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史記 / 衛将軍驃騎列伝

青校尉張次公有功,封為岸頭侯。天子曰:「匈奴逆天理,亂人倫,暴長虐老,以盜竊為務,行詐諸蠻夷,造謀藉兵,數為邊害,故興師遣將,以征厥罪。詩不云乎:『薄伐玁狁,至于太原』,『出車彭彭,城彼朔方』。今車騎將軍青度西河至高闕,獲首虜二千三百級,車輜畜產畢收為鹵,已封為列侯,遂西定河南地,按榆谿舊塞,絕梓領,梁北河,討蒲泥,破符離,斬輕銳之卒,捕伏聽者三千七十一級,執訊獲醜,驅馬牛羊百有餘萬,全甲兵而還,益封青三千戶。」其明年,匈奴入殺代郡太守友,入略鴈門千餘人。其明年,匈奴大入代、定襄、上郡,殺略漢數千人。其明年,春,漢令車騎將軍青將三萬騎,出高闕;衛尉蘇建為游擊將軍,左內史李沮為彊弩將軍,太僕公孫賀為騎將軍,代相李蔡為輕車將軍,皆領屬車騎將軍,俱出朔方;大行李息、岸頭侯張次公為將軍,出右北平:咸擊匈奴。匈奴右賢王當衛青等兵,以為漢兵不能至此,飲醉。漢兵夜至,圍右賢王,右賢王驚,夜逃,獨與其愛妾一人壯騎數百馳,潰圍北去。漢輕騎校尉郭成等逐數百里,不及,得右賢裨王十餘人,眾男女萬五千餘人,畜數千百萬,於是引兵而還。

新字:青校尉張次公有功,封為岸頭侯。天子曰:「匈奴逆天理,乱人倫,暴長虐老,以盗窃為務,行詐諸蠻夷,造謀藉兵,数為辺害,故興師遣将,以征厥罪。詩不云乎:『薄伐玁狁,至于太原』,『出車彭彭,城彼朔方』。今車騎将軍青度西河至高闕,獲首虜二千三百級,車輜畜産畢収為鹵,已封為列侯,遂西定河南地,按榆谿旧塞,絶梓領,梁北河,討蒲泥,破符離,斬軽鋭之卒,捕伏聴者三千七十一級,執訊獲醜,駆馬牛羊百有余万,全甲兵而還,益封青三千戸。」其明年,匈奴入殺代郡太守友,入略鴈門千余人。其明年,匈奴大入代、定襄、上郡,殺略漢数千人。其明年,春,漢令車騎将軍青将三万騎,出高闕;衛尉蘇建為游撃将軍,左内史李沮為彊弩将軍,太僕公孫賀為騎将軍,代相李蔡為軽車将軍,皆領属車騎将軍,倶出朔方;大行李息、岸頭侯張次公為将軍,出右北平:咸撃匈奴。匈奴右賢王当衛青等兵,以為漢兵不能至此,飲酔。漢兵夜至,囲右賢王,右賢王驚,夜逃,独与其愛妾一人壮騎数百馳,潰囲北去。漢軽騎校尉郭成等逐数百里,不及,得右賢裨王十余人,衆男女万五千余人,畜数千百万,於是引兵而還。

書き下し

青の校尉張次公功有り、封じて岸頭侯と為す。天子曰く、「匈奴天理に逆らひ、人倫を乱し、長を暴し老を虐げ、盗窃を以て務めと為し、諸蛮夷を行詐し、謀を造り兵を藉り、数々辺害を為す。故に師を興し将を遣はして、以て厥の罪を征す。詩に云はずや、『薄か玁狁を伐ちて、太原に至る』、『車を出だすこと彭彭たり、彼の朔方に城く』と。今車騎将軍青西河を度りて高闕に至り、首虜二千三百級を獲、車輜畜産畢く収めて鹵と為し、已に封じて列侯と為す。遂に西のかた河南の地を定め、榆谿の旧塞を按じ、梓領を絶り、北河に梁し、蒲泥を討ち、符離を破り、軽鋭の卒を斬り、伏聴する者を捕ふること三千七十一級、執訊して醜を獲、馬牛羊を駆ること百有余万、甲兵を全うして還る。青に三千戸を益封す」と。其の明年、匈奴入りて代郡の太守友を殺し、入りて鴈門の千余人を略す。其の明年、匈奴大いに代・定襄・上郡に入り、漢の数千人を殺略す。其の明年、春、漢車騎将軍青をして三万騎を将ゐて、高闕より出でしむ。衛尉蘇建游撃将軍と為り、左内史李沮彊弩将軍と為り、太僕公孫賀騎将軍と為り、代の相李蔡軽車将軍と為り、皆車騎将軍に領属し、倶に朔方より出づ。大行李息・岸頭侯張次公将軍と為り、右北平より出づ。咸匈奴を撃つ。匈奴の右賢王衛青等の兵に当たり、以為へらく漢の兵此に至る能はずと。飲みて酔ふ。漢の兵夜至り、右賢王を囲む。右賢王驚き、夜逃れ、独り其の愛妾一人・壮騎数百と馳せ、囲みを潰して北に去る。漢の軽騎校尉郭成等逐ふこと数百里、及ばず。右賢の裨王十余人、衆男女万五千余人、畜数千百万を得たり。是に於て兵を引きて還る。

