史記 / 衛将軍驃騎列伝
而卒。天子悼之,發屬國玄甲軍,陳自長安至茂陵,為冢象祁連山。謚之,并武與廣地曰景桓侯。子嬗代侯。嬗少,字子侯,上愛之,幸其壯而將之。居六歲,元封元年,嬗卒,謚哀侯。無子,絕,國除。自驃騎將軍死後,大將軍長子宜春侯伉坐法失侯。後五歲,伉弟二人,陰安侯不疑及發干侯登皆坐酎金失侯。失侯後二歲,冠軍侯國除。其後四年,大將軍青卒,謚為烈侯。子伉代為長平侯。自大將軍圍單于之後,十四年而卒。竟不復擊匈奴者,以漢馬少,而方南誅兩越,東伐朝鮮,擊羌、西南夷,以故久不伐胡。大將軍以其得尚平陽長公主故,長平侯伉代侯。六歲,坐法失侯。左方兩大將軍及諸裨將名:最大將軍青,凡七出擊匈奴,斬捕首虜五萬餘級。一與單于戰,收河南地,遂置朔方郡,再益封,凡萬一千八百戶。封三子為侯,侯千三百戶。并之,萬五千七百戶。其校尉裨將以從大將軍侯者九人。其裨將及校尉已為將者十四人。為裨將者曰李廣,自有傳。無傳者曰:將軍公孫賀。賀,義渠人,其先胡種。賀父渾邪,景帝時為平曲侯,坐法失侯。賀,武帝為太子時舍人。武帝立八歲,以太僕為輕車將軍,軍馬邑。後四歲,以輕車將軍出雲中。
新字:而卒。天子悼之,発属国玄甲軍,陳自長安至茂陵,為冢象祁連山。謚之,并武与広地曰景桓侯。子嬗代侯。嬗少,字子侯,上愛之,幸其壮而将之。居六歳,元封元年,嬗卒,謚哀侯。無子,絶,国除。自驃騎将軍死後,大将軍長子宜春侯伉坐法失侯。後五歳,伉弟二人,陰安侯不疑及発干侯登皆坐酎金失侯。失侯後二歳,冠軍侯国除。其後四年,大将軍青卒,謚為烈侯。子伉代為長平侯。自大将軍囲単于之後,十四年而卒。竟不復撃匈奴者,以漢馬少,而方南誅両越,東伐朝鮮,撃羌、西南夷,以故久不伐胡。大将軍以其得尚平陽長公主故,長平侯伉代侯。六歳,坐法失侯。左方両大将軍及諸裨将名:最大将軍青,凡七出撃匈奴,斬捕首虜五万余級。一与単于戦,収河南地,遂置朔方郡,再益封,凡万一千八百戸。封三子為侯,侯千三百戸。并之,万五千七百戸。其校尉裨将以従大将軍侯者九人。其裨将及校尉已為将者十四人。為裨将者曰李広,自有伝。無伝者曰:将軍公孫賀。賀,義渠人,其先胡種。賀父渾邪,景帝時為平曲侯,坐法失侯。賀,武帝為太子時舎人。武帝立八歳,以太僕為軽車将軍,軍馬邑。後四歳,以軽車将軍出雲中。
書き下し
而して卒す。天子之を悼み、属国の玄甲軍を発し、陳ぬること長安より茂陵に至り、冢を為りて祁連山に象る。之を諡し、武と広地とを并せて景桓侯と曰ふ。子嬗侯に代はる。嬗少く、字は子侯、上之を愛し、其の壮なるを幸ひて之を将たらしめんとす。居ること六歳、元封元年、嬗卒し、諡して哀侯と曰ふ。子無く、絶え、国除かる。驃騎将軍の死せしより後、大将軍の長子宜春侯伉法に坐して侯を失ふ。後五歳、伉の弟二人、陰安侯不疑及び発干侯登皆酎金に坐して侯を失ふ。侯を失ひて後二歳、冠軍侯の国除かる。其の後四年、大将軍青卒し、諡して烈侯と為す。子伉代はりて長平侯と為る。大将軍の単于を囲みしより後、十四年にして卒す。竟に復た匈奴を撃たざる者は、漢の馬少なく、而して方に南のかた両越を誅し、東のかた朝鮮を伐ち、羌・西南夷を撃つを以て、故を以て久しく胡を伐たず。大将軍其の平陽長公主を尚るを得たるの故を以て、長平侯伉侯に代はる。六歳にして、法に坐して侯を失ふ。左方は両大将軍及び諸裨将の名なり。最れ大将軍青、凡そ七たび出でて匈奴を撃ち、首虜を斬捕すること五万余級。一たび単于と戦ひ、河南の地を収め、遂に朔方郡を置く。再び益封せられ、凡そ万一千八百戸。三子を封じて侯と為し、侯は千三百戸。之を并せて、万五千七百戸。其の校尉裨将の大将軍に従ひて侯たる者九人。其の裨将及び校尉の已に将と為る者十四人。裨将為る者を李広と曰ふ。自ら伝有り。伝無き者を曰ふ、将軍公孫賀。賀は、義渠の人にして、其の先は胡種なり。賀の父渾邪、景帝の時平曲侯と為り、法に坐して侯を失ふ。賀は、武帝の太子為りし時の舎人なり。武帝立ちて八歳、太僕を以て軽車将軍と為り、馬邑に軍す。後四歳、軽車将軍を以て雲中より出づ。
