の門外に至りて止まり、武騎をして其の宅を囲ましむ、其の亡走するが為に、身自ら往きて取るも得ざればなり。即ち左右の群臣をして入りて之を呼び求めしむ。家人驚き恐る、女亡げて内中の床下に匿る。扶持して門を出でしめ、拝謁せしむ。
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