史記 / 匈奴列伝
又使騎都尉李陵將步騎五千人,出居延北千餘里,與單于會,合戰,陵所殺傷萬餘人,兵及食盡,欲解歸,匈奴圍陵,陵降匈奴,其兵遂沒,得還者四百人。單于乃貴陵,以其女妻之。後二歳,復使貳師將軍將六萬騎,步兵十萬,出朔方。彊弩都尉路博德將萬餘人,與貳師會。游擊將軍說將步騎三萬人,出五原。因杅將軍敖將萬騎步兵三萬人,出鴈門。匈奴聞,悉遠其累重於余吾水北,而單于以十萬騎待水南,與貳師將軍接戰。貳師乃解而引歸,與單于連戰十餘日。貳師聞其家以巫蠱族滅,因并眾降匈奴,得來還千人一兩人耳。游擊說無所得。因杅敖與左賢王戰,不利,引歸。是歳漢兵之出擊匈奴者不得言功多少,功不得御。有詔捕太醫令隨但,言貳師將軍家室族滅,使廣利得降匈奴。
新字:又使騎都尉李陵将歩騎五千人,出居延北千余里,与単于会,合戦,陵所殺傷万余人,兵及食尽,欲解帰,匈奴囲陵,陵降匈奴,其兵遂没,得還者四百人。単于乃貴陵,以其女妻之。後二歳,復使貳師将軍将六万騎,歩兵十万,出朔方。彊弩都尉路博徳将万余人,与貳師会。游撃将軍説将歩騎三万人,出五原。因杅将軍敖将万騎歩兵三万人,出鴈門。匈奴聞,悉遠其累重於余吾水北,而単于以十万騎待水南,与貳師将軍接戦。貳師乃解而引帰,与単于連戦十余日。貳師聞其家以巫蠱族滅,因并衆降匈奴,得来還千人一両人耳。游撃説無所得。因杅敖与左賢王戦,不利,引帰。是歳漢兵之出撃匈奴者不得言功多少,功不得御。有詔捕太医令随但,言貳師将軍家室族滅,使広利得降匈奴。
書き下し
又騎都尉李陵をして歩騎五千人を将ゐて、居延の北千余里に出でしむ。単于と会し、合戦す。陵の殺傷する所万余人。兵及び食尽き、解きて帰らんと欲す。匈奴陵を囲む。陵匈奴に降り、其の兵遂に没す。還るを得る者四百人。単于乃ち陵を貴び、其の女を以て之に妻はす。後二歳、復た弐師将軍をして六万騎、歩兵十万を将ゐて、朔方より出でしむ。彊弩都尉路博徳万余人を将ゐて、弐師と会す。游撃将軍説歩騎三万人を将ゐて、五原より出づ。因杅将軍敖万騎歩兵三万人を将ゐて、鴈門より出づ。匈奴聞き、悉く其の累重を余吾水の北に遠ざけ、而して単于十万騎を以て水の南に待ち、弐師将軍と接戦す。弐師乃ち解きて引き帰り、単于と連戦すること十余日。弐師其の家の巫蠱を以て族滅せらるるを聞き、因りて衆を并せて匈奴に降る。来り還るを得る者千人に一両人のみ。游撃説は得る所無し。因杅敖は左賢王と戦ひ、利あらず、引き帰る。是の歳漢の兵の出でて匈奴を撃つ者、功の多少を言ふを得ず、功御するを得ず。詔有りて太医令随但を捕ふ。弐師将軍の家室族滅せらるるを言ひて、広利をして匈奴に降るを得しむればなり。
現代語訳
また騎都尉の李陵に歩兵と騎兵五千人を率いさせ、居延の北千里余りに出撃させた。李陵は単于と遭遇して交戦し、一万人余りを殺傷した。しかし武器も食糧も尽きたので、包囲を解いて帰ろうとしたところ、匈奴が李陵を包囲した。李陵は匈奴に降伏し、その兵はついに全滅して、帰還できた者は四百人であった。単于は李陵を重んじ、自分の娘を妻として与えた。二年後、漢はまた弐師将軍李広利に騎兵六万・歩兵十万を率いて朔方から出撃させた。彊弩都尉の路博徳は一万人余りを率いて弐師将軍と合流した。游撃将軍の韓説は歩兵と騎兵三万人を率いて五原から出撃した。因杅将軍の公孫敖は騎兵一万・歩兵三万人を率いて鴈門から出撃した。匈奴はこれを聞くと、家族や荷物をすべて余吾水の北へ遠ざけ、単于は十万騎で水の南に待ち構えて、弐師将軍と交戦した。