史記 / 衛将軍驃騎列伝
至塞,天子使使者持大將軍印,即軍中拜車騎將軍青為大將軍,諸將皆以兵屬大將軍,大將軍立號而歸。天子曰:「大將軍青躬率戎士,師大捷,獲匈奴王十有餘人,益封青六千戶。」而封青子伉為宜春侯,青子不疑為陰安侯,青子登為發干侯。青固謝曰:「臣幸得待罪行閒,賴陛下神靈,軍大捷,皆諸校尉力戰之功也。陛下幸已益封臣青。臣青子在繦緥中,未有勤勞,上幸列地封為三侯,非臣待罪行閒所以勸士力戰之意也。伉等三人何敢受封!」天子曰:「我非忘諸校尉功也,今固且圖之。」乃詔御史曰:「護軍都尉公孫敖三從大將軍擊匈奴,常護軍,傅校獲王,以千五百戶封敖為合騎侯。都尉韓說從大將軍出窳渾,至匈奴右賢王庭,為麾下搏戰獲王,以千三百戶封說為龍頟侯。騎將軍公孫賀從大將軍獲王,以千三百戶封賀為南窌侯。輕車將軍李蔡再從大將軍獲王,以千六百戶封蔡為樂安侯。校尉李朔,校尉趙不虞,校尉公孫戎奴,各三從大將軍獲王,以千三百戶封朔為涉軹侯,以千三百戶封不虞為隨成侯,以千三百戶封戎奴為從平侯。將軍李沮、李息及校尉豆如意有功,賜爵關內侯,食邑各三百戶。」
新字:至塞,天子使使者持大将軍印,即軍中拝車騎将軍青為大将軍,諸将皆以兵属大将軍,大将軍立号而帰。天子曰:「大将軍青躬率戎士,師大捷,獲匈奴王十有余人,益封青六千戸。」而封青子伉為宜春侯,青子不疑為陰安侯,青子登為発干侯。青固謝曰:「臣幸得待罪行閒,頼陛下神霊,軍大捷,皆諸校尉力戦之功也。陛下幸已益封臣青。臣青子在繦緥中,未有勤労,上幸列地封為三侯,非臣待罪行閒所以勧士力戦之意也。伉等三人何敢受封!」天子曰:「我非忘諸校尉功也,今固且図之。」乃詔御史曰:「護軍都尉公孫敖三従大将軍撃匈奴,常護軍,傅校獲王,以千五百戸封敖為合騎侯。都尉韓説従大将軍出窳渾,至匈奴右賢王庭,為麾下搏戦獲王,以千三百戸封説為竜頟侯。騎将軍公孫賀従大将軍獲王,以千三百戸封賀為南窌侯。軽車将軍李蔡再従大将軍獲王,以千六百戸封蔡為楽安侯。校尉李朔,校尉趙不虞,校尉公孫戎奴,各三従大将軍獲王,以千三百戸封朔為渉軹侯,以千三百戸封不虞為随成侯,以千三百戸封戎奴為従平侯。将軍李沮、李息及校尉豆如意有功,賜爵関内侯,食邑各三百戸。」
書き下し
塞に至る。天子使者をして大将軍の印を持たしめ、即ち軍中に車騎将軍青を拝して大将軍と為す。諸将皆兵を以て大将軍に属す。大将軍号を立てて帰る。天子曰く、「大将軍青躬ら戎士を率ゐ、師大いに捷ち、匈奴の王十有余人を獲たり。青に六千戸を益封す」と。而して青の子伉を封じて宜春侯と為し、青の子不疑を陰安侯と為し、青の子登を発干侯と為す。青固く謝して曰く、「臣幸ひに罪を行間に待つを得、陛下の神霊に頼りて、軍大いに捷つ。皆諸校尉力戦の功なり。陛下幸ひに已に臣青を益封す。臣青の子は繦緥の中に在り、未だ勤労有らず。上幸ひに地を列して封じて三侯と為すは、臣の罪を行間に待ちて士を勧めて力戦せしむる所以の意に非ざるなり。伉等三人何ぞ敢へて封を受けん」と。天子曰く、「我諸校尉の功を忘るるに非ざるなり。今固より且に之を図らんとす」と。乃ち御史に詔して曰く、「護軍都尉公孫敖三たび大将軍に従ひて匈奴を撃ち、常に軍を護り、校に傅きて王を獲たり。千五百戸を以て敖を封じて合騎侯と為す。都尉韓説大将軍に従ひて窳渾より出で、匈奴の右賢王の庭に至り、麾下の為に搏戦して王を獲たり。千三百戸を以て説を封じて龍頟侯と為す。騎将軍公孫賀大将軍に従ひて王を獲たり。千三百戸を以て賀を封じて南窌侯と為す。軽車将軍李蔡再び大将軍に従ひて王を獲たり。千六百戸を以て蔡を封じて楽安侯と為す。校尉李朔、校尉趙不虞、校尉公孫戎奴、各々三たび大将軍に従ひて王を獲たり。千三百戸を以て朔を封じて渉軹侯と為し、千三百戸を以て不虞を封じて随成侯と為し、千三百戸を以て戎奴を封じて従平侯と為す。将軍李沮・李息及び校尉豆如意功有り、爵関内侯を賜ひ、食邑各々三百戸」と。