現代語訳
(元狩六年に)亡くなった。天子はその死を悼み、属国の黒い鎧の軍を動員して、長安から茂陵まで隊列を並べさせ、祁連山をかたどった墓を造った。諡を贈り、武勇と領土拡大の功を合わせて景桓侯とした。子の霍嬗が侯位を継いだ。霍嬗は幼く、字は子侯といい、天子は彼を可愛がり、成長したら将軍にしようと楽しみにしていた。六年後の元封元年、霍嬗は亡くなり、哀侯と諡された。子がなく家は絶え、国は取りつぶされた。驃騎将軍が死んだ後、大将軍の長男の宜春侯衛伉は法に触れて侯位を失った。その五年後、衛伉の弟二人、陰安侯衛不疑と発干侯衛登は、ともに酎金の罪で侯位を失った。侯位を失ってから二年後、冠軍侯の国が取りつぶされた。その四年後、大将軍衛青が亡くなり、烈侯と諡された。子の衛伉が代わって長平侯となった。衛青は大将軍として単于を包囲してから十四年後に亡くなった。結局その後再び匈奴を攻撃しなかったのは、漢の馬が少なく、しかもちょうど南の両越を討ち、東の朝鮮を伐ち、羌や西南夷を攻撃していたので、長い間匈奴を討たなかったのである。大将軍が平陽長公主を妻としていたので、長平侯衛伉が侯位を継いだが、六年後に法に触れて侯位を失った。以下は二人の大将軍と副将たちの名である。第一は大将軍衛青で、合わせて七回出撃して匈奴を攻撃し、斬ったり捕らえたりした敵は五万余り。一度単于と戦い、河南の地を取り、朔方郡を置いた。二度加増され、合わせて一万一千八百戸。三人の子を侯に封じ、それぞれ千三百戸。これを合わせて一万五千七百戸。その校尉や副将で大将軍に従って侯となった者は九人。副将や校尉ですでに将軍となった者は十四人。副将となった者に李広がいるが、別に伝がある。伝のない者は次のとおりである。将軍公孫賀。公孫賀は義渠の人で、祖先は胡の出である。父の公孫渾邪は景帝の時に平曲侯となったが、法に触れて侯位を失った。公孫賀は、武帝が太子だった時の舎人である。武帝が即位して八年目、太僕として軽車将軍となり、馬邑に布陣した。その四年後、軽車将軍として雲中から出撃した。
解説
関連する章句
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史記 衛将軍驃騎列伝光禄勲と為り、蠱を太子の宮に掘る。衛太子之を殺す。将軍郭昌は、雲中の人なり。校尉を以て大将軍に従ふ。元封四年、太中大夫を以て抜胡将軍と為り、朔方に屯す。還りて昆明を撃ち、功毋く、印を奪はる。将軍荀彘は、太原の広武の人なり。御を以て見え、侍中たり、校尉と為り、数々大将軍に従ふ。元封三年を以て左将軍と為り朝鮮を撃ち、功毋し。楼船将軍を捕ふるを以て法に坐して死す。最れ驃騎将軍去病、凡そ六たび出でて匈奴を撃ち、其の四たびは将軍を以て出で、首虜を斬捕すること十一万余級。渾邪王の衆を以て降ること数万なるに及び、遂に河西酒泉の地を開き、西方益々胡寇少なし。四たび益封せられ、凡そ万五千一百戸。