弐師将軍は包囲を解いて引き返し、単于と十日余り連戦した。弐師将軍は自分の家族が巫蠱の罪で一族皆殺しにされたと聞くと、軍勢を合わせて匈奴に降伏した。帰還できた者は千人に一人か二人にすぎなかった。游撃将軍の韓説は何も得られなかった。因杅将軍の公孫敖は左賢王と戦って不利となり、引き返した。この年、匈奴攻撃に出た漢の兵は、手柄の多少を言うことができず、手柄は罪を償うにも足りなかった。詔によって太医令の随但が捕らえられた。随但が弐師将軍の家族が皆殺しにされたことを伝えたために、李広利が匈奴に降伏することになったからである。
解説
関連する章句
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史記 李将軍列伝陵の軍五千人、兵矢既に尽き、士死する者半ばを過ぐ。而して殺傷する所の匈奴も亦万余人。且つ引き且つ戦ひ、連闘すること八日、還りて未だ居延に到らざること百余里、匈奴狭きを遮りて道を絶つ。陵食乏しくして救兵到らず。虜急に撃ちて陵を招降す。陵曰く、「面目の陛下に報ずる無し」と。遂に匈奴に降る。其の兵尽く没し、余の亡散して漢に帰るを得る者四百余人。単于既に陵を得、素より其の家声を聞き、戦ふに及びて又壮なり。乃ち其の女を以て陵に妻はせて之を貴くす。漢聞きて、陵の母妻子を族す。是より後、李氏の名敗れ、而して隴西の士の門下に居る者皆用て恥と為す。
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史記 匈奴列伝其の秋、匈奴万騎入りて代郡の都尉朱英を殺し、千余人を略す。其の明年春、漢復た大将軍衛青を遣はし、六将軍、兵十余万騎を将ゐて、乃ち再び定襄より出づること数百里、匈奴を撃つ。首虜を得ること前後凡そ万九千余級。而して漢も亦両将軍を亡ひ、軍三千余騎。右将軍建は身を以て脱するを得たり。而して前将軍翕侯趙信は兵利あらず、匈奴に降る。趙信は、故の胡の小王にして、漢に降る。漢封じて翕侯と為す。前将軍を以て右将軍と軍を并せて分かれ行き、独り単于の兵に遇ふ。故に尽く没す。単于既に翕侯を得、以て自次王と為し、其の姊を用て之に妻はせ、与に漢を謀る。信単于に教へて益々北のかた幕を絶り、以て漢の兵を誘ひ罷れしめ、極に徼へて之を取らしめ、塞に近づく無からしむ。単于其の計に従ふ。其の明年、胡騎万人上谷に入り、数百人を殺す。其の明年春、漢驃騎将軍去病をして万騎を将ゐて隴西より出で、焉支山を過ぐること千余里、匈奴を撃たしめ、胡の首虜万八千余級を得、休屠王の天を祭るの金人を破り得たり。其の夏、驃騎将軍復た合騎侯と数万騎もて隴西・北地より出づること二千里、匈奴を撃つ。居延を過ぎ、祁連山を攻め、胡の首虜三万余人、裨小王以下七十余人を得たり。是の時匈奴も亦来りて代郡・鴈門に入り、数百人を殺略す。漢博望侯及び李将軍広をして右北平より出でしめ、匈奴の左賢王を撃つ。左賢王李将軍を囲む。卒四千人可り、且に尽きんとす。殺虜も亦当に過ぐ。会々博望侯の軍救ひ至り、李将軍脱するを得たり。漢の失亡数千人。合騎侯は驃騎将軍に期に後れ、及び博望侯と皆死に当たり、贖ひて庶人と為る。
