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史記 / 匈奴列伝

呴犁湖單于立,漢使光祿徐自爲出五原塞數百里,遠者千餘里,築城鄣列亭至廬朐,而使游擊將軍韓說、長平侯衛伉屯其旁,使彊弩都尉路博德築居延澤上。其秋,匈奴大入定襄、雲中,殺略數千人,敗數二千石而去,行破壞光祿所築城列亭鄣。又使右賢王入酒泉、張掖,略數千人。會任文擊救,盡復失所得而去。是歳,貳師將軍破大宛,斬其王而還。匈奴欲遮之,不能至。其冬,欲攻受降城,會單于病死。呴犁湖單于立一歳死。匈奴乃立其弟左大都尉且鞮侯爲單于。漢既誅大宛,威震外國。天子意欲遂困胡,乃下詔曰:「高皇帝遺朕平城之憂,高后時單于書絕悖逆。昔齊襄公復九世之讎,春秋大之。」是歳太初四年也。且鞮侯單于既立,盡歸漢使之不降者。路充國等得歸。單于初立,恐漢襲之,乃自謂「我兒子,安敢望漢天子!漢天子,我丈人行也」。漢遣中郎將蘇武厚幣賂遺單于。單于益驕,禮甚倨,非漢所望也。其明年,浞野侯破奴得亡歸漢。其明年,漢使貳師將軍廣利以三萬騎出酒泉,擊右賢王於天山,得胡首虜萬餘級而還。匈奴大圍貳師將軍,幾不脫。漢兵物故什六七。漢復使因杅將軍敖出西河,與彊弩都尉會涿涂山,毋所得。

新字:呴犁湖単于立,漢使光禄徐自為出五原塞数百里,遠者千余里,築城鄣列亭至廬朐,而使游撃将軍韓説、長平侯衛伉屯其旁,使彊弩都尉路博徳築居延沢上。其秋,匈奴大入定襄、雲中,殺略数千人,敗数二千石而去,行破壊光禄所築城列亭鄣。又使右賢王入酒泉、張掖,略数千人。会任文撃救,尽復失所得而去。是歳,貳師将軍破大宛,斬其王而還。匈奴欲遮之,不能至。其冬,欲攻受降城,会単于病死。呴犁湖単于立一歳死。匈奴乃立其弟左大都尉且鞮侯為単于。漢既誅大宛,威震外国。天子意欲遂困胡,乃下詔曰:「高皇帝遺朕平城之憂,高后時単于書絶悖逆。昔斉襄公復九世之讎,春秋大之。」是歳太初四年也。且鞮侯単于既立,尽帰漢使之不降者。路充国等得帰。単于初立,恐漢襲之,乃自謂「我児子,安敢望漢天子!漢天子,我丈人行也」。漢遣中郎将蘇武厚幣賂遺単于。単于益驕,礼甚倨,非漢所望也。其明年,浞野侯破奴得亡帰漢。其明年,漢使貳師将軍広利以三万騎出酒泉,撃右賢王於天山,得胡首虜万余級而還。匈奴大囲貳師将軍,幾不脱。漢兵物故什六七。漢復使因杅将軍敖出西河,与彊弩都尉会涿涂山,毋所得。

書き下し

呴犁湖単于立つ。漢光禄徐自為をして五原の塞を出づること数百里、遠き者は千余里、城鄣列亭を築きて廬朐に至らしめ、而して游撃将軍韓説・長平侯衛伉をして其の旁に屯せしめ、彊弩都尉路博徳をして居延沢の上に築かしむ。其の秋、匈奴大いに定襄・雲中に入り、数千人を殺略し、数々二千石を敗りて去る。行くゆく光禄の築く所の城列亭鄣を破壊す。又右賢王をして酒泉・張掖に入らしめ、数千人を略す。会々任文撃ちて救ひ、尽く復た得る所を失ひて去る。是の歳、弐師将軍大宛を破り、其の王を斬りて還る。匈奴之を遮らんと欲するも、至る能はず。其の冬、受降城を攻めんと欲す。会々単于病死す。呴犁湖単于立ちて一歳にして死す。匈奴乃ち其の弟左大都尉且鞮侯を立てて単于と為す。漢既に大宛を誅し、威外国に震ふ。天子の意遂に胡を困しめんと欲し、乃ち詔を下して曰く、「高皇帝朕に平城の憂ひを遺し、高后の時単于の書絶だ悖逆なり。昔斉の襄公九世の讎を復し、春秋之を大とす」と。是の歳は太初四年なり。且鞮侯単于既に立ち、尽く漢の使の降らざる者を帰す。路充国等帰るを得たり。単于初めて立ち、漢の之を襲はんことを恐れ、乃ち自ら謂ふ、「我は児子なり。安んぞ敢へて漢の天子を望まん。漢の天子は、我が丈人の行なり」と。漢中郎将蘇武をして厚幣もて単于に賂遺せしむ。単于益々驕り、礼甚だ倨にして、漢の望む所に非ざるなり。其の明年、浞野侯破奴亡げて漢に帰るを得たり。其の明年、漢弐師将軍広利をして三万騎を以て酒泉より出で、右賢王を天山に撃たしむ。胡の首虜万余級を得て還る。匈奴大いに弐師将軍を囲み、幾ど脱せず。漢の兵の物故するもの什に六七。漢復た因杅将軍敖をして西河より出で、彊弩都尉と涿涂山に会せしむるも、得る所毋し。

