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史記 / 衛将軍驃騎列伝

以輕車將軍從大將軍有功,封為樂安侯。已為丞相,坐法死。將軍張次公,河東人。以校尉從衛將軍青有功,封為岸頭侯。其後太后崩,為將軍,軍北軍。後一歲,為將軍,從大將軍,再為將軍,坐法失侯。次公父隆,輕車武射也。以善射,景帝幸近之也。將軍蘇建,杜陵人。以校尉從衛將軍青,有功,為平陵侯,以將軍筑朔方。後四歲,為游擊將軍,從大將軍出朔方。後一歲,以右將軍再從大將軍出定襄,亡翕侯,失軍,當斬,贖為庶人。其後為代郡太守,卒,冢在大猶鄉。將軍趙信,以匈奴相國降,為翕侯。武帝立十七歲,為前將軍,與單于戰,敗,降匈奴。將軍張騫,以使通大夏,還,為校尉。從大將軍有功,封為博望侯。後三歲,為將軍,出右北平,失期,當斬,贖為庶人。其後使通烏孫,為大行而卒,冢在漢中。將軍趙食其,祋祤人也。武帝立二十二歲,以主爵為右將軍,從大將軍出定襄,迷失道,當斬,贖為庶人。將軍曹襄,以平陽侯為後將軍,從大將軍出定襄。襄,曹參孫也。將軍韓說,弓高侯庶孫也。以校尉從大將軍有功,為龍頟侯,坐酎金失侯。元鼎六年,以待詔為橫海將軍,擊東越有功,為按道侯。以太初三年為游擊將軍,屯於五原外列城。

新字:以軽車将軍従大将軍有功,封為楽安侯。已為丞相,坐法死。将軍張次公,河東人。以校尉従衛将軍青有功,封為岸頭侯。其後太后崩,為将軍,軍北軍。後一歳,為将軍,従大将軍,再為将軍,坐法失侯。次公父隆,軽車武射也。以善射,景帝幸近之也。将軍蘇建,杜陵人。以校尉従衛将軍青,有功,為平陵侯,以将軍筑朔方。後四歳,為游撃将軍,従大将軍出朔方。後一歳,以右将軍再従大将軍出定襄,亡翕侯,失軍,当斬,贖為庶人。其後為代郡太守,卒,冢在大猶郷。将軍趙信,以匈奴相国降,為翕侯。武帝立十七歳,為前将軍,与単于戦,敗,降匈奴。将軍張騫,以使通大夏,還,為校尉。従大将軍有功,封為博望侯。後三歳,為将軍,出右北平,失期,当斬,贖為庶人。其後使通烏孫,為大行而卒,冢在漢中。将軍趙食其,祋祤人也。武帝立二十二歳,以主爵為右将軍,従大将軍出定襄,迷失道,当斬,贖為庶人。将軍曹襄,以平陽侯為後将軍,従大将軍出定襄。襄,曹参孫也。将軍韓説,弓高侯庶孫也。以校尉従大将軍有功,為竜頟侯,坐酎金失侯。元鼎六年,以待詔為横海将軍,撃東越有功,為按道侯。以太初三年為游撃将軍,屯於五原外列城。

書き下し

軽車将軍を以て大将軍に従ひて功有り、封ぜられて楽安侯と為る。已に丞相と為り、法に坐して死す。将軍張次公は、河東の人なり。校尉を以て衛将軍青に従ひて功有り、封ぜられて岸頭侯と為る。其の後太后崩じ、将軍と為り、北軍に軍す。後一歳、将軍と為り、大将軍に従ふ。再び将軍と為り、法に坐して侯を失ふ。次公の父隆は、軽車の武射なり。射を善くするを以て、景帝之を幸近するなり。将軍蘇建は、杜陵の人なり。校尉を以て衛将軍青に従ひ、功有りて、平陵侯と為り、将軍を以て朔方を築く。後四歳、游撃将軍と為り、大将軍に従ひて朔方より出づ。後一歳、右将軍を以て再び大将軍に従ひて定襄より出で、翕侯を亡ひ、軍を失ひ、斬に当たり、贖ひて庶人と為る。其の後代郡の太守と為り、卒す。冢は大猶郷に在り。将軍趙信は、匈奴の相国を以て降り、翕侯と為る。武帝立ちて十七歳、前将軍と為り、単于と戦ひ、敗れて、匈奴に降る。将軍張騫は、使を以て大夏に通じ、還りて、校尉と為る。大将軍に従ひて功有り、封ぜられて博望侯と為る。後三歳、将軍と為り、右北平より出で、期を失ひ、斬に当たり、贖ひて庶人と為る。其の後使して烏孫に通じ、大行と為りて卒す。冢は漢中に在り。将軍趙食其は、祋祤の人なり。武帝立ちて二十二歳、主爵を以て右将軍と為り、大将軍に従ひて定襄より出で、迷ひて道を失ひ、斬に当たり、贖ひて庶人と為る。将軍曹襄は、平陽侯を以て後将軍と為り、大将軍に従ひて定襄より出づ。襄は、曹参の孫なり。将軍韓説は、弓高侯の庶孫なり。校尉を以て大将軍に従ひて功有り、龍頟侯と為る。酎金に坐して侯を失ふ。元鼎六年、待詔を以て横海将軍と為り、東越を撃ちて功有り、按道侯と為る。太初三年を以て游撃将軍と為り、五原の外の列城に屯す。