現代語訳
長城に戻ると、天子は使者に大将軍の印を持たせて遣わし、軍中でただちに車騎将軍衛青を大将軍に任じた。諸将は皆その兵とともに大将軍の指揮下に入った。大将軍は称号を定められて帰還した。天子は言った。「大将軍衛青は自ら兵を率いて大勝し、匈奴の王十人余りを捕らえた。衛青に六千戸を加増する」。さらに衛青の子の伉を宜春侯に、不疑を陰安侯に、登を発干侯に封じた。衛青は固く辞退して言った。「わたくしは幸いにも軍中に身を置くことができ、陛下の神霊のおかげで軍は大勝した。これは皆、校尉たちの力戦の功績である。陛下はすでにわたくし青に加増してくださった。わたくしの子らはまだ産着にくるまれた赤子で、何の働きもしていない。陛下が土地を分けて三人を侯に封じてくださるのは、わたくしが軍中にあって兵士に力戦を勧める趣旨にかなうものではない。伉ら三人がどうして封を受けられようか」。天子は言った。「わたしは校尉たちの功を忘れているわけではない。今まさにそれを計ろうとしていたところだ」。そこで御史に詔して言った。「護軍都尉の公孫敖は三度大将軍に従って匈奴を攻撃し、常に軍を監督し、校尉とともに王を捕らえた。千五百戸で公孫敖を合騎侯に封じる。都尉の韓説は大将軍に従って窳渾から出撃し、匈奴の右賢王の本営に至り、大将軍の旗本のために奮戦して王を捕らえた。千三百戸で韓説を龍頟侯に封じる。騎将軍の公孫賀は大将軍に従って王を捕らえた。千三百戸で公孫賀を南窌侯に封じる。軽車将軍の李蔡は二度大将軍に従って王を捕らえた。千六百戸で李蔡を楽安侯に封じる。校尉の李朔、趙不虞、公孫戎奴は、それぞれ三度大将軍に従って王を捕らえた。千三百戸で李朔を渉軹侯に、千三百戸で趙不虞を随成侯に、千三百戸で公孫戎奴を従平侯に封じる。将軍の李沮・李息と校尉の豆如意に功があったので、関内侯の爵位と、それぞれ食邑三百戸を与える」。
解説
関連する章句
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史記 衛将軍驃騎列伝悉く李敢等を以て大校と為し、裨将に当て、代・右北平より出づること千余里、左方の兵に直り、斬捕する所の功已に大将軍より多し。軍既に還る。天子曰く、「驃騎将軍去病師を率ゐ、躬ら獲る所の葷粥の士を将ゐ、軽齎を約し、大幕を絶り、渉りて章渠を獲、以て比車耆を誅し、転じて左大将を撃ち、旗鼓を斬獲し、離侯を歴渉す。弓閭を済り、屯頭王・韓王等三人、将軍・相国・当戸・都尉八十三人を獲、狼居胥山に封じ、姑衍に禅し、登りて翰海に臨む。鹵を執へ醜を獲ること七万有四百四十三級、師率減ずること什に三。食を敵に取り、間行殊に遠くして糧絶えず。五千八百戸を以て驃騎将軍に益封す」と。右北平の太守路博徳驃騎将軍に属し、与城に会し、期を失はず、従ひて檮余山に至り、首を斬り虜を捕ふること二千七百級。千六百戸を以て博徳を封じて符離侯と為す。北地の都尉邢山驃騎将軍に従ひて王を獲たり。千二百戸を以て山を封じて義陽侯と為す。