史記 / 匈奴列伝
漢使留匈奴者前後十餘輩,而匈奴使來,漢亦輒留相當。是歳,漢使貳師將軍廣利西伐大宛,而令因杅將軍敖築受降城。其冬,匈奴大雨雪,畜多饑寒死。兒單于年少,好殺伐,國人多不安。左大都尉欲殺單于,使人閒告漢曰:「我欲殺單于降漢,漢遠,即兵來迎我,我即發。」初,漢聞此言,故築受降城,猶以爲遠。其明年春,漢使浞野侯破奴將二萬餘騎出朔方西北二千餘里,期至浚稽山而還。浞野侯既至期而還,左大都尉欲發而覺,單于誅之,發左方兵擊浞野。浞野侯行捕首虜得數千人。還,未至受降城四百里,匈奴兵八萬騎圍之。浞野侯夜自出求水,匈奴閒捕,生得浞野侯,因急擊其軍。軍中郭縱爲護,維王爲渠,相與謀曰:「及諸校尉畏亡將軍而誅之,莫相勸歸。」軍遂沒於匈奴。匈奴兒單于大喜,遂遣奇兵攻受降城。不能下,乃寇入邊而去。其明年,單于欲自攻受降城,未至,病死。兒單于立三歳而死。子年少,匈奴乃立其季父烏維單于弟右賢王呴犁湖爲單于。是歳太初三年也。
新字:漢使留匈奴者前後十余輩,而匈奴使来,漢亦輒留相当。是歳,漢使貳師将軍広利西伐大宛,而令因杅将軍敖築受降城。其冬,匈奴大雨雪,畜多饑寒死。児単于年少,好殺伐,国人多不安。左大都尉欲殺単于,使人閒告漢曰:「我欲殺単于降漢,漢遠,即兵来迎我,我即発。」初,漢聞此言,故築受降城,猶以為遠。其明年春,漢使浞野侯破奴将二万余騎出朔方西北二千余里,期至浚稽山而還。浞野侯既至期而還,左大都尉欲発而覚,単于誅之,発左方兵撃浞野。浞野侯行捕首虜得数千人。還,未至受降城四百里,匈奴兵八万騎囲之。浞野侯夜自出求水,匈奴閒捕,生得浞野侯,因急撃其軍。軍中郭縦為護,維王為渠,相与謀曰:「及諸校尉畏亡将軍而誅之,莫相勧帰。」軍遂没於匈奴。匈奴児単于大喜,遂遣奇兵攻受降城。不能下,乃寇入辺而去。其明年,単于欲自攻受降城,未至,病死。児単于立三歳而死。子年少,匈奴乃立其季父烏維単于弟右賢王呴犁湖為単于。是歳太初三年也。
書き下し
漢の使の匈奴に留まる者前後十余輩、而して匈奴の使来れば、漢も亦輒ち留めて相当たらしむ。是の歳、漢弐師将軍広利をして西のかた大宛を伐たしめ、而して因杅将軍敖をして受降城を築かしむ。其の冬、匈奴大いに雨雪ふり、畜多く饑寒して死す。児単于年少く、殺伐を好み、国人多く安んぜず。左大都尉単于を殺さんと欲し、人をして間に漢に告げしめて曰く、「我単于を殺して漢に降らんと欲す。漢遠し。即ち兵来りて我を迎へば、我即ち発せん」と。初め、漢此の言を聞き、故に受降城を築く。猶ほ以て遠しと為す。其の明年春、漢浞野侯破奴をして二万余騎を将ゐて朔方の西北二千余里に出で、期して浚稽山に至りて還らしむ。浞野侯既に期に至りて還る。左大都尉発せんと欲して覚られ、単于之を誅し、左方の兵を発して浞野を撃つ。浞野侯行くゆく首虜を捕へて数千人を得たり。還りて、未だ受降城に至らざること四百里、匈奴の兵八万騎之を囲む。浞野侯夜自ら出でて水を求む。匈奴間に捕へ、浞野侯を生け得て、因りて急に其の軍を撃つ。軍中の郭縦護と為り、維王渠と為り、相与に謀りて曰く、「諸校尉の将軍を亡ひしを畏れて之を誅するに及び、相勧めて帰る莫し」と。軍遂に匈奴に没す。匈奴の児単于大いに喜び、遂に奇兵を遣はして受降城を攻む。下す能はず。乃ち寇して辺に入りて去る。其の明年、単于自ら受降城を攻めんと欲するも、未だ至らずして、病みて死す。児単于立ちて三歳にして死す。子年少し。匈奴乃ち其の季父烏維単于の弟右賢王呴犁湖を立てて単于と為す。是の歳は太初三年なり。