其の校吏の功有りて侯と為る者凡そ六人、而して後に将軍と為る者二人。将軍路博徳は、平州の人なり。右北平の太守を以て驃騎将軍に従ひて功有り、符離侯と為る。驃騎死して後、博徳衛尉を以て伏波将軍と為り、南越を伐ち破りて、益封せらる。其の後法に坐して侯を失ふ。彊弩都尉と為り、居延に屯して、卒す。将軍趙破奴は、故の九原の人なり。嘗て亡げて匈奴に入り、已にして漢に帰り、驃騎将軍の司馬と為る。北地より出づる時功有り、封ぜられて従驃侯と為る。酎金に坐して侯を失ふ。後一歳、匈河将軍と為り、胡を攻めて匈河水に至り、功無し。後二歳、楼蘭王を撃ち虜にし、復た封ぜられて浞野侯と為る。後六歳、浚稽将軍と為り、二万騎を将ゐて匈奴の左賢王を撃つ。左賢王与に戦ひ、兵八万騎破奴を囲む。破奴生きて虜の得る所と為り、遂に其の軍を没す。匈奴の中に居ること十歳、復た其の太子安国と亡げて漢に入る。後に巫蠱に坐して、族せらる。衛氏の興りしより、大将軍青首めて封ぜられ、其の後枝属五侯と為る。凡そ二十四歳にして五侯尽く奪はれ、衛氏に侯為る者無し。
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史記 衛将軍驃騎列伝後五歳、騎将軍を以て大将軍に従ひて功有り、封じて南窌侯と為す。後一歳、左将軍を以て再び大将軍に従ひて定襄より出で、功無し。後四歳、酎金に坐するを以て侯を失ふ。後八歳、浮沮将軍を以て五原より出づること二千余里、功無し。後八歳、太僕を以て丞相と為り、葛繹侯に封ぜらる。賀七たび将軍と為り、出でて匈奴を撃つも大功無し。而るに再び侯たり、丞相と為る。子敬声の陽石公主と姦し、巫蠱を為すに坐して、族滅せられ、後無し。将軍李息は、郁郅の人なり。景帝に事ふ。武帝立ちて八歳に至り、材官将軍と為り、馬邑に軍す。後六歳、将軍と為り、代より出づ。後三歳、将軍と為り、大将軍に従ひて朔方より出づ。皆功無し。凡そ三たび将軍と為る。其の後常に大行と為る。将軍公孫敖は、義渠の人なり。郎を以て武帝に事ふ。武帝立ちて十二歳、騎将軍と為り、代より出で、卒七千人を亡ひ、斬に当たり、贖ひて庶人と為る。後五歳、校尉を以て大将軍に従ひて功有り、封ぜられて合騎侯と為る。後一歳、中将軍を以て大将軍に従ひ、再び定襄より出で、功無し。後二歳、将軍を以て北地より出で、驃騎に期に後れ、斬に当たり、贖ひて庶人と為る。後二歳、校尉を以て大将軍に従ひ、功無し。後十四歳、因杅将軍を以て受降城を築く。七歳にして、復た因杅将軍を以て再び出でて匈奴を撃ち、余吾に至り、士卒を亡ふこと多く、吏に下され、斬に当たる。死を詐り、亡げて民間に居ること五六歳。後に発覚し、復た系がる。妻の巫蠱を為すに坐して、族せらる。凡そ四たび将軍と為り、出でて匈奴を撃ち、一たび侯たり。将軍李沮は、雲中の人なり。景帝に事ふ。武帝立ちて十七歳、左内史を以て彊弩将軍と為る。後一歳、復た彊弩将軍と為る。将軍李蔡は、成紀の人なり。孝文帝・景帝・武帝に事ふ。
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史記 衛将軍驃騎列伝悉く李敢等を以て大校と為し、裨将に当て、代・右北平より出づること千余里、左方の兵に直り、斬捕する所の功已に大将軍より多し。軍既に還る。天子曰く、「驃騎将軍去病師を率ゐ、躬ら獲る所の葷粥の士を将ゐ、軽齎を約し、大幕を絶り、渉りて章渠を獲、以て比車耆を誅し、転じて左大将を撃ち、旗鼓を斬獲し、離侯を歴渉す。