故の帰義の因淳王復陸支・楼専王伊即靬皆驃騎将軍に従ひて功有り。千三百戸を以て復陸支を封じて壮侯と為し、千八百戸を以て伊即靬を封じて衆利侯と為す。従驃侯破奴・昌武侯安稽驃騎に従ひて功有り、益封すること各々三百戸。校尉敢旗鼓を得て、関内侯と為し、食邑二百戸。校尉自為爵大庶長。軍吏卒官と為り、賞賜甚だ多し。而して大将軍は益封を得ず、軍吏卒皆封侯せらるる者無し。両軍の塞を出づるや、塞に官及び私馬を閲すること凡そ十四万匹、而して復た塞に入る者三万匹に満たず。乃ち益々大司馬の位を置き、大将軍・驃騎将軍皆大司馬と為る。令を定め、驃騎将軍の秩禄をして大将軍と等しからしむ。是より後、大将軍青日に退き、而して驃騎日に益々貴し。大将軍の故人門下を挙げて多く去りて驃騎に事へ、輒ち官爵を得。唯任安のみ肯ぜず。
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史記 衛将軍驃騎列伝青の校尉張次公功有り、封じて岸頭侯と為す。天子曰く、「匈奴天理に逆らひ、人倫を乱し、長を暴し老を虐げ、盗窃を以て務めと為し、諸蛮夷を行詐し、謀を造り兵を藉り、数々辺害を為す。故に師を興し将を遣はして、以て厥の罪を征す。詩に云はずや、『薄か玁狁を伐ちて、太原に至る』、『車を出だすこと彭彭たり、彼の朔方に城く』と。今車騎将軍青西河を度りて高闕に至り、首虜二千三百級を獲、車輜畜産畢く収めて鹵と為し、已に封じて列侯と為す。遂に西のかた河南の地を定め、榆谿の旧塞を按じ、梓領を絶り、北河に梁し、蒲泥を討ち、符離を破り、軽鋭の卒を斬り、伏聴する者を捕ふること三千七十一級、執訊して醜を獲、馬牛羊を駆ること百有余万、甲兵を全うして還る。青に三千戸を益封す」と。其の明年、匈奴入りて代郡の太守友を殺し、入りて鴈門の千余人を略す。其の明年、匈奴大いに代・定襄・上郡に入り、漢の数千人を殺略す。其の明年、春、漢車騎将軍青をして三万騎を将ゐて、高闕より出でしむ。衛尉蘇建游撃将軍と為り、左内史李沮彊弩将軍と為り、太僕公孫賀騎将軍と為り、代の相李蔡軽車将軍と為り、皆車騎将軍に領属し、倶に朔方より出づ。大行李息・岸頭侯張次公将軍と為り、右北平より出づ。咸匈奴を撃つ。匈奴の右賢王衛青等の兵に当たり、以為へらく漢の兵此に至る能はずと。飲みて酔ふ。漢の兵夜至り、右賢王を囲む。右賢王驚き、夜逃れ、独り其の愛妾一人・壮騎数百と馳せ、囲みを潰して北に去る。漢の軽騎校尉郭成等逐ふこと数百里、及ばず。右賢の裨王十余人、衆男女万五千余人、畜数千百万を得たり。是に於て兵を引きて還る。
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史記 衛将軍驃騎列伝而して卒す。天子之を悼み、属国の玄甲軍を発し、陳ぬること長安より茂陵に至り、冢を為りて祁連山に象る。之を諡し、武と広地とを并せて景桓侯と曰ふ。子嬗侯に代はる。嬗少く、字は子侯、上之を愛し、其の壮なるを幸ひて之を将たらしめんとす。居ること六歳、元封元年、嬗卒し、諡して哀侯と曰ふ。子無く、絶え、国除かる。驃騎将軍の死せしより後、大将軍の長子宜春侯伉法に坐して侯を失ふ。後五歳、伉の弟二人、陰安侯不疑及び発干侯登皆酎金に坐して侯を失ふ。侯を失ひて後二歳、冠軍侯の国除かる。其の後四年、大将軍青卒し、諡して烈侯と為す。子伉代はりて長平侯と為る。大将軍の単于を囲みしより後、十四年にして卒す。