現代語訳

衛青の校尉の張次公に功があったので、岸頭侯に封じた。天子は言った。「匈奴は天の道理に逆らい、人の道を乱し、年長者に乱暴し老人を虐げ、盗みを仕事とし、多くの異民族をだまし、謀略を巡らし兵を借りて、たびたび辺境に害をなしてきた。だから軍を起こし将を遣わして、その罪を討ったのである。詩経にも『獫狁を討って、太原に至る』『兵車を出すこと盛んに、あの朔方に城を築く』と言うではないか。今、車騎将軍衛青は西河を渡って高闕に至り、首や捕虜二千三百を得て、車や荷物、家畜をすべて戦利品とし、すでに列侯に封じた。さらに西へ進んで河南の地を平定し、榆谿の古い要塞を巡り、梓領を越え、北河に橋を架け、蒲泥を討ち、符離を破り、軽装の精鋭を斬り、敵の斥候を三千七十一人捕らえ、取り調べて敵を捕らえ、馬・牛・羊百万頭余りを追い立て、自軍の兵を損なわずに帰還した。衛青に三千戸を加増する」。その翌年、匈奴が侵入して代郡太守の共友を殺し、鴈門に侵入して千人余りを連れ去った。その翌年、匈奴は大挙して代・定襄・上郡に侵入し、漢の民数千人を殺したり連れ去ったりした。その翌年の春、漢は車騎将軍衛青に三万騎を率いて高闕から出撃させた。衛尉の蘇建が游撃将軍、左内史の李沮が彊弩将軍、太僕の公孫賀が騎将軍、代の相の李蔡が軽車将軍となり、皆車騎将軍の指揮下に入ってともに朔方から出撃した。大行の李息と岸頭侯の張次公が将軍となって右北平から出撃し、皆で匈奴を攻撃した。匈奴の右賢王は衛青らの兵に相対していたが、漢の兵はここまで来られないと考え、酒を飲んで酔っていた。漢の兵が夜に到着して右賢王を包囲すると、右賢王は驚いて夜に逃げ、ただ愛妾一人と勇壮な騎兵数百とともに馬を走らせ、包囲を突破して北へ去った。漢の軽騎校尉郭成らが数百里追ったが追いつけなかった。右賢王配下の副王十人余り、男女一万五千人余り、家畜数千から百万頭を得た。そこで兵を引いて帰還した。

解説

衛青の河南平定を称える武帝の詔と、右賢王を夜襲で破った戦いを記した段です。武帝は匈奴の非道を列挙し、詩経の周の北伐の詩を引いて、衛青の遠征を古の聖王の事業になぞらえました。高闕から河南の地を平定し、百万頭余りの家畜を得て、自軍の兵をほとんど損なわずに帰還したことが特に評価されています。戦果の大きさだけでなく、兵を失わなかったことが功績として明記されている点は、李広の戦いぶりとの違いを考えるうえで示唆的です。続く元朔五年の遠征では、衛青は多くの将軍を率いて朔方から出撃し、漢軍は来られないと油断して酒に酔っていた右賢王を夜襲で包囲しました。右賢王は愛妾一人と数百騎で逃げ延びますが、副王十人余り、一万五千人、膨大な家畜を捕らえます。この戦いの記述は匈奴列伝にも見えますが、ここでは衛青を中心に語られています。損害を抑えて大きな成果を上げることは、華々しい奮戦以上に評価されるべき指揮官の力量です。

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