弓閭を済り、屯頭王・韓王等三人、将軍・相国・当戸・都尉八十三人を獲、狼居胥山に封じ、姑衍に禅し、登りて翰海に臨む。鹵を執へ醜を獲ること七万有四百四十三級、師率減ずること什に三。食を敵に取り、間行殊に遠くして糧絶えず。五千八百戸を以て驃騎将軍に益封す」と。右北平の太守路博徳驃騎将軍に属し、与城に会し、期を失はず、従ひて檮余山に至り、首を斬り虜を捕ふること二千七百級。千六百戸を以て博徳を封じて符離侯と為す。北地の都尉邢山驃騎将軍に従ひて王を獲たり。千二百戸を以て山を封じて義陽侯と為す。故の帰義の因淳王復陸支・楼専王伊即靬皆驃騎将軍に従ひて功有り。千三百戸を以て復陸支を封じて壮侯と為し、千八百戸を以て伊即靬を封じて衆利侯と為す。従驃侯破奴・昌武侯安稽驃騎に従ひて功有り、益封すること各々三百戸。校尉敢旗鼓を得て、関内侯と為し、食邑二百戸。校尉自為爵大庶長。軍吏卒官と為り、賞賜甚だ多し。而して大将軍は益封を得ず、軍吏卒皆封侯せらるる者無し。両軍の塞を出づるや、塞に官及び私馬を閲すること凡そ十四万匹、而して復た塞に入る者三万匹に満たず。乃ち益々大司馬の位を置き、大将軍・驃騎将軍皆大司馬と為る。令を定め、驃騎将軍の秩禄をして大将軍と等しからしむ。是より後、大将軍青日に退き、而して驃騎日に益々貴し。大将軍の故人門下を挙げて多く去りて驃騎に事へ、輒ち官爵を得。唯任安のみ肯ぜず。
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史記 衛将軍驃騎列伝軽車将軍を以て大将軍に従ひて功有り、封ぜられて楽安侯と為る。已に丞相と為り、法に坐して死す。将軍張次公は、河東の人なり。校尉を以て衛将軍青に従ひて功有り、封ぜられて岸頭侯と為る。其の後太后崩じ、将軍と為り、北軍に軍す。後一歳、将軍と為り、大将軍に従ふ。再び将軍と為り、法に坐して侯を失ふ。次公の父隆は、軽車の武射なり。射を善くするを以て、景帝之を幸近するなり。将軍蘇建は、杜陵の人なり。校尉を以て衛将軍青に従ひ、功有りて、平陵侯と為り、将軍を以て朔方を築く。後四歳、游撃将軍と為り、大将軍に従ひて朔方より出づ。後一歳、右将軍を以て再び大将軍に従ひて定襄より出で、翕侯を亡ひ、軍を失ひ、斬に当たり、贖ひて庶人と為る。其の後代郡の太守と為り、卒す。冢は大猶郷に在り。将軍趙信は、匈奴の相国を以て降り、翕侯と為る。武帝立ちて十七歳、前将軍と為り、単于と戦ひ、敗れて、匈奴に降る。将軍張騫は、使を以て大夏に通じ、還りて、校尉と為る。大将軍に従ひて功有り、封ぜられて博望侯と為る。後三歳、将軍と為り、右北平より出で、期を失ひ、斬に当たり、贖ひて庶人と為る。其の後使して烏孫に通じ、大行と為りて卒す。冢は漢中に在り。将軍趙食其は、祋祤の人なり。武帝立ちて二十二歳、主爵を以て右将軍と為り、大将軍に従ひて定襄より出で、迷ひて道を失ひ、斬に当たり、贖ひて庶人と為る。将軍曹襄は、平陽侯を以て後将軍と為り、大将軍に従ひて定襄より出づ。襄は、曹参の孫なり。将軍韓説は、弓高侯の庶孫なり。校尉を以て大将軍に従ひて功有り、龍頟侯と為る。酎金に坐して侯を失ふ。元鼎六年、待詔を以て横海将軍と為り、東越を撃ちて功有り、按道侯と為る。太初三年を以て游撃将軍と為り、五原の外の列城に屯す。