竟に復た匈奴を撃たざる者は、漢の馬少なく、而して方に南のかた両越を誅し、東のかた朝鮮を伐ち、羌・西南夷を撃つを以て、故を以て久しく胡を伐たず。大将軍其の平陽長公主を尚るを得たるの故を以て、長平侯伉侯に代はる。六歳にして、法に坐して侯を失ふ。左方は両大将軍及び諸裨将の名なり。最れ大将軍青、凡そ七たび出でて匈奴を撃ち、首虜を斬捕すること五万余級。一たび単于と戦ひ、河南の地を収め、遂に朔方郡を置く。再び益封せられ、凡そ万一千八百戸。三子を封じて侯と為し、侯は千三百戸。之を并せて、万五千七百戸。其の校尉裨将の大将軍に従ひて侯たる者九人。其の裨将及び校尉の已に将と為る者十四人。裨将為る者を李広と曰ふ。自ら伝有り。伝無き者を曰ふ、将軍公孫賀。賀は、義渠の人にして、其の先は胡種なり。賀の父渾邪、景帝の時平曲侯と為り、法に坐して侯を失ふ。賀は、武帝の太子為りし時の舎人なり。武帝立ちて八歳、太僕を以て軽車将軍と為り、馬邑に軍す。後四歳、軽車将軍を以て雲中より出づ。
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史記 衛将軍驃騎列伝渾邪王を万戸に封じ、漯陰侯と為す。其の裨王呼毒尼を封じて下摩侯と為し、鷹庇を煇渠侯と為し、禽を河綦侯と為し、大当戸銅離を常楽侯と為す。是に於て天子驃騎の功を嘉して曰く、「驃騎将軍去病師を率ゐて匈奴の西域王渾邪を攻む。王及び厥の衆萌咸相奔る。率ゐるに軍糧を以て接食し、并せて控弦万有余人を将ゐ、獟駻を誅し、首虜八千余級を獲、異国の王三十二人を降し、戦士は傷を離れず、十万の衆咸懐き集まり服す。仍りに之と労し、爰に河塞に及び、庶幾はくは患ひ無く、幸ひに既に永く綏んぜん。千七百戸を以て驃騎将軍に益封す」と。隴西・北地・上郡の戍卒の半ばを減じ、以て天下の繇を寛くす。居ること頃之、乃ち降る者を辺の五郡の故塞の外に分徙す。而して皆河南に在り、其の故俗に因りて、属国と為す。其の明年、匈奴右北平・定襄に入り、漢の千余人を殺略す。其の明年、天子諸将と議して曰く、「翕侯趙信単于の為に計を画し、常に以為へらく漢の兵は幕を度りて軽しく留まる能はずと。今大いに士卒を発せば、其の勢必ず欲する所を得ん」と。是の歳なり。春、上大将軍青・驃騎将軍去病をして各々五万騎を将ゐしめ、歩兵の転ずる者軍に踵ぐこと数十万。而して敢へて力戦して深く入るの士は皆驃騎に属す。驃騎始め為に定襄より出で、単于に当たらんとす。捕虜言ふ、単于東に在りと。乃ち更めて驃騎をして代郡より出でしめ、大将軍をして定襄より出でしむ。郎中令前将軍と為り、太僕左将軍と為り、主爵趙食其右将軍と為り、平陽侯襄後将軍と為り、皆大将軍に属す。兵即ち幕を度る。人馬凡そ五万騎、驃騎等と咸匈奴の単于を撃つ。趙信単于の為に謀りて曰く、「漢の兵既に幕を度らば、人馬罷れん。匈奴坐して虜を収むべきのみ」と。
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史記 衛将軍驃騎列伝其の秋、匈奴代に入り、都尉朱英を殺す。其の明年春、大将軍青定襄より出づ。合騎侯敖中将軍と為り、太僕賀左将軍と為り、翕侯趙信前将軍と為り、衛尉蘇建右将軍と為り、郎中令李広後将軍と為り、右内史李沮彊弩将軍と為り、咸大将軍に属し、首を斬ること数千級にして還る。月余にして、悉く復た定襄より出でて匈奴を撃ち、首虜を斬ること万余人。