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史記 李将軍列伝而して右将軍独り吏に下され、死に当たり、贖ひて庶人と為る。広の子三人、当戸・椒・敢と曰ひ、郎と為る。天子韓嫣と戯る。嫣少しく不遜なり。当戸嫣を撃ち、嫣走る。是に於て天子以て勇と為す。当戸早く死す。椒を拝して代郡の太守と為す。皆広に先だちて死す。当戸に遺腹の子有り、名は陵。広軍に死する時、敢は驃騎将軍に従ふ。広死するの明年、李蔡丞相を以て孝景の園の壖地を侵すに坐し、当に吏に下りて治むべし。蔡も亦自殺し、獄に対へず、国除かる。李敢校尉を以て驃騎将軍に従ひて胡の左賢王を撃ち、力戦して、左賢王の鼓旗を奪ひ、斬首多し。爵関内侯を賜ひ、食邑二百戸、広に代はりて郎中令と為る。頃之、大将軍青の其の父を恨ましめしを怨み、乃ち大将軍を撃ち傷つく。大将軍匿して之を諱む。居ること何も無く、敢上に従ひて雍に之き、甘泉宮に至りて猟す。驃騎将軍去病青と親有り、敢を射殺す。去病時に方に貴幸せらる。上諱みて鹿触れて之を殺すと云ふ。居ること歳余にして、去病死す。而して敢に女有りて太子の中人と為り、愛幸せらる。敢の男禹太子に寵有り。然れども利を好む。李氏陵遅して衰微す。李陵既に壮にして、選ばれて建章の監と為り、諸騎を監す。射を善くし、士卒を愛す。天子以為へらく李氏は世々将なりと。而して八百騎を将ゐしむ。嘗て深く匈奴に入ること二千余里、居延を過ぎて地形を視、虜を見る所無くして還る。拝して騎都尉と為し、丹陽の楚人五千人を将ゐて、射を酒泉・張掖に教へ、以て屯して胡を衛らしむ。数歳にして、天漢二年秋、弐師将軍李広利三万騎を将ゐて匈奴の右賢王を祁連天山に撃つ。而して陵をして其の射士歩兵五千人を将ゐて居延の北千余里可りに出でしめ、以て匈奴の兵を分かち、専ら弐師に走らしむる毋からんと欲す。陵既に期に至りて還る。而して単于兵八万を以て陵の軍を囲撃す。
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史記 匈奴列伝其の秋、単于渾邪王・休屠王の西方に居りて漢の殺虜する所と為ること数万人なるを怒り、召して之を誅せんと欲す。渾邪王と休屠王と恐れ、漢に降らんことを謀る。漢驃騎将軍をして往きて之を迎へしむ。渾邪王休屠王を殺し、并せて其の衆を将ゐて漢に降る。凡そ四万余人、号して十万。是に於て漢已に渾邪王を得、則ち隴西・北地・河西益々胡寇少なし。関東の貧民を徙して奪ふ所の匈奴の河南・新秦中に処らしめて以て之を実たし、而して北地以西の戍卒の半ばを減ず。其の明年、匈奴右北平・定襄に入ること各々数万騎、千余人を殺略して去る。其の明年春、漢謀りて曰く「翕侯信単于の為に計り、幕北に居り、以為へらく漢の兵至る能はずと」と。乃ち馬に粟して十万騎を発し、私負従の馬凡そ十四万匹、糧重は与からず。大将軍青・驃騎将軍去病をして軍を中分せしめ、大将軍は定襄より出で、驃騎将軍は代より出で、咸約して幕を絶りて匈奴を撃たしむ。単于之を聞き、其の輜重を遠ざけ、精兵を以て幕北に待つ。漢の大将軍と接戦すること一日、会々暮れ、大風起こる。漢の兵左右の翼を縦ちて単于を囲む。単于自ら度るに戦ふこと漢の兵に如く能はず。単于遂に独り身壮騎数百と漢の囲みを潰して西北に遁走す。漢の兵夜追ひて得ず。行くゆく匈奴の首虜を斬捕すること万九千級、北のかた闐顔山の趙信城に至りて還る。単于の遁走するや、其の兵往往にして漢の兵と相乱れて単于に随ふ。単于久しく其の大衆と相得ず。其の右谷蠡王以為へらく単于死せりと。乃ち自ら立ちて単于と為る。真の単于復た其の衆を得たり。而して右谷蠡王乃ち其の単于の号を去り、復た右谷蠡王と為る。