現代語訳
匈奴に留められた漢の使者は前後十数組に上り、匈奴の使者が来ると、漢もそのたびに留めて同じ数にした。この年、漢は弐師将軍李広利に西の大宛を討たせ、因杅将軍公孫敖に受降城(降伏者を受け入れる城)を築かせた。その冬、匈奴では大雪が降り、家畜の多くが飢えと寒さで死んだ。児単于は若く、殺戮を好んだので、国人の多くは不安を抱いていた。左大都尉が単于を殺そうとして、ひそかに人をやって漢に告げさせた。「わたしは単于を殺して漢に降りたい。漢は遠いので、兵が迎えに来てくれれば、すぐに事を起こす」。漢は初めにこの言葉を聞いたので受降城を築いたのであるが、それでもまだ遠いと考えた。その翌年の春、漢は浞野侯趙破奴に二万騎余りを率いさせて朔方の西北二千里余りに出撃させ、浚稽山まで行って引き返す約束とした。浞野侯は約束の期日に至って引き返した。左大都尉は事を起こそうとしたが発覚し、単于は左大都尉を誅殺し、左方の兵を出して浞野侯を攻撃した。浞野侯は進みながら敵の首や捕虜を数千人得た。帰還の途中、受降城まであと四百里という所で、匈奴の兵八万騎が浞野侯を包囲した。浞野侯は夜に自ら陣を出て水を探したところ、匈奴にひそかに捕らえられ、生け捕りにされた。匈奴はそのまま浞野侯の軍を急襲した。軍中では郭縦が護軍、維王が指揮官となっていたが、二人で相談して言った。「校尉たちは将軍を失ったことで誅殺されるのを恐れ、互いに帰還を勧め合う者がいない」。こうして軍はとうとう匈奴に降って没した。匈奴の児単于は大いに喜び、そのまま別動隊を送って受降城を攻めたが、落とせなかったので、辺境に侵入して略奪して去った。その翌年、単于は自ら受降城を攻めようとしたが、到着する前に病死した。児単于は即位して三年で死んだ。その子は幼かったので、匈奴は叔父で烏維単于の弟の右賢王呴犁湖を立てて単于とした。この年は太初三年である。
解説
関連する章句
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史記 匈奴列伝呴犁湖単于立つ。漢光禄徐自為をして五原の塞を出づること数百里、遠き者は千余里、城鄣列亭を築きて廬朐に至らしめ、而して游撃将軍韓説・長平侯衛伉をして其の旁に屯せしめ、彊弩都尉路博徳をして居延沢の上に築かしむ。其の秋、匈奴大いに定襄・雲中に入り、数千人を殺略し、数々二千石を敗りて去る。行くゆく光禄の築く所の城列亭鄣を破壊す。又右賢王をして酒泉・張掖に入らしめ、数千人を略す。会々任文撃ちて救ひ、尽く復た得る所を失ひて去る。是の歳、弐師将軍大宛を破り、其の王を斬りて還る。匈奴之を遮らんと欲するも、至る能はず。其の冬、受降城を攻めんと欲す。会々単于病死す。呴犁湖単于立ちて一歳にして死す。匈奴乃ち其の弟左大都尉且鞮侯を立てて単于と為す。漢既に大宛を誅し、威外国に震ふ。天子の意遂に胡を困しめんと欲し、乃ち詔を下して曰く、「高皇帝朕に平城の憂ひを遺し、高后の時単于の書絶だ悖逆なり。