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史記 衛将軍驃騎列伝塞に至る。天子使者をして大将軍の印を持たしめ、即ち軍中に車騎将軍青を拝して大将軍と為す。諸将皆兵を以て大将軍に属す。大将軍号を立てて帰る。天子曰く、「大将軍青躬ら戎士を率ゐ、師大いに捷ち、匈奴の王十有余人を獲たり。青に六千戸を益封す」と。而して青の子伉を封じて宜春侯と為し、青の子不疑を陰安侯と為し、青の子登を発干侯と為す。青固く謝して曰く、「臣幸ひに罪を行間に待つを得、陛下の神霊に頼りて、軍大いに捷つ。皆諸校尉力戦の功なり。陛下幸ひに已に臣青を益封す。臣青の子は繦緥の中に在り、未だ勤労有らず。上幸ひに地を列して封じて三侯と為すは、臣の罪を行間に待ちて士を勧めて力戦せしむる所以の意に非ざるなり。伉等三人何ぞ敢へて封を受けん」と。天子曰く、「我諸校尉の功を忘るるに非ざるなり。今固より且に之を図らんとす」と。乃ち御史に詔して曰く、「護軍都尉公孫敖三たび大将軍に従ひて匈奴を撃ち、常に軍を護り、校に傅きて王を獲たり。千五百戸を以て敖を封じて合騎侯と為す。都尉韓説大将軍に従ひて窳渾より出で、匈奴の右賢王の庭に至り、麾下の為に搏戦して王を獲たり。千三百戸を以て説を封じて龍頟侯と為す。騎将軍公孫賀大将軍に従ひて王を獲たり。千三百戸を以て賀を封じて南窌侯と為す。軽車将軍李蔡再び大将軍に従ひて王を獲たり。千六百戸を以て蔡を封じて楽安侯と為す。校尉李朔、校尉趙不虞、校尉公孫戎奴、各々三たび大将軍に従ひて王を獲たり。千三百戸を以て朔を封じて渉軹侯と為し、千三百戸を以て不虞を封じて随成侯と為し、千三百戸を以て戎奴を封じて従平侯と為す。将軍李沮・李息及び校尉豆如意功有り、爵関内侯を賜ひ、食邑各々三百戸」と。
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史記 匈奴列伝其の秋、匈奴万騎入りて代郡の都尉朱英を殺し、千余人を略す。其の明年春、漢復た大将軍衛青を遣はし、六将軍、兵十余万騎を将ゐて、乃ち再び定襄より出づること数百里、匈奴を撃つ。首虜を得ること前後凡そ万九千余級。而して漢も亦両将軍を亡ひ、軍三千余騎。右将軍建は身を以て脱するを得たり。而して前将軍翕侯趙信は兵利あらず、匈奴に降る。趙信は、故の胡の小王にして、漢に降る。漢封じて翕侯と為す。前将軍を以て右将軍と軍を并せて分かれ行き、独り単于の兵に遇ふ。故に尽く没す。単于既に翕侯を得、以て自次王と為し、其の姊を用て之に妻はせ、与に漢を謀る。信単于に教へて益々北のかた幕を絶り、以て漢の兵を誘ひ罷れしめ、極に徼へて之を取らしめ、塞に近づく無からしむ。単于其の計に従ふ。其の明年、胡騎万人上谷に入り、数百人を殺す。其の明年春、漢驃騎将軍去病をして万騎を将ゐて隴西より出で、焉支山を過ぐること千余里、匈奴を撃たしめ、胡の首虜万八千余級を得、休屠王の天を祭るの金人を破り得たり。其の夏、驃騎将軍復た合騎侯と数万騎もて隴西・北地より出づること二千里、匈奴を撃つ。居延を過ぎ、祁連山を攻め、胡の首虜三万余人、裨小王以下七十余人を得たり。是の時匈奴も亦来りて代郡・鴈門に入り、数百人を殺略す。漢博望侯及び李将軍広をして右北平より出でしめ、匈奴の左賢王を撃つ。左賢王李将軍を囲む。卒四千人可り、且に尽きんとす。殺虜も亦当に過ぐ。会々博望侯の軍救ひ至り、李将軍脱するを得たり。漢の失亡数千人。合騎侯は驃騎将軍に期に後れ、及び博望侯と皆死に当たり、贖ひて庶人と為る。
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