右将軍建・前将軍信軍を并すること三千余騎、独り単于の兵に逢ひ、与に戦ふこと一日余、漢の兵且に尽きんとす。前将軍は故の胡人にして、降りて翕侯と為る。急なるを見て、匈奴之を誘ふ。遂に其の余騎八百可りを将ゐて、奔りて単于に降る。右将軍蘇建尽く其の軍を亡ひ、独り身を以て亡げ去るを得て、自ら大将軍に帰る。大将軍其の罪を正閎・長史安・議郎周霸等に問ふ、「建は当に云何すべき」と。霸曰く、「大将軍の出でしより、未だ嘗て裨将を斬らず。今建軍を棄つ。斬りて以て将軍の威を明らかにすべし」と。閎・安曰く、「然らず。兵法に『小敵の堅は、大敵の禽なり』と。今建は数千を以て単于の数万に当たり、力戦すること一日余、士尽くるも、敢へて二心有らず、自ら帰る。自ら帰りて之を斬るは、是れ後に反る意無からしむるを示すなり。当に斬るべからず」と。大将軍曰く、「青幸ひに肺腑を以て罪を行間に待つを得たり。威無きを患へず。而るに霸我に説くに威を明らかにするを以てするは、甚だ臣の意を失ふ。且つ臣の職をして将を斬るに当たると雖も、臣の尊寵を以てして敢へて自ら擅に誅を境外に専らにせず、而して具に天子に帰し、天子自ら之を裁かば、是に於て以て人臣為りて敢へて権を専らにせざるを見す。亦可ならずや」と。軍吏皆曰く「善し」と。遂に建を囚へて行在所に詣る。塞に入りて兵を罷む。是の歳や、大将軍の姊の子霍去病年十八、幸せられて、天子の侍中と為る。
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史記 衛将軍驃騎列伝軽車将軍を以て大将軍に従ひて功有り、封ぜられて楽安侯と為る。已に丞相と為り、法に坐して死す。将軍張次公は、河東の人なり。校尉を以て衛将軍青に従ひて功有り、封ぜられて岸頭侯と為る。其の後太后崩じ、将軍と為り、北軍に軍す。後一歳、将軍と為り、大将軍に従ふ。再び将軍と為り、法に坐して侯を失ふ。次公の父隆は、軽車の武射なり。射を善くするを以て、景帝之を幸近するなり。将軍蘇建は、杜陵の人なり。校尉を以て衛将軍青に従ひ、功有りて、平陵侯と為り、将軍を以て朔方を築く。後四歳、游撃将軍と為り、大将軍に従ひて朔方より出づ。後一歳、右将軍を以て再び大将軍に従ひて定襄より出で、翕侯を亡ひ、軍を失ひ、斬に当たり、贖ひて庶人と為る。其の後代郡の太守と為り、卒す。冢は大猶郷に在り。将軍趙信は、匈奴の相国を以て降り、翕侯と為る。武帝立ちて十七歳、前将軍と為り、単于と戦ひ、敗れて、匈奴に降る。将軍張騫は、使を以て大夏に通じ、還りて、校尉と為る。大将軍に従ひて功有り、封ぜられて博望侯と為る。後三歳、将軍と為り、右北平より出で、期を失ひ、斬に当たり、贖ひて庶人と為る。其の後使して烏孫に通じ、大行と為りて卒す。冢は漢中に在り。将軍趙食其は、祋祤の人なり。武帝立ちて二十二歳、主爵を以て右将軍と為り、大将軍に従ひて定襄より出で、迷ひて道を失ひ、斬に当たり、贖ひて庶人と為る。将軍曹襄は、平陽侯を以て後将軍と為り、大将軍に従ひて定襄より出づ。襄は、曹参の孫なり。将軍韓説は、弓高侯の庶孫なり。校尉を以て大将軍に従ひて功有り、龍頟侯と為る。酎金に坐して侯を失ふ。元鼎六年、待詔を以て横海将軍と為り、東越を撃ちて功有り、按道侯と為る。太初三年を以て游撃将軍と為り、五原の外の列城に屯す。
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