昔斉の襄公九世の讎を復し、春秋之を大とす」と。是の歳は太初四年なり。且鞮侯単于既に立ち、尽く漢の使の降らざる者を帰す。路充国等帰るを得たり。単于初めて立ち、漢の之を襲はんことを恐れ、乃ち自ら謂ふ、「我は児子なり。安んぞ敢へて漢の天子を望まん。漢の天子は、我が丈人の行なり」と。漢中郎将蘇武をして厚幣もて単于に賂遺せしむ。単于益々驕り、礼甚だ倨にして、漢の望む所に非ざるなり。其の明年、浞野侯破奴亡げて漢に帰るを得たり。其の明年、漢弐師将軍広利をして三万騎を以て酒泉より出で、右賢王を天山に撃たしむ。胡の首虜万余級を得て還る。匈奴大いに弐師将軍を囲み、幾ど脱せず。漢の兵の物故するもの什に六七。漢復た因杅将軍敖をして西河より出で、彊弩都尉と涿涂山に会せしむるも、得る所毋し。
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史記 匈奴列伝故約は、漢常に翁主を遣はし、繒絮食物を給すること品有り、以て和親す。而して匈奴も亦辺を擾さず。今乃ち古に反し、吾が太子をして質と為さしめんと欲す。幾ど無からん」と。匈奴の俗、漢の使の中貴人に非ざるを見れば、其の儒先なるは、以為へらく説かんと欲すと、其の弁を折く。其の少年なるは、以為へらく刺さんと欲すと、其の気を折く。漢の使匈奴に入る毎に、匈奴輒ち報償す。漢匈奴の使を留むれば、匈奴も亦漢の使を留め、必ず当たるを得て乃ち肯へて止む。楊信既に帰る。漢王烏を使はす。而して単于復た甘言を肴して、多く漢の財物を得んと欲し、紿きて王烏に謂ひて曰く、「吾漢に入りて天子に見え、面相約して兄弟と為らんと欲す」と。王烏帰りて漢に報ず。漢単于の為に邸を長安に築く。匈奴曰く、「漢の貴人の使を得るに非ずんば、吾与に誠語せず」と。匈奴其の貴人をして漢に至らしむ。病む。漢薬を予へて、之を愈やさんと欲するも、不幸にして死す。而して漢の使路充国二千石の印綬を佩びて往きて使ひし、因りて其の喪を送り、厚く葬ること数千金に直り、曰く「此れ漢の貴人なり」と。単于以為へらく漢吾が貴使者を殺せりと。乃ち路充国を留めて帰さず。諸々の言ふ所の者は、単于特に空しく王烏を紿くのみにして、殊に漢に入り及び太子を遣はして来り質たらしむるに意無し。是に於て匈奴数々奇兵をして辺を侵犯せしむ。漢乃ち郭昌を拝して抜胡将軍と為し、及び浞野侯朔方以東に屯して、胡に備ふ。路充国匈奴に留まること三歳、単于死す。烏維単于立ちて十歳にして死し、子烏師廬立ちて単于と為る。年少く、号して児単于と為す。是の歳は元封六年なり。此より後、単于益々西北し、左方の兵は雲中に直り、右方は酒泉・燉煌郡に直る。児単于立ち、漢両使者をして、一は単于を弔ひ、一は右賢王を弔はしめ、以て其の国を乖かしめんと欲す。使者匈奴に入る。匈奴悉く将ゐて単于に致す。単于怒りて尽く漢の使を留む。