現代語訳

呴犁湖単于が即位した。漢は光禄勲の徐自為に五原の要塞から数百里、遠い所では千里余りの先まで出て、城砦や見張り台を連ねて築かせ、廬朐にまで至らせた。そして游撃将軍の韓説と長平侯の衛伉をそのそばに駐屯させ、彊弩都尉の路博徳に居延沢のほとりに城を築かせた。その秋、匈奴は大挙して定襄・雲中に侵入し、数千人を殺したり連れ去ったりし、何人もの二千石の官(太守ら)を破って去った。その途中で、光禄勲が築いた城砦や見張り台を破壊した。また右賢王を酒泉・張掖に侵入させ、数千人を連れ去った。ちょうど任文が攻撃して救援したので、匈奴は奪ったものをすべて失って去った。この年、弐師将軍(李広利)が大宛を破り、その王を斬って帰還した。匈奴はこれを途中で遮ろうとしたが、たどり着けなかった。その冬、匈奴は受降城を攻めようとしたが、ちょうど単于が病死した。呴犁湖単于は即位して一年で死んだ。匈奴はそこでその弟の左大都尉且鞮侯を単于に立てた。漢は大宛を討ったことで、その威光は外国を震え上がらせた。天子はこの勢いで匈奴を追い詰めようと考え、詔を下して言った。「高皇帝はわたしに平城の憂い(白登の屈辱)を残し、高后の時には単于の書状がきわめて無礼であった。昔、斉の襄公は九代前の仇を討ち、春秋はこれを大いに称えた」。この年は太初四年である。且鞮侯単于は即位すると、漢の使者で降伏しなかった者をすべて帰した。路充国らは帰ることができた。単于は即位したばかりで、漢に襲われるのを恐れ、自ら「わたしは子どものようなものだ。どうして漢の天子と肩を並べようなどと思おうか。漢の天子はわたしにとって義父の世代にあたる方だ」と言った。漢は中郎将の蘇武に手厚い贈り物を持たせて単于に贈らせた。ところが単于はますます驕り、礼はたいへん傲慢で、漢が期待したようにはならなかった。その翌年、浞野侯趙破奴は匈奴から逃げて漢に帰ることができた。その翌年、漢は弐師将軍李広利に三万騎を率いて酒泉から出撃させ、天山で右賢王を攻撃させた。匈奴の首や捕虜一万余りを得て帰還したが、匈奴は大軍で弐師将軍を包囲し、ほとんど脱出できないところであった。漢の兵で死んだ者は十人に六、七人に上った。漢はまた因杅将軍公孫敖に西河から出撃させ、彊弩都尉と涿涂山で合流させたが、得るものはなかった。

解説

武帝晩年の太初年間の漢と匈奴の攻防です。漢は五原の外に城砦を連ね、居延沢に城を築いて前線を押し出しますが、匈奴は定襄・雲中に侵入して城砦を壊しました。李広利が大宛を破って威光が高まると、武帝は高祖の白登の屈辱や、呂后への無礼な書状を持ち出し、九世の仇を討った斉の襄公を引いて、匈奴を追い詰める意志を示します。即位したばかりの且鞮侯単于は、漢の使者を帰し、漢の天子は自分にとって義父の世代だとへりくだりましたが、漢が蘇武に贈り物を持たせて送ると、かえって驕って傲慢になりました。蘇武はこの後、匈奴に長く抑留されることになります。李広利の天山遠征も一万余りの戦果の代わりに兵の六、七割を失いました。相手が弱気なときに下手に出てきた言葉をうのみにし、贈り物で関係を固めようとしても、状況が変われば態度はすぐに変わります。相手の言葉より、その置かれた状況を見る必要があります。

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