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史記 匈奴列伝漢の使の匈奴に留まる者前後十余輩、而して匈奴の使来れば、漢も亦輒ち留めて相当たらしむ。是の歳、漢弐師将軍広利をして西のかた大宛を伐たしめ、而して因杅将軍敖をして受降城を築かしむ。其の冬、匈奴大いに雨雪ふり、畜多く饑寒して死す。児単于年少く、殺伐を好み、国人多く安んぜず。左大都尉単于を殺さんと欲し、人をして間に漢に告げしめて曰く、「我単于を殺して漢に降らんと欲す。漢遠し。即ち兵来りて我を迎へば、我即ち発せん」と。初め、漢此の言を聞き、故に受降城を築く。猶ほ以て遠しと為す。其の明年春、漢浞野侯破奴をして二万余騎を将ゐて朔方の西北二千余里に出で、期して浚稽山に至りて還らしむ。浞野侯既に期に至りて還る。左大都尉発せんと欲して覚られ、単于之を誅し、左方の兵を発して浞野を撃つ。浞野侯行くゆく首虜を捕へて数千人を得たり。還りて、未だ受降城に至らざること四百里、匈奴の兵八万騎之を囲む。浞野侯夜自ら出でて水を求む。匈奴間に捕へ、浞野侯を生け得て、因りて急に其の軍を撃つ。軍中の郭縦護と為り、維王渠と為り、相与に謀りて曰く、「諸校尉の将軍を亡ひしを畏れて之を誅するに及び、相勧めて帰る莫し」と。軍遂に匈奴に没す。匈奴の児単于大いに喜び、遂に奇兵を遣はして受降城を攻む。下す能はず。乃ち寇して辺に入りて去る。其の明年、単于自ら受降城を攻めんと欲するも、未だ至らずして、病みて死す。児単于立ちて三歳にして死す。子年少し。匈奴乃ち其の季父烏維単于の弟右賢王呴犁湖を立てて単于と為す。是の歳は太初三年なり。
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史記 衛将軍驃騎列伝乃ち悉く其の輜重を遠く北にし、皆精兵を以て幕北に待つ。而して適々大将軍の軍塞を出づること千余里にして、単于の兵陳して待つを見るに値ふ。是に於て大将軍武剛車をして自ら環りて営と為さしめ、而して五千騎を縦ちて往きて匈奴に当たらしむ。匈奴も亦縦つこと万騎可り。会々日且に入らんとし、大風起こり、沙礫面を撃ち、両軍相見ず。漢益々左右の翼を縦ちて単于を繞る。単于漢の兵の多くして、士馬尚ほ彊きを視、戦ひて匈奴利あらず。薄莫、単于遂に六驘に乗り、壮騎数百可りと、直ちに漢の囲みを冒して西北に馳せ去る。時に已に昏く、漢と匈奴と相紛挐し、殺傷大いに当たる。漢の軍の左校虜を捕へて言ふ、単于未だ昏れざるに去れりと。漢の軍因りて軽騎を発して夜之を追ひ、大将軍の軍因りて其の後に随ふ。匈奴の兵も亦散走す。遅明、行くこと二百余里、単于を得ず。頗る首虜を捕斬すること万余級、遂に窴顔山の趙信城に至り、匈奴の積粟を得て軍に食はす。軍留まること一日にして還り、悉く其の城の余粟を焼きて以て帰る。大将軍の単于と会するや、前将軍広・右将軍食其の軍別に東道より従ひ、或いは道を失ひ、単于を撃つに後る。大将軍引き還りて幕南を過ぎ、乃ち前将軍・右将軍を得たり。大将軍使をして帰りて報ぜしめんと欲し、長史をして前将軍広を簿責せしむ。広自殺す。右将軍至り、吏に下され、贖ひて庶人と為る。大将軍の軍塞に入る。凡そ首虜を斬捕すること万九千級。是の時匈奴の衆単于を失ふこと十余日。右谷蠡王之を聞き、自ら立ちて単于と為る。単于後に其の衆を得、右王乃ち単于の号を去る。驃騎将軍も亦五万騎を将ゐ、車重大将軍の軍と等し。而して裨将無し。
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