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史記 匈奴列伝其の秋、単于渾邪王・休屠王の西方に居りて漢の殺虜する所と為ること数万人なるを怒り、召して之を誅せんと欲す。渾邪王と休屠王と恐れ、漢に降らんことを謀る。漢驃騎将軍をして往きて之を迎へしむ。渾邪王休屠王を殺し、并せて其の衆を将ゐて漢に降る。凡そ四万余人、号して十万。是に於て漢已に渾邪王を得、則ち隴西・北地・河西益々胡寇少なし。関東の貧民を徙して奪ふ所の匈奴の河南・新秦中に処らしめて以て之を実たし、而して北地以西の戍卒の半ばを減ず。其の明年、匈奴右北平・定襄に入ること各々数万騎、千余人を殺略して去る。其の明年春、漢謀りて曰く「翕侯信単于の為に計り、幕北に居り、以為へらく漢の兵至る能はずと」と。乃ち馬に粟して十万騎を発し、私負従の馬凡そ十四万匹、糧重は与からず。大将軍青・驃騎将軍去病をして軍を中分せしめ、大将軍は定襄より出で、驃騎将軍は代より出で、咸約して幕を絶りて匈奴を撃たしむ。単于之を聞き、其の輜重を遠ざけ、精兵を以て幕北に待つ。漢の大将軍と接戦すること一日、会々暮れ、大風起こる。漢の兵左右の翼を縦ちて単于を囲む。単于自ら度るに戦ふこと漢の兵に如く能はず。単于遂に独り身壮騎数百と漢の囲みを潰して西北に遁走す。漢の兵夜追ひて得ず。行くゆく匈奴の首虜を斬捕すること万九千級、北のかた闐顔山の趙信城に至りて還る。単于の遁走するや、其の兵往往にして漢の兵と相乱れて単于に随ふ。単于久しく其の大衆と相得ず。其の右谷蠡王以為へらく単于死せりと。乃ち自ら立ちて単于と為る。真の単于復た其の衆を得たり。而して右谷蠡王乃ち其の単于の号を去り、復た右谷蠡王と為る。
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史記 匈奴列伝又騎都尉李陵をして歩騎五千人を将ゐて、居延の北千余里に出でしむ。単于と会し、合戦す。陵の殺傷する所万余人。兵及び食尽き、解きて帰らんと欲す。匈奴陵を囲む。陵匈奴に降り、其の兵遂に没す。還るを得る者四百人。単于乃ち陵を貴び、其の女を以て之に妻はす。後二歳、復た弐師将軍をして六万騎、歩兵十万を将ゐて、朔方より出でしむ。彊弩都尉路博徳万余人を将ゐて、弐師と会す。游撃将軍説歩騎三万人を将ゐて、五原より出づ。因杅将軍敖万騎歩兵三万人を将ゐて、鴈門より出づ。匈奴聞き、悉く其の累重を余吾水の北に遠ざけ、而して単于十万騎を以て水の南に待ち、弐師将軍と接戦す。弐師乃ち解きて引き帰り、単于と連戦すること十余日。弐師其の家の巫蠱を以て族滅せらるるを聞き、因りて衆を并せて匈奴に降る。来り還るを得る者千人に一両人のみ。游撃説は得る所無し。因杅敖は左賢王と戦ひ、利あらず、引き帰る。是の歳漢の兵の出でて匈奴を撃つ者、功の多少を言ふを得ず、功御するを得ず。詔有りて太医令随但を捕ふ。弐師将軍の家室族滅せらるるを言ひて、広利をして匈奴に降るを得しむればなり。
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史記 匈奴列伝朕聞く、古の帝王は、約分明にして食言無しと。単于志を留めば、天下大いに安からん。和親の後、漢の過は先んぜず。単于其れ之を察せよ」と。単于既に和親を約す。是に於て御史に制詔して曰く、「匈奴の大単于朕に書を遺り、和親已に定まると言ふ。亡人は以て衆を益し地を広むるに足らず。匈奴は塞に入る無く、漢は塞を出づる無し。今の約を犯す者は之を殺さば、以て久しく親しむべく、後に咎無く、倶に便ならん。