現代語訳

(李蔡は)軽車将軍として大将軍に従って功があり、楽安侯に封じられた。丞相となった後、法に触れて死んだ。将軍張次公は河東の人で、校尉として衛将軍衛青に従って功があり、岸頭侯に封じられた。その後、太后が崩御した時に将軍となり、北軍に布陣した。その一年後、将軍となって大将軍に従った。二度将軍となったが、法に触れて侯位を失った。張次公の父の張隆は、軽車の射手であった。弓の腕が優れていたので、景帝に寵愛され近侍した。将軍蘇建は杜陵の人で、校尉として衛将軍衛青に従い、功があって平陵侯となり、将軍として朔方の城を築いた。その四年後、游撃将軍となって大将軍に従い朔方から出撃した。その一年後、右将軍として再び大将軍に従って定襄から出撃したが、翕侯を失い、軍を失って、斬罪に当たるとされ、金で贖って庶民となった。その後、代郡太守となって亡くなった。墓は大猶郷にある。将軍趙信は、匈奴の相国として降伏して翕侯となった。武帝が即位して十七年目に前将軍となり、単于と戦って敗れ、匈奴に降った。将軍張騫は、使者として大夏と通交して帰国し、校尉となった。大将軍に従って功があり、博望侯に封じられた。その三年後、将軍となって右北平から出撃したが、期日に遅れ、斬罪に当たるとされ、金で贖って庶民となった。その後、使者として烏孫と通交し、大行となって亡くなった。墓は漢中にある。将軍趙食其は祋祤の人で、武帝が即位して二十二年目に主爵都尉から右将軍となり、大将軍に従って定襄から出撃したが、道に迷い、斬罪に当たるとされ、金で贖って庶民となった。将軍曹襄は平陽侯として後将軍となり、大将軍に従って定襄から出撃した。曹襄は曹参の孫である。将軍韓説は弓高侯の庶出の孫である。校尉として大将軍に従って功があり、龍頟侯となったが、酎金の罪で侯位を失った。元鼎六年、待詔から横海将軍となり、東越を攻撃して功があり、按道侯となった。太初三年に游撃将軍となり、五原の外の城砦に駐屯した。

解説

衛青の副将たちの略歴の続きです。李広の従弟李蔡は侯から丞相に上りながら法に触れて死に、張次公も侯位を失いました。右将軍蘇建は趙信とともに単于の軍に遭遇して全軍を失い、衛青の判断で天子に委ねられて庶民となった後、代郡太守として生涯を終えます。趙信は匈奴から降って侯となり、また匈奴に寝返った人物として記されます。西域への使者として名高い張騫も、ここでは李広の救援に遅れて庶民に落とされ、その後烏孫に使いして大行で亡くなった一将軍として簡潔に記されるだけです。道に迷って李広とともに遅れた趙食其、漢の功臣曹参の孫である曹襄、東越討伐で再び侯となった韓説など、同じ遠征に加わった人々の運命はさまざまでした。一つの戦いでの遅れや道迷いが、一人の生涯を左右した時代です。司馬遷は伝のない者も名と経歴を残し、歴史の脇役たちを忘れ去らせませんでした。目立たない役割を担った人の記録を残すことも、組織の歴史を正しく伝えるうえで欠かせません。

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