朕已に之を許す。其れ天下に布告し、明らかに之を知らしめよ」と。後四歳、老上稽粥単于死し、子軍臣立ちて単于と為る。既に立ち、孝文皇帝復た匈奴と和親す。而して中行説復た之に事ふ。軍臣単于立ちて四歳、匈奴復た和親を絶ち、大いに上郡・雲中に入ること各々三万騎、殺略する所甚だ衆くして去る。是に於て漢三将軍をして軍して北地に屯し、代は句注に屯し、趙は飛狐口に屯せしめ、辺に縁りて亦各々堅守して以て胡寇に備ふ。又三将軍を置き、長安の西の細柳、渭北の棘門、覇上に軍して以て胡に備ふ。胡騎代の句注の辺に入り、烽火甘泉・長安に通ず。数月にして、漢の兵辺に至り、匈奴も亦遠く塞を去り、漢の兵も亦罷む。後歳余にして、孝文帝崩じ、孝景帝立つ。而して趙王遂乃ち陰かに人を匈奴に使はす。呉楚反し、趙と合謀して辺に入らんと欲す。漢趙を囲み破り、匈奴も亦止む。是より後、孝景帝復た匈奴と和親し、関市を通じ、匈奴に給遺し、公主を遣はすこと、故約の如し。孝景の時を終ふるまで、時に小しく入りて辺を盗むも、大寇無し。今帝即位し、和親の約束を明らかにし、厚く遇し、関市を通じ、饒かに之に給す。匈奴単于より以下皆漢に親しみ、長城の下に往来す。漢馬邑の下の人聶翁壹をして奸蘭に物を出だして匈奴と交はらしめ、詳りて馬邑の城を売ると為して以て単于を誘ふ。
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史記 匈奴列伝其の秋、匈奴万騎入りて代郡の都尉朱英を殺し、千余人を略す。其の明年春、漢復た大将軍衛青を遣はし、六将軍、兵十余万騎を将ゐて、乃ち再び定襄より出づること数百里、匈奴を撃つ。首虜を得ること前後凡そ万九千余級。而して漢も亦両将軍を亡ひ、軍三千余騎。右将軍建は身を以て脱するを得たり。而して前将軍翕侯趙信は兵利あらず、匈奴に降る。趙信は、故の胡の小王にして、漢に降る。漢封じて翕侯と為す。前将軍を以て右将軍と軍を并せて分かれ行き、独り単于の兵に遇ふ。故に尽く没す。単于既に翕侯を得、以て自次王と為し、其の姊を用て之に妻はせ、与に漢を謀る。信単于に教へて益々北のかた幕を絶り、以て漢の兵を誘ひ罷れしめ、極に徼へて之を取らしめ、塞に近づく無からしむ。単于其の計に従ふ。其の明年、胡騎万人上谷に入り、数百人を殺す。其の明年春、漢驃騎将軍去病をして万騎を将ゐて隴西より出で、焉支山を過ぐること千余里、匈奴を撃たしめ、胡の首虜万八千余級を得、休屠王の天を祭るの金人を破り得たり。其の夏、驃騎将軍復た合騎侯と数万騎もて隴西・北地より出づること二千里、匈奴を撃つ。居延を過ぎ、祁連山を攻め、胡の首虜三万余人、裨小王以下七十余人を得たり。是の時匈奴も亦来りて代郡・鴈門に入り、数百人を殺略す。漢博望侯及び李将軍広をして右北平より出でしめ、匈奴の左賢王を撃つ。左賢王李将軍を囲む。卒四千人可り、且に尽きんとす。殺虜も亦当に過ぐ。会々博望侯の軍救ひ至り、李将軍脱するを得たり。漢の失亡数千人。合騎侯は驃騎将軍に期に後れ、及び博望侯と皆死に当たり、贖ひて庶人と為る。
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